逢魔伝(おうまでん)

当麻あい

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第一章

1-8

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   八
 
 「さすが、盆の時期はにぎやかだ」
 縁側で丸まったまま眠っていた八枯れの隣に座り込み、もう灰になっていた蚊取り線香を、豚の形をした容れ物のなかから取り出した。
 新しいのに火をつけた時、パタパタと僕の後ろを、何かが走りぬけて行く音がした。僕は学生鞄の中から護符を取り出して、学ランのポケットにつっこむと、そのまま気がつかないふりをして、縁側の外に足を下した。
 そのとき、つめたい手が、足首をつかんだ。
 それが、強い力で僕の体を引きずり下ろす。
 胸を強かに打ちつけて、ぐう、と小さく声を上げた。
 内臓を打ったせいか、しばらく腕がしびれて力が入らず、声も出ない。八枯れ、とかすれた声で呼ぶが、深く寝入っているのか、気がつかないようだった。これは、まずい、と思ったが、ずずず、と軒下に引きずりこまれはじめた。僕は、「よせ、いいのか。僕がそっちに行ってもいいのか」と、つぶやくと、つめたい手はますます強く、僕の足をつかみこんだ。そして、背中に乗ったそいつは、僕の耳に、しめった息を吹きかけた。
 「禍の元。稀有な子供。わたしは鬼でも妖怪でもないよ。人間の霊さ。お前たちが憎い。生きたものが憎い」
 僕は、子供のころ以来、感じたことのなかった寒気を思い出した。
 鬼や妖怪などの異形など、こわくもないが、もとが人間の形をしているものは、この世で、もっとも恐ろしいもののように思えた。なにより、こいつは、僕を恐れない。それが、恐ろしいのだ。
 背中のものが、高い声で笑った。「お前は、乱暴な子供だったね。いつもここで見ていたよ。みな、お前を怖がっていた。嫌っていた。その目も、鼻も、口も、すべて気味悪い。お前が異形と呼ぶものよりも、よっぽどお前は異形のものさ。赤也、お前、本当に人間かい?だって、お前はいつでも一人ぼっちじゃないか。可哀想な赤也」
 そいつは、僕の首を絞めはじめた。
 とうとう、声さえ出せなくなった。そいつは、鳥肌の立つほどつめたい声で、そっとささやいた。
 「知っているかい?悪魔はぞっとするほど、美しい容姿をしているんだそうだ。赤也。お前は鬼の子じゃ。お前は、悪魔じゃ。お前の父も母も、本当はお前が気味悪くて、気味悪くて、しかたがないのじゃ。お前は、恐ろしい子だからのう」
 「なにを今さら」
 頭上で、八枯れの不機嫌そうな声が聞こえた。それと、同時に僕の体は、暗い軒下から引きずり出された。しばらく咳きこみ、首を押えていると、背中で女が悲鳴を上げていた。
 ふり返って見ると、三メートルもある長身の青鬼が、女の腕を喰っているところだった。僕は、骨が砕かれる音を聞きながら、苦笑をもらした。
 「なぜ、鬼の姿をしているんだ」
 八枯れは、口のまわりに赤い血をこびりつけたまま、三つ目を僕の方に向けて、細めた。
 「盆じゃからな。力が強まっとるんじゃ。しかし、腹も減る。お前の家は大賑わいで、好都合じゃ」
 しかし、だらしないのう。赤也。
 「何の話だい」僕はようやく起き上がることができた。
 ゆっくりと立ち上がり、砂を払うと、縁側に向かった。八枯れは僕の腕をつかみ、ひょい、と軽々しく持ち上げると、乱暴な動作で縁側に下した。
 「貴様、ちと弱くなったな。昔はもっと残忍だったろう。まったく、人間くさくなりおって。面倒なことじゃ」八枯れは、袖に手をつっこみ、憮然とした表情で僕を見下ろした。まったく、いつもと立場が逆転しているので、見ていておかしくなった。
 「そうだな。でも、良いことだ」
 僕がそう言って笑うと、八枯れは眉間に皺をよせた。
 「良くない。護符をやったろう。たまには、自分で身を守れ」
 「人が苦手なんだよ」
 八枯れは、高らかに笑い、でかい体を折って、僕の隣に座りこんだ。
 「おかしな奴じゃ。人間くさくなっとるくせに、人は苦手ときたものだ」
 「苦手さ。お前たちと違って、純粋じゃないからね」
 そう言って、八枯れを見上げる。
 僕の言葉に驚いたのか、三つの目を丸くして、しばらく顔をのぞきこんできた。それに微笑をもらして、「ところで、鯉はどこに行ったんだ?肝心な時に役に立たんな」と、辺りを見回した。八枯れは、怪訝そうな顔をしたまま、「あいつは里帰りじゃ。盆だからな」と言った。
 「鯉にも、里があるのか」と、おかしくなって笑った。
 どうやら、鯉だけが住む川があるんだそうだ。そこには、哲学者や詩人や音楽家や、いろいろな妖怪がいるらしい。
 僕がそれを愉快そうに聞いていると、八枯れはその様子をしばらく眺めてから、何を納得したのか、一人でうなずいていた。
 「ところで、お前はいつまでその姿なんだ?母さんたちには見えやしないだろうな?」
 「盆が終わるまでじゃ。安心しろ。お前以外に、見える人間はおらん」
 「ばあさんが、いるじゃないか」
 「あれは、人間じゃない。異形に違いない。女子のくせに、腕っぷしも強いし、気性も荒かった」
 今度は、僕が目を丸くして、八枯れを見上げた。八枯れは渋い顔をしたまま、黙りこんだ。もしかすると、僕と出会う前は、ばあさんにこき使われていたのかもしれん、と密かに考えた。それはそれで、また愉快だな、と笑みをこぼした。
 「お前は、ずいぶん長生きなんだろうね」
 八枯れを見ると、どこから取り出したのか、煙管をくわえて、それに火をつけていた。くゆらす紫煙と、蚊取り線香の白い煙が混ざり、庭先へと消えていった。
 「当り前じゃ。貴様ら人間よりもな。ずっと、長く生きとるさ」
 「ばあさんは、僕のようだったかい」
 学生服を脱ぎながら、そう言って笑うと、八枯れは驚いた顔をして、しかし、すぐに苦々しく口元をゆがめ、「貴様よりも、ひどい鬼じゃった」と、つぶやいた。
 やはり、ばあさんは只者じゃなかったのだなあ、と感心した。それきり、互いに黙り込んだまま、池の水面に浮かぶ、睡蓮の花を眺めていた。
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