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第六章「虎視眈々」
第二十六話「金谷」
しおりを挟む永禄十二年五月下旬 遠江国 金谷
遠江国と駿河国の境界線、大井川。その西側には大きな台地が広がっております。その大井川と台地に挟まれた狭隘(きょうあい)の土地、それが金谷でございます。
遠州を手に入れた徳川家康公は数十名の家臣を引き連れ、この金谷の地を視察しておりました。
「掛川城が開城し、今川勢も一掃。これで束の間の平穏が訪れますかな」
馬に跨(また)がった本多平八郎忠勝が、同じく馬上の家康公に問いかける。
「そうじゃな。今川から独立して早十年。よもや、今川に代わり遠江を治めることになるとは思いもよらなんだ・・・しばらくは、落ち着いて遠江の民政に力を注ぐと致すかな」
家康公の答えに、横を歩いておった拙者が口を挟む。
「左様。ちゃんと民政にも力を入れんと、今川に好意を抱く民たちが一揆を起こすやもしれませんからの~」
そう言って、にやりと笑う拙者。家康公と平八郎は共に苦笑いを浮かべる。すると、そこへ一人の武者が拙者に声をかける。
「半蔵殿が言うと洒落になりませんな~」
そう言葉を発したのは、林藤七。
林家は松平家の初代・親氏公がまだ徳阿弥と称していた頃から仕えていると聞いております。この藤七は一向一揆の際に多くの武功を上げた勇士であります。
拙者はにやりと笑い藤七に話しかける。
「藤七。お主には一揆の際、大分世話になったでな~」
拙者の言葉に藤七も笑顔で返す。
「その言葉そのままお返し致しまする」
「ふん」
一時は敵味方に分かれた家臣団ではありますが、この頃にはすでにその蟠(わだかま)りも薄らいでおりました。
やり取りを聞いていた他の者たちからも笑みがこぼれる。しかし、そんな和気藹々(あいあい)とした雰囲気も束の間、その直後、風を切る音と共に二人の足軽が倒れる。
「うおぁ!」「ぐはぁ!」
倒れた足軽の方に目を向けると、二人の胸元には矢が突き刺さっておりました。
間髪を容れずに山の方から叫び声が聞こえて来る。
「突撃ー!」
山賊か?
足軽から山側へ視線を移すと、そこには全身赤色の甲冑に身を包んだ数十名の騎馬武者と足軽たちがこちらに向かって駆けて来ておりました。
・・・山賊にしては立派な甲冑だこと。
拙者は苦笑いを浮かべる。
赤色の集団はもう目の前まで迫って来ておりました。そして、凄まじい音と共に拙者たちと赤色の集団の先鋒が激しくぶつかり合い戦闘が開始される。
「貴様ら一体何者じゃ!?」
拙者は、迫り来る足軽たちを槍で払い除けながら叫ぶ。
そんな中、家康公に向かい真っ直ぐ突き進む赤色の騎馬武者が一騎、拙者の視界に入って参りました。大きな金の天衝(てんつき)の前立をつけた騎馬武者・・・おそらく、こやつが大将でありましょう。
真っ赤な騎馬武者は、家康公に向け槍を突きつける。
「お命頂戴!」
拙者は、目の前の足軽たちを相手にするので手一杯でありもうした。
くっ、間に合わんか!?
拙者がそう思った直後、騎馬武者の槍が何者かによって払われる。
家康公は思わずその者の名を発する。
「藤七!」
藤七は家康公の前に出る。
「殿。ここは拙者が」
馬を返した赤い騎馬武者は藤七と相対する。
「どこの誰かは知らんが・・・いざ、参る!」
藤七が駆け出すと同時に赤い騎馬武者も駆け出す。
勝負は一瞬でした。赤い騎馬武者の槍が藤七の体を貫く。
「藤七ー!」
家康公の叫びが木霊した後、赤い騎馬武者は藤七から槍を引き抜く。
「貴様、何奴じゃ?」
家康公の問いに、赤い騎馬武者はゆっくりと体の向きを変える。馬に乗ってはいるものの見るからに背が低くおそらく五尺にも満たないであろう小男。よくよく見ると、男の上唇が裂けている・・・兎唇(としん)というやつか。
その騎馬武者は、ゆっくりとその尖った口を開く。
「武田が家臣、山県(やまがた)三郎兵衛昌景」
騎馬武者の名乗りに一同は驚愕する。
こやつが、赤備で有名な武田の山県昌景・・・もっと屈強な男じゃと思っておったが、こんな小男とは。見た目で判断してはいけないということか。
拙者は赤色の騎馬武者―山県殿を凝視する。
・・・それにしても何故、武田軍がここにおる?
拙者の疑問を平八郎が代わりに問いかける。
「武田とは、今川領を遠江と駿河で分割するという約束だが?」
山県殿は、にやりと笑いながら答える。
「そんなもの戦国の世においては形だけに等しい」
家康公の眉がぴくりと動く。
「・・・遠州に攻め入ると申すか?」
山県殿は、鋭い眼差しで家康公を見やる。
「隙あらばな・・・我が主・武田信玄公は闇雲に敵地に侵攻はしない。熟考を重ね確実に突き進む」
「では、此度の襲撃は?」
その質問に山県殿は家康公をじっと見詰め答える。
「隙があったからじゃ。国を治める者が、たった数十名の手勢だけで国の境を行くなど隙だらけにもほどがあるわ」
そして山県殿は、今度は平八郎の方に視線を移す。
「おい、そこの若造。そんな主君に仕えておって不安ではないか?」
山県殿の問いに平八郎はきっぱりと答える。
「否」
そんな平八郎に山県殿は笑みを浮かべる。
「若いくせに中々の忠臣じゃ。よかろう、そんなお主には引導を渡してやる」
言葉と共に山県殿の槍の切っ先が平八郎の方に向けられる。それに対し平八郎も槍を構えて山県殿をじっと睨みつける。
「来い」
両者は鐙(あぶみ)を叩き馬を駆ける。
交わり合う両者の刃。数度に渡り槍の金属音が辺りに鳴り響く。
小柄ながらも平八郎と互角に渡り合う山県殿・・・否、どちらかと言うと山県殿の方が若干押しているようにも見える。
家康公は、両者の戦いを眺めながらぽつりと呟く。
「さすが、かの高名な山県昌景。我が軍随一の猛将・本多平八郎でも太刀打ちできんのか・・・」
拙者も向かい来る足軽たちを捌きながら平八郎と山県殿の勝負を横目で眺める。
山県殿の連続した突きが右、左と平八郎を襲う。平八郎は、それらの攻撃を華麗に避けるが・・・しかし、最後の一撃が今度は平八郎ではなく、平八郎が乗っている馬に向けられる。
「くっ!」
平八郎の馬が悲鳴を上げながら倒れる。
平八郎は、すぐさま立ち上がろうとするも馬の胴に足を挟まれて抜け出せない。その光景を馬上から見下ろす山県殿。平八郎は、そんな山県殿を睨みつける。
「卑怯な」
「これが戦というものだ、若造」
山県殿の槍先が平八郎に向けられる。
「恨むのであらば、迂闊(うかつ)にも隙を見せた己が主君を恨むがよかろう」
そう言うと山県殿は、持っている槍を大きく振り上げる。
絶体絶命。
誰もが平八郎の窮地を救えない状況の中、助けは意外な所から現れた。
「殿ー!」
どこからともなく声が聞こえて来る。声のする方―そこには、白地に黒の源氏車が描かれた旗印の軍勢が・・・榊原康政の軍勢でございまする。
「・・・新手か」
山県殿は、そう呟くと振り上げていた槍を下ろす。
「危険を冒してまで勝つ必要はない。勝てるべき時に勝てばよい・・・若造、良い腕であった。名は何と申す?」
平八郎は、山県殿をじっと睨みつけながら答える。
「・・・本多平八郎忠勝」
「本多平八郎忠勝・・・うむ、覚えておこう」
そして、山県殿は家康公の方に目を向ける。
「徳川家康。我が武田軍は、この遠州の地をいつか必ず頂戴致す」
じっと睨み合う両者。
その後、山県殿は口元に笑みを浮かべると突如大声を上げる。
「皆の者、退却じゃ!」
山県殿の掛け声と共に一斉に退却を開始する武田軍。
「また戦場にて相見(あいまみ)えようぞ」
そう言うと、山県殿も馬を返して駆け出す。
「くそっ、逃がすか!」
拙者が追撃しようとするも、家康公がそれを制止する。
「殿!?」
家康公は拙者には目もくれずただじっと武田軍の後ろ姿を眺めておられました。
「今川との戦が終わったと思ったら、次は武田との戦か・・・これが、戦乱の世というものか。我らの安寧は、まだしばらく先のようじゃな」
そう語る家康公の切ない表情に、拙者は何とも言えない気分になりもうした。
そして、拙者も家康公と共に武田軍の後ろ姿を臨む。
・・・甲斐の武田か。
これ以降、遠江と駿河をめぐる徳川と武田との戦いは、十数年に渡り続く事と相成りまする。
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