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第一章
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九
「赤也、お母さんが呼んでいるよ。早く行ってあげなさい」
線香の匂いに満ちた和室の襖を開けて、父さんが顔を出した。
思いの他、少しやつれているその頬を見て、ばあさんがもう長くないのだと言うことを、知る。
僕は、軽くうなずいてから、立ち上がると、先を行こうとした八枯れを部屋に置いて、襖を閉めた。
出て行く間際、八枯れは、不満そうな目をしていたが、さすがにばあさんの部屋にまでは連れては行けない。
勘が良い、と言ったのは八枯れでは無かったか。それとも、あいつもばあさんが心配なのだろうか。だとしたら、僕のことばかり「人間くさくなった」と、馬鹿にできないな。うかつな奴だ。
暗く、湿気くさい廊下を抜けて、奥座敷の襖の前で足を止めた。暗がりで、何か小さなものが蠢いた気がしたが、見なかったフリをした。
近頃、妙なものが家に増え始めている気がする。盆も過ぎたと言うのに、前にも増して、鬼や河童や天狗や、形さえも成さないものが、家中を歩き回っている。
やはり、ばあさんがこの家を守っていたからだろうか。
年齢がいっているのだ。次第、こうなるだろう、と言うことは目に見えていたはずだ。それなのに。なぜ、八枯れは、僕になにも言わなかったのだろうか。僕は、ため息をついた。「赤也です」と言って、ばあさんの部屋の襖を開けた。
部屋の中央で、布団をかぶり、仰向けに寝ているばあさんに、笑みを向けた。しぼりきったしわくちゃの雑巾のような、干物のような体が、ゆっくりと動いた。
よくこれで生きている。素直な感想だった。それでも、ばあさんの眼力は強く、僕を見ると、「こっちへ来なさい」と、はっきり言った。本当にこれが、死にかけの年寄りなのだろうか。思いながら、襖を閉めて、布団のそばで正座をした。
「赤也」
「はい」
「お前、鬼を飼っているね」
一度、強張った表情をそのままにして、僕は黙りこんだ。
これでは、肯定しているも同然ではないか。僕の方がよっぽど、うかつだったようだ。ばあさんは、真っ黒い瞳で、まっすぐに見つめてくる。
これはもう逃げられまい、と僕は観念して、小さく「はい」と、つぶやいた。ばあさんは、しばらく黙っていたが、小さく口元をゆるめて笑いだした。
「そうかい。そうだろうよ。お前は、昔からそうだったからね」
「不気味でしたか」僕が苦笑して、そう言うと、ばあさんはやさしく頬をゆるめて、首を振った。
「お前なんか可愛いものさ。私が若い頃はね、鬼女だ、般若だ、と好きに騒がれたものだよ。なつかしいねえ」
ふふふ、と声をもらして笑った声が、恐ろしく感じたのは、後にも先にも、この時だけだ。
小さいころから、ばあさんだけは苦手だったが、似た者同士だったせいだろうか。否、僕よりもこの人の方が、よっぽど質が悪かったにちがいない。
僕は居住まいを正して、ばあさんと向き合った。
「この家をずっと守っていたのは、おばあさんなんですね」
ばあさんは、天井を見つめたまま、静かに微笑んだ。
こけた頬には、骨が浮き出ていたが、その肌の白さと、黒い瞳の透明さは、若い頃、ばあさんがいかに活発で、聡明で、美しかったのかを、物語っているようだった。
「もう、弱い邪気を祓う気力も残っていないよ。すまないね。お前が、盆の時に何度か危ない目にあったのを知っていた」
「あんなもの、なんでもないです」
ばあさんは、少しだけ頭を動かして、僕の方を向くと、真摯な目をして言った。
「気をつけなさい。鬼を飼うとなると、それ相応の気力がいるのだからね。うっかりすると、とり殺されてしまうからね」
僕は、口元を歪めて、なんとも答えられないでいた。ばあさんは、微笑をこぼして「そいつは、八枯れか」と、言った。
今度こそ、僕は驚いて「えっ」と小さく声をもらしてしまった。ばあさんは、また、ふふふと笑った。
「わかるよ。大概の鬼は害を成すんだ。だが、お前を守っている鬼と知って、もしかして、と思ったのさ」
そう言って笑ったばあさんの笑顔は、本当に美しいものだった。
僕は、ばあさんと八枯れが、どのような関係だったのか、聞こうとは思わなかった。
「八枯れに、言っておくことがありますか?」そう言って微笑むと、ばあさんは苦笑をもらして、「そんなものないよ。さっさとくたばれ。とでも言っておいておくれ」と、言った。ばあさんらしいな、と僕も苦笑をもらして、それ以上のことは何も言わなかった。ばあさんの小さな手のひらをつかみ、顔をのぞきこんだ。
「もう、行きますか」
ばあさんは瞼を閉じて、小さく笑んだ。そして、「そうだねえ。そろそろだろうねえ」とつぶやいた。
気のせいか、ばあさんの全身が、うすく光っているように見えた。ばあさんは、最後に遺書を残していることと、僕の異様なことを、両親はもうとっくに気づいていることを、教えてくれた。そして、なぜ最後を僕に看取らせたのかも、書き残してあると、言った。
つないでいた、ばあさんの手は温かく、そこから、ばあさんの全身を包んでいた光が、僕の体のなかに、一気に流れ込んできているように感じられた。それだけでも、なぜ僕がここに呼ばれたのか、わかったような気がした。
「赤也、お母さんが呼んでいるよ。早く行ってあげなさい」
線香の匂いに満ちた和室の襖を開けて、父さんが顔を出した。
思いの他、少しやつれているその頬を見て、ばあさんがもう長くないのだと言うことを、知る。
僕は、軽くうなずいてから、立ち上がると、先を行こうとした八枯れを部屋に置いて、襖を閉めた。
出て行く間際、八枯れは、不満そうな目をしていたが、さすがにばあさんの部屋にまでは連れては行けない。
勘が良い、と言ったのは八枯れでは無かったか。それとも、あいつもばあさんが心配なのだろうか。だとしたら、僕のことばかり「人間くさくなった」と、馬鹿にできないな。うかつな奴だ。
暗く、湿気くさい廊下を抜けて、奥座敷の襖の前で足を止めた。暗がりで、何か小さなものが蠢いた気がしたが、見なかったフリをした。
近頃、妙なものが家に増え始めている気がする。盆も過ぎたと言うのに、前にも増して、鬼や河童や天狗や、形さえも成さないものが、家中を歩き回っている。
やはり、ばあさんがこの家を守っていたからだろうか。
年齢がいっているのだ。次第、こうなるだろう、と言うことは目に見えていたはずだ。それなのに。なぜ、八枯れは、僕になにも言わなかったのだろうか。僕は、ため息をついた。「赤也です」と言って、ばあさんの部屋の襖を開けた。
部屋の中央で、布団をかぶり、仰向けに寝ているばあさんに、笑みを向けた。しぼりきったしわくちゃの雑巾のような、干物のような体が、ゆっくりと動いた。
よくこれで生きている。素直な感想だった。それでも、ばあさんの眼力は強く、僕を見ると、「こっちへ来なさい」と、はっきり言った。本当にこれが、死にかけの年寄りなのだろうか。思いながら、襖を閉めて、布団のそばで正座をした。
「赤也」
「はい」
「お前、鬼を飼っているね」
一度、強張った表情をそのままにして、僕は黙りこんだ。
これでは、肯定しているも同然ではないか。僕の方がよっぽど、うかつだったようだ。ばあさんは、真っ黒い瞳で、まっすぐに見つめてくる。
これはもう逃げられまい、と僕は観念して、小さく「はい」と、つぶやいた。ばあさんは、しばらく黙っていたが、小さく口元をゆるめて笑いだした。
「そうかい。そうだろうよ。お前は、昔からそうだったからね」
「不気味でしたか」僕が苦笑して、そう言うと、ばあさんはやさしく頬をゆるめて、首を振った。
「お前なんか可愛いものさ。私が若い頃はね、鬼女だ、般若だ、と好きに騒がれたものだよ。なつかしいねえ」
ふふふ、と声をもらして笑った声が、恐ろしく感じたのは、後にも先にも、この時だけだ。
小さいころから、ばあさんだけは苦手だったが、似た者同士だったせいだろうか。否、僕よりもこの人の方が、よっぽど質が悪かったにちがいない。
僕は居住まいを正して、ばあさんと向き合った。
「この家をずっと守っていたのは、おばあさんなんですね」
ばあさんは、天井を見つめたまま、静かに微笑んだ。
こけた頬には、骨が浮き出ていたが、その肌の白さと、黒い瞳の透明さは、若い頃、ばあさんがいかに活発で、聡明で、美しかったのかを、物語っているようだった。
「もう、弱い邪気を祓う気力も残っていないよ。すまないね。お前が、盆の時に何度か危ない目にあったのを知っていた」
「あんなもの、なんでもないです」
ばあさんは、少しだけ頭を動かして、僕の方を向くと、真摯な目をして言った。
「気をつけなさい。鬼を飼うとなると、それ相応の気力がいるのだからね。うっかりすると、とり殺されてしまうからね」
僕は、口元を歪めて、なんとも答えられないでいた。ばあさんは、微笑をこぼして「そいつは、八枯れか」と、言った。
今度こそ、僕は驚いて「えっ」と小さく声をもらしてしまった。ばあさんは、また、ふふふと笑った。
「わかるよ。大概の鬼は害を成すんだ。だが、お前を守っている鬼と知って、もしかして、と思ったのさ」
そう言って笑ったばあさんの笑顔は、本当に美しいものだった。
僕は、ばあさんと八枯れが、どのような関係だったのか、聞こうとは思わなかった。
「八枯れに、言っておくことがありますか?」そう言って微笑むと、ばあさんは苦笑をもらして、「そんなものないよ。さっさとくたばれ。とでも言っておいておくれ」と、言った。ばあさんらしいな、と僕も苦笑をもらして、それ以上のことは何も言わなかった。ばあさんの小さな手のひらをつかみ、顔をのぞきこんだ。
「もう、行きますか」
ばあさんは瞼を閉じて、小さく笑んだ。そして、「そうだねえ。そろそろだろうねえ」とつぶやいた。
気のせいか、ばあさんの全身が、うすく光っているように見えた。ばあさんは、最後に遺書を残していることと、僕の異様なことを、両親はもうとっくに気づいていることを、教えてくれた。そして、なぜ最後を僕に看取らせたのかも、書き残してあると、言った。
つないでいた、ばあさんの手は温かく、そこから、ばあさんの全身を包んでいた光が、僕の体のなかに、一気に流れ込んできているように感じられた。それだけでも、なぜ僕がここに呼ばれたのか、わかったような気がした。
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