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第二章
2-11
しおりを挟む十一
翌日、目を覚ますと、洋服姿の東堂がわしの顔をのぞきこんでいた。
あまりのことに驚き、身を引くと「あ、ようやっと起きた」と、言って灰色の眼を瞬かせ笑った。馴れ馴れし過ぎやしないか。そう思い睨んだが、気にした風でもなく、「下においで。いい加減で、手伝ってもらいまっせ」と、言って部屋を出て行った。
わしは大きなあくびを一つもらして、起き上がる。廊下に出ると、床板がきしんだ。老朽化して、いまにも崩れそうな、木造りの階段を降りて行った。
当初この店に上がった時は、周りを見る余裕がなかったが、しばらく休んだおかげか、ようやくこの店の全体像を、把握することができた。
普通家屋の二階建てで、一階が東堂の経営している「何でも屋」らしい。十二畳ほどの部屋は、出るとすぐ、一段下がった石造りの玄関に隣接している。そこに座って、客の相談を聞いたり、依頼を受けたりするのだそうだ。
部屋の周りを固めるように、いくつかの棚が並んでおり、中央には瑠璃色の小さな座卓が置いてある。そこで時折、茶や煙草をのんだり、世間話をしたり、趣味の読書などをして、一日を過ごしている。
もちろん、それは依頼のない時の過ごし方なのだそうだ。忙しさも、まちまちで、依頼の入る時は、一日に十件以上もあるが、無い時はまったくない。それでも、常連がいるから、食いっぱぐれることは無いのだと、言う。
わしは、瑠璃色の座卓の横にふせると「こんな怪しい店の常連などおるのか」と言って、鼻を鳴らした。東堂は黒いワイシャツの袖のボタンを、きちんと閉めると、両足を玄関のうえに垂らして、愉快そうに笑った。その向こうでは、光が射していた。玄関の戸が開いているため、往来を行く人々の下駄や、靴や、足やらが、のぞいて見えた。
「世の中、いろいろの人がおるっちゅうことや」
「貴様がそれを言うのか」
「僕が言うんや、間違いないやろ。ほな、出かけて来ますさかい。店番、よう頼みましたよ」
あわてて言うと、茶色い革靴を履いて飛び出そうとするので、わしは驚いて起き上がり、声を荒げた。
「おい、ちょっと待て、わしは」
「大丈夫や。客が来たら、適当に待たしといてくれたらええ。そんな長いこと、店空ける訳やないから。ほな、お頼み申しまっせ。八枯れはん」と、ふざけた調子で言うと、往来に出て行ってしまった。信じられない男だ。
憮然として、また元の位置に戻った。玄関口から吹きこむ風は温かく、まるで春の訪れのようだった。やわらかな陽光の照り返す、硝子のかがやきが、目にまぶしかった。
往来のざわめきが、耳に心地よく、眠りに誘われる。瞼を閉じて、あくびを一つもらした。ここにいるのも悪くない。東堂シマオのそばで、店などをやるのも案外と悪くないのかもしれない。つい苦笑をもらした。
「家族」が理解できないと、言う。東堂シマオの気持ちのほうが、わしには心安いものだった。奴にはなにもないと言ったが、それはわしにも言えることだ。そして、タイマの本邦な振る舞いは、追い風を巻き起こし、かけ抜けてゆく姿は、わしには快いものだった。すべてを、破壊してくれる。そう思い、安心していた。あいつがそうして一人であればあるほど、わしもみずからの孤独を意識しないで済んだ。
だが、一人の女と家庭を生きようとする、タイマの生だけは遠い彼方のものだ。わしは人ではない。化け物でもない。ただの大きな黒犬で、肉体を持ち、考え、話しもするが、やはりこの世で生きるには、あまりにも遠く、外れた生なのだ。
「こら、早く来なさい」
凛とした女の叱る声に、目を開けると、いつの間に店内に入っていたのか、小さな子供が、戸口の前でわしをじっと、見つめていた。男だろうか、女だろうか。茶色い着物を着つけた子供は、ぼさぼさの頭を叩かれ、母親に腕を引かれて行った。店から引きずり出される時も、わしをじっと見つめている。その双眸は純粋だった。
なんだか町と言うのも平穏なものだな。不意と、笑みをこぼした瞬間、聞こえるはずのない声が、上から降りてきた。
「なんだ。おだやかに、笑うようになったじゃないか」
驚いて、声のした方を振り返った。老朽化した板をきしませながら、階段を降りてきた男を見つめ、言葉を無くした。タイマは、深緑の着流しを翻し、いつものように白髪をかきあげて快活に笑っていた。
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