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第二章
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しおりを挟む七
そいつは、思っていたよりも早く僕の前に姿を現した。
気だるい午後の授業も終え、帰り仕度を整えていた時だ。
先ほどから、目の前をうろちょろしていた、黒いコートを羽織った男が、僕の後ろを通ろうとした。
「おい、気安く触るなよ」
小声でそうつぶやくと、男は一度、びくり、と体を震わせてから、動きを止めた。
幸い、教室には、ほとんど人は残っていなかった。
木下も、さっさと帰ってしまったのか、机の中が空っぽだ。それに、余程、注意して見ないと、その男を認識することはできないのか、僕と男のやりとりに気がつく人間は、一人としていなかった。
「お前だろう。あの妙な花の種を植えてるのは」
僕は肩に植えられそうになった種を、つまんで捨てた。
ふり返って、男をまっすぐに見つめる。
男は、意外と若いようだ。
黒い長髪を一つにまとめている。肌が白い。切れ長の目をうっすらと細め、赤いくちびるを横に引き伸ばした。
「へえ、俺のことが見える人間がいるのか」
「お前一匹ぐらい、そう珍しいもんじゃない」
「そうか?」長髪の男は、眉間に皺をよせて笑うと、コートを翻し、ゆっくりと歩きだした。
妙に動作が、芝居がかった奴だと思う。
「たしかに、あんたは妙な加護を持っているようだな。そこの猫ちゃんと、派手な龍か」
言われて、僕は足元を見下げた。
いつの間に、校内にまで入って来ていたのか。そこには、未だかつてないほど、不機嫌な顔をした八枯れが、長髪の男を睨みつけていた。
「猫じゃない。貴様よりも、強いぞ」
男は、八枯れを見つめ、笑みを濃くした。
「へえ。知らなかったなあ。年功序列は、人間社会に特有な文化だと思っていたよ。それとも、そこの人間に、毒されちまったのかね」
八枯れは尻尾をふって、大きなあくびをもらす。
「阿呆。だから、貴様は小僧だと言うんじゃ。こいつが人間に、まあ、見えなくもないが」僕は八枯れの尻尾を踏んだ。奴は小さな悲鳴を上げたが、話を続ける。「ともかく。わしは、こいつと契約を交わしただけじゃ。でなければ、誰がこんな恐ろしい奴のそばに、好き好んでいるものか」
長髪の男は、ゆっくり僕との距離をつめる。じろじろと顔を眺めて、鼻を鳴らした。
「ふうん。あんた、鬼を飼っているのか。すごいや」
そう言って笑った顔は、無邪気なものだった。
本当にこいつは、人間じゃないのか。僕より、余程、人らしいように思う。僕は微笑を浮かべて、机の上に座った。
「お前は、なぜ種なんか植えてるんだ?趣味ってことはないだろう」
長髪の男は、腕を組んで、まっすぐに僕を見つめる。
「なぜって、あんたは肉や魚を食う時に、そんなことを考えるかい?」
「つまり、あの花はお前の食糧なのか」
男は、元から素直な性格をしているのか、それほど僕を脅威と感じていないのか、すらすらと、聞いたことに応えていった。
「俺はね、都会生まれの妖怪だ。人間の邪な感情や、欲望を喰って生きている。性欲、金銭欲、名誉欲、知識欲、まあ、いろいろだね。あの花は、そういった欲望を糧に成長するのさ」
ふむ、と僕はうなずいて、足を組んだ。カラスのような黒さなので、カラスと呼ぼう。そいつは僕の隣の席に腰かけると、にっこりと笑う。
「木下社の姉と、木下社は良い肥しになるんだ。姉の方は性欲と金銭欲の塊だった。弟は、知識欲が服を着て、歩いているようなものだね。しかし、あんたは妙だね」
カラスの言わんとしていることがわかった。僕は、苦笑をもらして、肩をすくめる。
「僕は、あまり良い土壌ではないよ。食欲と睡眠欲以外に、特出した欲望はないからね」
「うん。そうらしい。だから、種が植えられなくて困ったよ。しかも、すぐに気づかれてしまった」
「でも、欲望がない訳じゃない。植えて、食おうと思えば食えるだろ」
そう言って、カラスの切れ長の目を見ると、奴は困ったように笑った。
「そう言った欲望は大きすぎる。そんなもの喰ってしまうと、あんたは死んじゃうよ。倒れるだけじゃ、済まない」
僕は、呆気に取られた。しばらく、黙って聞いていた八枯れが、我慢ならんと、大きな声で笑い出した。
「ははは。貴様。妖怪のくせに人を喰わんのか」
カラスは、不機嫌そうに眉間に皺をよせて、八枯れを見下ろした。
「年寄りって偏見持ちだね。俺は、邪は喰うが、邪な訳じゃないんだ。それに、人間は俺にとって、大事なエネルギー源なんだぜ?そんなにバタバタ殺してたら、全滅しちゃうじゃないか。それは、困るよ」
妖怪のわりに、良識的なようにも思えたが、すぐにその考えを打ち消した。殺さないから、良い奴だなんて、安直すぎる考えだ。
なぜなら、こいつは、もともと持っている人間の欲望を肥大化させて、それを喰って生きている。
土壌にされた人間は、死なないが、昏倒し、衰弱する。回復したら、また土壌にされかねないのだ。それが、死ぬまで続くのだとしたら?
もしかすると、殺すよりも、よっぽど残酷なやり方なのかもしれない。
「それで?お前は、こんなところで何してるんだ?」
カラスはにやにやしながら、窓際に向かって歩きはじめた。
「土壌と、食物の成長具合を確認に来るのは、農夫の仕事だよ。まだ、いくつか、芽が出ていないのもいたが、食べごろがいくつかあった。あんたに種を植えたら、刈り入れしようと思ってたんだ」
そう言った直後、カラスは姿を変えていた。
窓際に止まるそいつは、本当に鴉だった。黒い羽根をのばし、とがったくちばしを開くと、高い声で、カア、と鳴いた。
僕が走り出す前に、大きな羽根を広げると、窓から落ちるようにして、飛び出した。窓枠にしがみついて見ると、黒い鴉は、大空高く舞い上がって行った。しかし、それの後を追って、錦が飛んで行くのも見えた。
「龍はいいなあ、便利で」
黒い点と、錦が、遠ざかって行くのを見つめながら、足元にいた八枯れと目を合わせる。
「あいつ、鴉だったのか」
気の抜けた声でそうつぶやくと、八枯れは、ふん、と鼻を鳴らして、教室の扉へと、向かって歩き出した。未だ、窓の前で立ち尽くしていた僕をふり返って、黄色い目を細める。
「放って置いて良いのか?」
僕は大きなため息をついて、「ああ、面倒くさい」と愚痴る。頭をかきながら、八枯れの後を追った。
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