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第十一章「信康切腹」
第五十六話「二俣城」
しおりを挟む遠江国 二俣城
天竜川と二俣川の合流地点に位置する小山の上に築かれた山城―二俣城。
拙者は、この地でとある人物と待ち合わせを致しておりました。
拙者が一人、崖の上から川を眺めておると背後から声がかかる。
「久しぶりじゃな、半蔵」
その声に拙者は振り返る。
「まったくどれだけ人を待たせるつもりじゃ、半蔵」
両者は互いに顔を合わせるとにやりと笑う。拙者が待ち合わせをしておったのは、拙者と同い年で同じ名を持つ男―服部半蔵正成でございまする。
服部は、拙者が何を言うでもなく自ら言葉を発する。
「この地に儂を呼び出したという事は、例の件を聞きたいという事か?」
服部の問いに拙者は答える。
「察しがよいな。お主が信康様の介錯を任されたと聞いたのでな」
そう、この服部正成こそが信康様の介錯人でございました。そして、この二俣城の地にて信康様は御自害なされたのでありまする。
服部は、先ほどまでとは打って変わって真剣な面持ちで話を始める。
「いかにも、儂が信康様の介錯を任されておった・・・しかし、儂は信康様を斬れんかった」
服部の発言に拙者は首を傾げる。
「では、一体誰が信康様の介錯を行ったのじゃ?」
拙者の問いに服部が答える。
「検死役として立ち会った天方通綱殿じゃ。儂は、いざ介錯というところで体が震え出し刀を落としてしまった・・・」
服部は声を震わせながら語る。
「殿の嫡男ぞ。我が服部家は、清康公の時代から代々松平家に仕えてきたのじゃ。それなのに、主君の嫡子を殺すなどできようはずもない」
そこまで言った後、服部は息を整える。
「後日、殿からも『鬼の半蔵』でも斬ることができなかったか、と嘆かれたわ」
そして、遠くを見詰め切ない表情を浮かべる服部に拙者は質問をする。
「して、その天方殿は今何処におる?」
拙者の問いに、服部は遠くを見詰めたまま答える。
「天方殿は信康様を介錯したことにより、自責の念に駆られ高野山に出家なされた・・・本当ならば、儂が介錯せねばならんかったのじゃがな」
「・・・左様か」
拙者は、服部の話を聞き築山御前を介錯した野中殿の事を思い出す。
出家に蟄居(ちっきょ)。主君の肉親を斬る事の辛さ、か・・・もし、儂が介錯を行っておったらどうしたものだろうかな。
拙者は、ふとそう考え始めるもすぐにそれを止める。
いや、今はそんな事を考えても仕方が無いな。
そして、拙者は服部に本題を尋ねる。
「信康様の最期は、どうであった?」
拙者の問いに、服部はゆっくりと口を開く。
「ひたすら己が無実を訴えておられた。そして、最期はご自分の娘たちの無事を願い、腹を十文字に引き裂いて御自害なされた。誠に見事な最期でござった」
「そうか・・・」
「儂は信康様の最期の御姿を見て、あの御方が武田と内通していたなどとは到底思えん。あの御方の目は、嘘偽りを申してはおらんかった」
服部はそこまで言うと、急に真剣な表情で振り返る。
「おい、槍の。今回の信康様御自害の件で、きな臭い話があるのは知っておるか?」
「というと?」
拙者が聞き返すと、服部は拙者の目をまじまじと見詰め答える。
「酒井左衛門殿の事じゃ」
服部の言葉に、拙者は眉を顰(ひそ)める。
酒井左衛門殿といえば織田信長から信康様切腹の命を家康公に伝えたとされる。
「して、左衛門殿がなんだと言うのじゃ?」
拙者の問いに、服部は冷淡な口調で答える。
「今回の信康様切腹は、左衛門殿の策略ではないかとの噂がある」
拙者は余りの事に驚愕する。
「な!何故、主君の御子息を殺すような事を致す?」
「左衛門殿は日頃から信康様の粗暴を嫌っておったからな」
そう語る服部に対し拙者は反論する。
「確かに信康様は時折乱暴な所もあるが、それは見方によっては大将の器とも言えるのではないか?」
納得のいかない拙者をなだめるように服部は落ち着いた口調で語る。
「それだけではない」
「というと?」
「今の徳川家家中の問題だ」
拙者は服部の話に耳を傾ける。
「今日(こんにち)、徳川家臣団は酒井左衛門殿を旗頭とする浜松衆と、石川伯耆殿を旗頭とする岡崎衆に分けられておる。家康公が直接指揮を取り主に戦を行う浜松衆と、岡崎におる信康様のもと内政に専念する岡崎衆。そこに、自ずと歪みが生まれる」
「歪み?」
「もし戦で殿が亡くなったら徳川家の力は全て嫡男である信康様、つまり岡崎衆に移る。そして、逆に浜松衆は力を失う」
「そうなる前に左衛門殿が手を打った、と?」
「さあな」
首を傾げる服部に拙者は問いかける。
「もし、それが真実ならば徳川内部の権力争いの為に信康様、そして築山御前は殺されたというのか?」
「確証がある話では無い・・・しかし、織田信長から信康様切腹の理由を述べられた際、その場におった左衛門殿が何も弁明しなかったという話だ」
服部がそう言い終わると、その後、沈黙が辺りを包み込む。
お互い推測だけではどうしようもないと察したからでございまする。
・・・これは、左衛門殿に直接問うてみるしかないか。
拙者はそう思い、南方―浜松城のある方に目を向ける。
そこには、今にも雨が降り出しそうな暗雲が立ち込めておりました。
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