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第二章
2-13
しおりを挟む十三
「おい、こんなそばで事が起こっているんだ。見ないフリは無いんじゃないか?」
そう言って、タイマはわしの頭をつかみ、玄関の方へ無理矢理、顔を向けさせた。わしはそれに抗いつつも、じょじょに視界の端に厄介なものが、入りこんでくるのを防ぐことができなかった。
先に外へ出た東堂の足が、戸口の向こうに見えた。その足元には、女が横たわっていた。若い娘だ。おそらくタイマと同じか、それ以下だろう。娘は、傷だらけで着物も汚れていたが、かろうじて意識は保っているようだった。口の端に、赤黒い液体をこびりつけたまま、のろのろと店の中に入って来た。
わしの態度に、業を煮やしたタイマが、ため息をついて立ち上がる。玄関へ降りると、娘はびくり、と大きく体を震わせた。まるで、それが条件反射のように見えた。娘は、つねに何かに、おびえているようだった。
「動かないほうがいい。ひどい怪我だ」
タイマは優しく微笑み、娘の肩を抱いた。しかし、娘はそれを拒み、あわてて立ち上がろうとした。が、それも足元がおぼつかないせいで、すぐによろけて、しゃがみこんでしまった。タイマは娘の体を支え、「ほら、言わんこっちゃない」と、言って顔をしかめた。
「いえ、大丈夫です。ご迷惑を」
「迷惑なものか。良いから、あなたは座敷にお上がりなさい。ほら、八枯れ、娘さんが美しいからって、ぼーっとしているんじゃないよ。早く手伝ってくれ」
タイマに言われ、ハッとした。もちろん、見惚れていた訳ではなかったが、なにやら伐が悪く、黙って玄関の方へと降りて行った。タイマは、その娘をわしの背に乗せ「二階でしばらく休ませてやってくれ。俺は、東堂の方が気になる」と言って、外へと飛び出して行った。
言われた通り二階へと駆けあがると、奥の六畳間で娘を下した。娘は、畳の上で横たわると「ご恩は、ご恩は、かならず」と、つぶやいていた。その顔は青白く、悲愴感がこびりついているようだった。頬は泥土で汚れ、いたるところに打撲と、擦り傷の跡がついていた。新しいものからは、絶えず血が流れており、その鮮血はすぐに畳を汚した。
その様を見ただけでも、事は穏やかにすまないものに違いない。向こうは、タイマがついているのだから、やられると言うこともないだろう。しかし、気にはなる。ここで娘を置いて行って良いものか。もし、狙いが娘にあるのだとしたら、一人にはできまい。状況も把握できずに、動く方がよっぽど危険だ。
表に出るか。しばらく迷っていると、男の悲鳴が聞こえた。わしが二階の格子の間から顔を出そうと、起き上がった瞬間だった。
「おのれ口惜しい」
背中が焼けた。あまりの熱さに振り返ると、先ほどまで血だらけだった娘は、真赤に燃えていた。赤く長い髪は上部でちぢれ、全身を炎の渦で包み込み、火花を散らしていた。ぼっ、ぼっ、と散る火の粉が、畳を焼いた。赤黒い双眸を瞬かせ、睨みつけてくる。娘と対峙して舌を打つと、距離を取った。
「貴様、妖怪か」
娘は炭火の焼けるような音を出して、笑い出した。
「お主も鬼じゃろう。なぜ人と居る」
「訳ありでな」
「堕落したものよ」
そう言って、わしの体を押さえつけてくると、上に跨った。ちりちり、と毛を焼く匂いが、鼻につく。燃えるような娘の双眸をまっすぐ睨みつけ、牙をのぞかせた。
「身の程知らずが。喧嘩を売る相手を間違えたな」
「なにを言うか」
「鬼の恐怖を知るがいい」
娘が顔を歪めた瞬間、わしは黄色い酸の息を吐きだした。それは、糸のように細くたなびき、部屋の中をおおっていった。黄色くにごった室内で、娘は口元を押さえて、低くうめいた。腕から力が抜け、肩を落とすと、畳の上に倒れた。それを静かに眺めながら、起き上がった。娘の体を包んでいた炎は、ろうそくの火ほども、残っていなかった。
「肺を酸で満たし、皮膚がただれ、骨が溶けてゆく痛みを、じっくり味わうが良い。これが死じゃ」
そう言って、双眸をのぞきこむと、娘は恐怖で息を飲んだ。そら、どうせすぐに命乞いをしてくるに違いない。その様を思い描き、にやにやと笑みを浮かべた。
そうだ。わしは鬼だ。これこそが、本来の姿ではなかったか。忌み嫌われ、畏怖され、嫌厭され、遠ざけられる。それこそが、化け物の在り方ではないのか。
タイマと長いこと時間を共にしていたせいで、忘れていた。人を、生物を、恐怖と絶望の底に、叩き落とす快楽を。そのよろこびを。強いものが、弱いものを支配する摂理を。享受し、全うすることを、わしは長いこと、忘れていたのではないか。
「だから、こんなにも弱くなったのだ」
肉の焼ける匂いが立ち込める。胸が躍る。胃が焼ける。その骨を、肉を、血を、いますぐ口に含みたい。噛りつきたい。人を、魔を、生を喰いたい。
わしは舌舐めずりをして、娘の上に乗りあがった。娘は捕食動物のように、脅えきっている。さきほどまで、力強くかがやいていた双眸は、すでに光を失っていた。その恐怖に冷えてゆく瞳の色が、わしにはたまらなくなつかしく、親しいもののように思えた。そうだ。これがわしの「生」だ。
首に噛りつこうとした。腹は減っている。もう、何年も生物を喰っていないのだ。この生肉の匂いをかいで、どうして我慢ができようか。そう何度も思う。しかし、わしの口は一向に開かない。鼻を娘の首元に押しつけても、飲み下しきれないよだれだけが、そこを濡らした。
喰えない。娘のおびえた表情が、震える肩が、吐く息が、流す涙が、本能を押しとどめる。可哀想だなどと、微塵も感じない。それでも、わしはこの娘にむさぼりつくことが、できない。まるで由紀を見ているようで、胃の底が熱く、ひっくり返りそうなのだ。
「どうか、お助けください」
そう言った声は、人間のものではなかった。甲高い鳴き声は獣のようだ。怪訝に思って見るとわしの体の下で、野生の狸が全身を縮みあがらせて、嘆いていた。なるほど、と思いついに力が抜けた。
「弱いものいじめは止すんだな」
快活な笑いに振り向くと、深緑の着流しの袖に両腕をつっこんだタイマが、立っていた。わしはそれに鼻を鳴らして、狸の上からどいた。同時に、化け狸はるいるいと泣きながら格子窓から飛び出して逃げた。
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