逢魔伝(おうまでん)

当麻あい

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第三章

3-6

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    六

 三日と言わず、その日の夜に彼女と言葉を交わすことができた。会話と言っても、相手は植物だ。動物のように巧みに言葉を、扱うことができる訳じゃない。そっと肌に触れるように、あるいはかがやきが視線を横切るように、さりげなく通り過ぎてゆく。
注意していなければ気づくことは困難で、気づくことができなければ、植物の言葉など一生知ることはできない。それほど些細な声であり、しかし脈々とした生の躍動であり、繊細な織物なのである。
彼女も同じだった。夢を介してではあったが、一枚の葉を僕の足元に落として、消えて行った。その一枚を拾い上げたとき、はじめて彼女の言葉が染み込んできた。是も非も無く、手にした言葉はたしかに強い望みを持っていた。
しかし、それとは別にある映像が、脳裏をよぎった。それは、眼前でたしかに行われた生々しさを持って、僕の意識を押さえつけて来た。彼女の目の前で、赤黒い液体が飛び跳ねた。温かく、どろどろとしたものが、土の上に染み込んで消えた。それは動物の血であり、人間の血である。赤黒い血を覆い隠すように、空からはいくらも雪が降って来ていた。
その雪は白く、しかしつめたくはなかった。まるで灰のように細かな霧状の白いものが、彼女の全身を包みこむように降りそそぐ。土壌に染み込んだ赤い液体と混ざるようにして、白い粉はうすい桃色に染まる。そして、衝撃音。爆風のなかで、白煙が舞い、空は舞いあがった泥土や、煙で真っ黒になっていった。
 目を覚ますと同時に、息を飲んだ。額から落ちた汗をぬぐって、身を起こす。枕もとに置き放しにしていたノートを開いた。忘れないうちに楊貴妃の言葉をそこに書きつける。布団の上で頬づえをつくと、ノートを繰りながら、じっとその文字列を眺めた。

  「ヒガシノソラ。
  ズットマッテイタ。
  ヒカリノカナタカラ。
  ワレモカエロウ。
  ヒャクネンノミヤコ。
  カガヤキノウミヘ。」

 「意味がわからんな」
 横から顔をつっこんできた八枯れが、低くつぶやいた。突然のことに驚いて、ペンを落とすと、頭を引いてしばし黙った。目の前でゆれる黒い尻尾を眺めながら、小さく息をつく。頭をぼりぼりとかきながら「急に出てくるな」と、言って眉根をよせた。
 「帰りたいところでもあるのだろうか」
 「どこにだ」
 「わからないよ」
八枯れはふん、と鼻を鳴らして、布団の中から這い出した。後足で耳の裏をかきながら、「うちは植木屋じゃないぞ」と、愚痴った。その呑気な背中にため息をつきながら、胡坐をかいて腕を組んだ。
 「ひらがなと漢字にしてみようか」
 そうつぶやいて、ノートを繰ると、新しいページにペンを走らせた。横から覗き込んできた八枯れが、慣れない口調で読みあげた。

  「東の空。
  ずっと待っていた。
  光の彼方から。
  我も帰ろう。
  百年の都。
  輝きの海へ。」

 ううん、と首を傾げて顎をかいた。ペンを指先で回しながら、布団の上でごろり横になった。電灯の光にノートを透かして、ぼんやりと眺める。
 「ええっと、つまり光の彼方から来たから、東の空へ帰してってことか?」
 「百年の都ってのは何じゃ。どこにある」
 「わからない」
 「輝きの海ってのは?何を待っているんじゃ」
 「わからない。情報が足りない」
 「話しにならんな。今回はさっさと手を引け。その方がわしも楽じゃ」
 「お前は、本当に変わらないな」
 「何がじゃ」
 「薄情者って話しだよ」
 はあ、とため息を吐き出して頭をかいた。それを眺めていた八枯れは鼻を鳴らして、丸くなる。「もの好きめ」と、大きなあくびをもらして、尻尾を振っている。そのゆらゆらと揺れる黒い尻尾を眺めながら、小さく息をついた。
何か決定的なものに欠けると言うのか、全体的に曖昧模湖としている。つかみどころがなく、まるで霧の中に手をつっこんでいるようだった。だが、あの脳裏をよぎった映像は、夢ではないはずだ。
 テーブルに置いてある花瓶に目をやった。昨日の夕方、邪植に用意させたもので、その中に池の水を入れて、楊貴妃の枝をさしている。持ちこまれた当初から、だんだん弱ってきていたが、さすが錦に清められた水だけあって、数時間もすれば元の通りの気品を漂わせはじめた。
淡い桃色の花びらを開いて、つぼみを震わせながら、闇の中でじっとしている。もしかすると、東堂が運んできたときは、衰弱しきっていたため、言葉をしゃべることもできなかったのかもしれない。
 寝息をたてはじめた八枯れを置いて、立ち上がった。開け放しにしていた襖を抜けて、居間に入ると、楊貴妃の枝にそっと触れた。いくらか、池の水を吸い上げた花びらの先から、露が垂れる。まるで、雨に降られたように濡れているその姿に、ふっと笑みを浮かべて、しゃがみこんだ。そのとき、背後から強い力で頭を抑えつけられた。油断しきっていたため、倒れると同時に畳の上で顎を打ちつけた。

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