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第二章
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第二章
一
紅梅の咲き始めたころ、中学を卒業してすぐ、僕は当主として、本格的に働きはじめた。
もちろん、金を稼ぐための仕事ではない。
むしろ、そちらの方面はからきしだ。では、何をやるのかと聞かれると、これと言って、やることもないような気がする。
池には、清浄な錦の龍が座をしめているので、問題はない。
家を囲う塀にも、ばあさんが貼りつけたままの護符が、まだ残っているので、貼り直すということもない。まあ、破れているか、どうかの確認ぐらいだ。
あとは、鬼門に置いてある酒や水を、新しくする。
どうやら、そこは八枯れの通り道だったようだが、遺言通りに、酒を新しく入れ直してから、その道が使えなくなったと、僕に愚痴をこぼしてきた。
玄関から出入りすればいいじゃないか、と言うと、鬼門を通る方が早いんだと、主張した。
ようは、部屋の扉についた猫ドアのようなものか、笑って言うと、一層、不機嫌になってしまい、しばらく口をきいてくれなくなった。やはり、ばあさんが絡むと、よくわからない奴である。
あと、朝にやることと言えば、玄関前を掃除することぐらいだろうか。打ち水をして、きちんと埃を掃き、三十分以上は、当主がその玄関前にいなくてはならないのだそうだ。
これは、僕そのものが魔除けになるということもあるが、この家の守りがどのような人物で、どれほどの力を持っているのか、という牽制の意味もあるらしい。
半信半疑ながら、これを、一週間ほど続けていたら、弱小な妖怪や鬼や霊などが、一切、近寄ってこなくなった。
家の中は、清しい気で満ちはじめ、荒れ放題だった庭も、軒先も、玄関も、整い、奇麗になった。
家内も、妙な黒猫以外は徘徊しなくなった。
その黒猫も最近は、「ちと空気が悪い。登紀子が死んだころが一番、良かった」など、縁側で寝転がったまま、力なく言っている。
朝の明るい陽の光をあびながら、桶の中の井戸水を、ひしゃくですくい上げて、水をまく。
時折、朝の散歩や、ジョギングをしている人達が行き交っているので、それを避けて、また水を打つ。
すると、二十歳すぎぐらいの若い女が、陰鬱な表情をして、ため息をついて歩いていた。その女の疲労など知ったことではないが、肩から生えている、あるものが気になった。見間違いかとも思ったので、女が通り過ぎてからも、しばらく、じっとそれを見つめていた。
「赤也」
錦の声に顔を上げると、丁度、僕の真上でくるりと尾を巻いて、舞い降りてくるところだった。天女のようだね、と軽口をたたくと、錦はまばたきをして、困った顔をしていた。
「しかし、お前、外に出て大丈夫なのか」僕はひしゃくを桶の中に戻して、ズボンの裾についた水しぶきをはらった。錦は僕の言葉に、尾の先を振った。
「よほど、力の強いものにしか、わたしの姿は、見えません」
「そうじゃない。外は汚れが多いだろう」
「赤也の力は、日に日に増しています。主のそばにいれば、わたしの力も衰える心配はありませんよ」
そんなことより。
僕は錦の真剣なまなざしに、さきほどの女を探した。
ふり返ると、女は道の先の急勾配にさしかかっていた。地平の先に消えてしまいそうな、その後ろ姿を指さして、「なんだ、お前も見えるのか」と、言って眉間に皺をよせた。
錦は、しばらくその女を見つめてから、僕の方に顔を向ける。その水色の透明な双眸に、僕の怪訝そうな顔を二つ映し出した。
「気をつけてください」
錦の声は、重く沈んでいた。僕は、ふん、とうなずいてから、腕を組んだ。
「あれは、何だ?」
あれ、とは女の肩から生えていたものである。
一瞬ではあったが、確かにはっきりと認識した。
花のように見えた。
それも、うすい黄色の花だった。
黄色い花が、女の肩から生え、そして時折、風を受けてゆれていたのだ。
「まあ、花なら害はないかもね。路傍にだって、咲いている」そう言って、アスファルトをつきぬけて、成長している健康な蒲公英を指さした。
「あんなものは初めて見ました」錦は、困った顔をしたまま、しかしどこか緊張感のある声で言った。
「だからこそ、気をつけてください」
ふうん、と僕は少し考えこみ、「それなら、八枯れがよく知っているかもしれん」と、顔を上げて笑った。
錦は、顔をうつむけたまま、何事か考えこんでいるようだった。それにため息をついて、錦のうろこにそっと触れた。
「そう、深刻になるな。大したことじゃないかもしれない」と、桶を持ち上げて、玄関の門を通ろうとした。
しかし、僕の名を呼びとめる声に、足を止めた。
一
紅梅の咲き始めたころ、中学を卒業してすぐ、僕は当主として、本格的に働きはじめた。
もちろん、金を稼ぐための仕事ではない。
むしろ、そちらの方面はからきしだ。では、何をやるのかと聞かれると、これと言って、やることもないような気がする。
池には、清浄な錦の龍が座をしめているので、問題はない。
家を囲う塀にも、ばあさんが貼りつけたままの護符が、まだ残っているので、貼り直すということもない。まあ、破れているか、どうかの確認ぐらいだ。
あとは、鬼門に置いてある酒や水を、新しくする。
どうやら、そこは八枯れの通り道だったようだが、遺言通りに、酒を新しく入れ直してから、その道が使えなくなったと、僕に愚痴をこぼしてきた。
玄関から出入りすればいいじゃないか、と言うと、鬼門を通る方が早いんだと、主張した。
ようは、部屋の扉についた猫ドアのようなものか、笑って言うと、一層、不機嫌になってしまい、しばらく口をきいてくれなくなった。やはり、ばあさんが絡むと、よくわからない奴である。
あと、朝にやることと言えば、玄関前を掃除することぐらいだろうか。打ち水をして、きちんと埃を掃き、三十分以上は、当主がその玄関前にいなくてはならないのだそうだ。
これは、僕そのものが魔除けになるということもあるが、この家の守りがどのような人物で、どれほどの力を持っているのか、という牽制の意味もあるらしい。
半信半疑ながら、これを、一週間ほど続けていたら、弱小な妖怪や鬼や霊などが、一切、近寄ってこなくなった。
家の中は、清しい気で満ちはじめ、荒れ放題だった庭も、軒先も、玄関も、整い、奇麗になった。
家内も、妙な黒猫以外は徘徊しなくなった。
その黒猫も最近は、「ちと空気が悪い。登紀子が死んだころが一番、良かった」など、縁側で寝転がったまま、力なく言っている。
朝の明るい陽の光をあびながら、桶の中の井戸水を、ひしゃくですくい上げて、水をまく。
時折、朝の散歩や、ジョギングをしている人達が行き交っているので、それを避けて、また水を打つ。
すると、二十歳すぎぐらいの若い女が、陰鬱な表情をして、ため息をついて歩いていた。その女の疲労など知ったことではないが、肩から生えている、あるものが気になった。見間違いかとも思ったので、女が通り過ぎてからも、しばらく、じっとそれを見つめていた。
「赤也」
錦の声に顔を上げると、丁度、僕の真上でくるりと尾を巻いて、舞い降りてくるところだった。天女のようだね、と軽口をたたくと、錦はまばたきをして、困った顔をしていた。
「しかし、お前、外に出て大丈夫なのか」僕はひしゃくを桶の中に戻して、ズボンの裾についた水しぶきをはらった。錦は僕の言葉に、尾の先を振った。
「よほど、力の強いものにしか、わたしの姿は、見えません」
「そうじゃない。外は汚れが多いだろう」
「赤也の力は、日に日に増しています。主のそばにいれば、わたしの力も衰える心配はありませんよ」
そんなことより。
僕は錦の真剣なまなざしに、さきほどの女を探した。
ふり返ると、女は道の先の急勾配にさしかかっていた。地平の先に消えてしまいそうな、その後ろ姿を指さして、「なんだ、お前も見えるのか」と、言って眉間に皺をよせた。
錦は、しばらくその女を見つめてから、僕の方に顔を向ける。その水色の透明な双眸に、僕の怪訝そうな顔を二つ映し出した。
「気をつけてください」
錦の声は、重く沈んでいた。僕は、ふん、とうなずいてから、腕を組んだ。
「あれは、何だ?」
あれ、とは女の肩から生えていたものである。
一瞬ではあったが、確かにはっきりと認識した。
花のように見えた。
それも、うすい黄色の花だった。
黄色い花が、女の肩から生え、そして時折、風を受けてゆれていたのだ。
「まあ、花なら害はないかもね。路傍にだって、咲いている」そう言って、アスファルトをつきぬけて、成長している健康な蒲公英を指さした。
「あんなものは初めて見ました」錦は、困った顔をしたまま、しかしどこか緊張感のある声で言った。
「だからこそ、気をつけてください」
ふうん、と僕は少し考えこみ、「それなら、八枯れがよく知っているかもしれん」と、顔を上げて笑った。
錦は、顔をうつむけたまま、何事か考えこんでいるようだった。それにため息をついて、錦のうろこにそっと触れた。
「そう、深刻になるな。大したことじゃないかもしれない」と、桶を持ち上げて、玄関の門を通ろうとした。
しかし、僕の名を呼びとめる声に、足を止めた。
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