天地伝(てんちでん)

当麻あい

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第二章

2-10

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    十


 言葉に甘えた訳ではなかったが、しばらく東堂のところで世話になった。一度、安心してしまったせいか、どこにも行く気にならなかった。
そうして何をするでもなく、一日ぼんやりとしていた。店の二階から、外を眺めていても、返事をしなくとも、東堂は何も言わなかった。飯の時以外、わしは構われることなく放って置かれた。
それはやさしさや、気遣いなどではなく、単に相手をしている暇がないのだった。それが東堂の「自然」なのだと思い、由紀の言葉を思い出した。だが、すぐに不快感が胸を押えこみ、目眩がした。わしは、考えることを止めた。
 夜になって、部屋に入って来た東堂から、みかんを受け取った。
皮ごとそれにかじりつきながら、障子の間からのぞく、月を見上げる。東堂も、灰色の着流しを翻し、窓際に腰かけると「今日も、しんどかった」と、言いながらあくびをもらした。鼻歌を口ずさみながら、みかんの皮をむきはじめた。その白い横顔を眺めながら、小さく笑みをもらす。
目ざとい東堂は、それに気がつき「何や、僕の顔になんかついとる?」と、言ってにやにやとした。鼻を鳴らして顔を背け「なんでもない」と、つぶやいた。
「なんや、ようやっと口訊いたやないか。僕ちょっと、不安やったよ。もしかして、話しもできん普通の犬に、ずっと話しかけてたんやないかって。頭おかしなったかなって」
 「なんだ、自覚はあったのか」
 抑揚のない声でつぶやいて、東堂の顔を見ると「ひどいなあ」と言って笑っていた。その様に、ついとタイマのことを思い出し、顔を歪めた。
 「いま、旦那のこと思い出したやろ」
 心底、愉快そうに笑った東堂に眉をひそめ「なぜだ」と、低くつぶやいた。東堂は、みかんを一つ口に入れると「だって、店に来た時の旦那と、同じ表情してはる」と、苦笑を浮かべた。その言葉に目を細め、黙りこんだ。その態度に東堂は頭をかいて「別に事情聴きたいと、違いますって。君も大概、用心深い子やね」と、外を眺めた。わしはその横顔を見つめ、つぶやいた。
 「伴侶はいないのか」
 東堂は頬づえをついて、木の柵に肘をついた。障子の隙間から、夜風が吹きこむ。それに裾をゆらせながら、微笑を浮かべていた。小さくうなずいて、とつとつと語りはじめる。
「こういう商売なんでね。家族なんぞつくったら、そら、もう気が気じゃないですわ。誰によう恨まれてるか、知れん。しかも、外見がこうなんでね。自分の血が続くのが、怖いってのもありますけど。それ以上に、一人が気楽なんですわ。守るもんがなくて、ふらふらしとるのは、なかなか、それはそれで、ええもんですよ」
 「そうか」と、だけ言って丸くなった。東堂は、静かになった闇のなかで、小さく声を上げて笑うと、ぼんやりと月を見上げた。灰色の双眸は、遠くを眺めながら瞬いた。こうして見ていると、たしかに異国人なのだが、話し出すと、ああなものだから、どうにも緊張感に欠ける。そう口を開こうとした時、東堂は苦笑を浮かべ、わしのことを見つめた。
 「父親が子爵でな。僕は愛人の、しかも下女まがいの日本人にたまたま手出して、はらまされた子なんや」東堂は茶色い頭をポン、と叩きながら醜悪に笑いだした。「捨ててまうか、売った方が、都合良かったんやろね。血も涙もない人やった。あの人にとって、僕は玩具か、家畜やったんやろうな」
 淡々と語る、その声はやけに冷えていた。わしは目を細め、黙って東堂の横顔を見つめる。
「十を超えるまでな、僕は僕の体や、この外見使こうて、稼いだんや。異人は珍しいさかい、嫌厭もされれば、好色もおるんや。人形にするには、これ以上の逸材はいないで。金さえあれば、金さえあれば。そう思いながら、感情も何も殺して、快楽に身をゆだねて、ただ息を吸って吐き、飯を食い、笑いをはりつけ、足を開いて生きとった。まるで動物やね」
 東堂は薄い笑みをくちびるの上に引いて、ゆっくりと立ち上がった。わしの前に立つと、着流しの間からのぞく白い足を折って、しゃがみこむ。帯を軽く引き下げ褌の間からのぞく、大きな切り傷の跡を見せた。
 「僕はな、子供が作れんのや」
 そう言って、笑った東堂の顔はひどく冷めたものだった。傷ついているのでもなく、憤慨も、悔恨も持たず、ただそうした事実がそこにあるのだ、とわしに知らせるだけだった。
こいつには、なにより執着がない。愛でる気持ちがない。育てる方法がない。否、どれも一つとして、知らないのだ。そのなんにもなさこそ、東堂が、どのような時間を、どのように過ごしてきたのかを、もの語っているようだった。
 腹をさすりながら「僕と旦那の違いって、なんやと思います?」と、つぶやいて、わしの双眸をじっと、見つめた。小さく息をついて「少なくとも、そんなことではないだろうな」と、言って目を閉じた。それに対して、はは、と声をもらして笑うと、わしの頭をなでた。
 「おおきに」
 そう言って笑った東堂の声は、今までにないほどおだやかなものだった。

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