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第三章
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しおりを挟む七
瓦屋根の上に飛び上がって息をついた。不意と、下を見ると、見なれた藍色の着物が目に入った。しかし、それは寺子屋の方とは、逆の方向へ向かっている。わしは、一度立ち止まり、向かう先を遠目に、確認した。裏通りの先は大きな橋を渡っても、辺境の村しかない。
たしかずいぶん前に、火事でなにもかも、焼け落ちたのじゃなかったか。そんな場所、昼間でさえも人はあまり寄りつかないものだ。舌打ちをすると、走る速度を上げた。裏通りの入口に着地して、小走りに近づいてきた登紀子の名を呼んだ。
「感心せんな。塾をさぼって散策か?」
そう言って、牙をのぞかせ微笑を浮かべると、登紀子は錯乱状態のまま、わしにつかみかかってきた。女児とは思えないほどの力に押され、地の上に転がった。子どもにしては、体躯がでかい。長い手足が、容易にわしの首や、体を押えこんでくる。見上げると、登紀子の顔に色はなく、双眸は、影のように真っ暗だった。
とり憑かれたか。登紀子の腕を払って、犬の毛皮を脱いだ。一瞬、わしが力を抜いたせいか、バランスを崩して、地に手をついていた。そこを、後ろから片手ではがいじめにする。大鬼のわしの体は、七尺(約二メートル)ほどある。いかに登紀子が暴れようとも、鬼の力に敵うはずがなかった。
「はなせぇ、行かせろ、あの女を、殺すのじゃ」
そう叫んだ声は、低く、喉に引っかかるような、しわがれた声だった。しばらくして、ようやくそれが登紀子の発したものだとわかり、わしは舌打ちをした。地面をひっかくたびに、登紀子の爪の間から、血が流れる。それに眉根をよせると、両腕をつかんで、背中に回した。
「この娘は、傷をつけたら承知せんぞ」
耳元でそうつぶやくと、登紀子は、酸の匂いに咳こんだ。わしは、おっと、と顔を引いて眉根をよせた。これ以上、近づくと、登紀子の体が溶けてしまう。脆弱な生物は労れ。それも、タイマから教えられたことだった。いまは、あいつも、その一人なのだが。
咳こむ音と同時に、目を見開いたまま、わしの名を呼んだ。少年のような低い響きだが、それは確かに、登紀子のものだった。
「いっぱい、死んでるの、八枯れ」
「落ち着け、もう大丈夫だ」
わしは上に跨ったまま、背中をなでた。手のひらに触れた、冷たい肌の感触に、登紀子の身体が汗でぐっしょり、ぬれていることがわかる。小刻みに震える、細い指を巡らして、登紀子は目の前の裏通りを指さした。
「急に、視えたの、そこの納屋で、赤い水たまり。子どもがいる。泣いてる。鬼が、わたしを踏もうとしていた。首を、踏んで、それで」
「わかった。もう黙れ」
涙をこぼしながら、震えるくちびるを動かす登紀子の眼を、片手でおおった。力尽きたのか、突如、脱力したその身体を支えながら、その場に座り込んだ。藍色の着物が少しはだけ、胸元や太ももが露出していた。そこは泥土に汚れ、砂利でひっかいたのか、細かな傷がつき、血がにじんでいた。
眉間に皺をよせて、着物の裾を直すと、登紀子の顔色をうかがう。肌は青白く、玉の汗が浮かんでいた。くちびるは青く、よった眉間の皺は苦しそうだった。幸い、大きな怪我はしていないようだ。頬についた泥を、手の甲で払い落しながら、わしはひとまず、息をついた。
犬の肉の中に戻ると、登紀子を背負い、裏通りに入った。先ほどから、ただよっていた臭気には、覚えがある。まるで、あの化け狸が喰らっていた死体の腐乱した匂いのように、胸にせまるものがある。足元を茶色いネズミが走り抜ける。ひっくり返った桶の中には、白い蛆がわいていた。
暗い路地を抜けた先に、登紀子の言った、崩れかかった納屋が一軒あった。わしは、双眸を細めて、喉を鳴らす。臭気は、その薄暗い納屋の入口のすきまから、ただよってきていた。
中をのぞき見て、一瞬、言葉を無くした。
そこには、大量の嬰児の死骸が転がっていた。首をしぼったものや、踏みつぶしたもの、打ったもの、壁に投げつけられたものが、赤黒い血で一面を汚している。窓から射した陽の光に干からびたものもあれば、白骨化しているものもあった。その死体の多くには、虫がたかっていた。わしが、建てつけの悪い引き戸を引くと同時に、蠅が一斉に飛びまわった。
「これが、噂の正体か」
卑屈な笑みを浮かべると同時に、死体のそばにこりかたまっていた影が、群れをなして、蠢きはじめた。そやつらは、「口惜しい、殺してやる、あの女を、やめてくれ、痛い、苦しい」と、わめきながら、膨らんでは形を変えて、空中をただよっていた。
なるほど、登紀子はこいつらの一部を、偶然、口にしてしまったに、違いない。だが、ものを喰うたびにこれでは、骨が折れる。なにより、このものどもを喰うよろこびを知らぬなど、哀れなものだ。
牙をのぞかせ、舌舐めずりをした。肉もうまいが、魔もまた絶品じゃ。タイマは同種を喰うのは、気色悪がってしなかったが、わしは潔癖ではないからな。
それを知ってか知らずか、馬鹿な影の群れは、ますます大きく膨らみ、いまにもはち切れそうだった。
「悪く思うな。鬼は、無類の大食漢じゃ。わしは、この娘と違って、貴様らに情をよせたりはせん。覚悟しろ」
わしは大きく口を開いて、影の塊を丸のみにした。
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