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ぼくと布団と等価の愛情
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とても寒い金曜日の夜。
いつものように五日間の苦役を耐えたぼくの体は、あらゆる部位が冷たく強張っていた。
脳みそは生温く、微睡みに足を踏み外しては吊革と共に意識を引き戻す不毛な上下運動を繰り返す。
その様は子供から見れば脱力人形のようで少し滑稽かもしれなかった。
働き始めた頃はそんな姿を人に見られることに恥ずかしさを感じていたが、いつからかどうでもよくなった。
良くも悪くも、人は人を見ていない。
誰もぼくを心配しない代わりに、誰もぼくを責めない。
そんな冷たく思えるほどの乾いた関係がすっかり心に馴染んだぼくは、一人で重たい足に鞭を打って四畳半の天国へ階段を上る。
電車に揺られて三十分、それから歩いて十五分。最後の難関がこのアパートの階段である。
十三段でなかったことに感謝しながら、まるで彷徨う亡者のようにして天国に帰り着いた。
「ただいま」
もちろん誰も返事をすることはない。
ぼくの他には誰も住んでいないのだからそれが当たり前だ。
それでも帰りを告げるのは、この小さな空間が何も言わずに迎え入れる空気を作ってくれる気がするからだ。
今日もそんな空気で聞こえない「おかえり」を言ってくれているような気がする。
硬い靴から始まり、靴下 背広 ネクタイ ベルト シャツ ズボンと、ぼくを社会に馴染ませる鎧を一枚ずつ剥がしながら短い廊下を進むと、冷え切った部屋の温度が肌に貼り付き身震いした。
「迎えてくれる割には冷たいもんだね」
そう虚空に八つ当たりしながら明かりの紐を引いた。それから頭に浮かんだ暖房の二文字に一瞬ためらいつつも、今日はもう銭湯に行く気力も残っていないことに気付き、誘惑に負けた。
不健康そうな、息詰まる不自然な風が部屋をかき回し、室温がグンと上がる。
文明の発展に感謝しながらも暖まらない何かを抱えたまま、押入れに手を突っ込み布団を引っ張り出す。
せめてシャワーくらい浴びた方が良いと分かっているが、今日の疲労はそれを許さなかった。
一刻も早く眠りたい。
強烈な眠気だけがぼくの全てを支配していた。
木綿の敷布団にアクリル繊維の毛布、羽毛の掛布団。このなんてことない三人組が、ぼくにほとんど唯一の安らぎをくれる。
掛布団と共に毛布をめくりあげ静かに足先を潜らせるとまだ少しヒンヤリとしているが、その何者も拒まない滑らかで柔らかな肌触りは疲労で虚ろなぼくに幸福を注ぎこむ。
それからゆっくりと羽毛が全身を温め、よく干した敷布団が熱を閉じ込めながらふんわりと体を浮かせる。
これでようやくぼくの最後の鎧が溶けるような気がした。
体の全部で感じるこの温かさは、ぼくに向けられた唯一の愛のように思えた。
「ぼくを愛してくれるのはきみたちだけだよ」
寝具に話しかけるなんてぼくもいよいよだなと思いはしたが、何故だか呟かずにはいられなかった。
「わたしたちは愛してくれるものを拒みませんから」
ふわりと声が聞こえてきた。まるで耳を撫でる春のそよ風のような、軽やかで柔らかい声だ。
「きみは一体……」
フィクションでしか聞いたことのない台詞が思わず溢れる。
「わたしたちはあなたが愛し、あなたを愛する布団ですよ」
そよ風のような声に暖かい微笑みを感じる。
だがしかし、なんということだろう。ぼくは布団の声を聞いているらしい。
ぼく以外誰も住んでいない部屋なのだから、他の何かでないことは確かなのだが、こんな不思議なことが起こるとは。
精霊や神というのは存在するのかもしれない。
「八百万の神がいるって話もあながち間違いじゃあないってことか」
「えぇ。厳密に言えばわたしたちは布団自身なので少しだけ違いますが」
布団はゆったりと話を続ける。
「わたしたちは注がれた愛を、使ってくださるあなたに返す存在なのです。だからあなたがわたしたちの愛に気付いてくれたことが、この上なく嬉しいのです」
布団は注がれた愛を返す存在である。
確かにぼくは布団に愛を注いでいる人間だ。
毎週末この四畳半を擁するアパートの屋上で、布団を天日に干すのがぼくの習慣だ。
片面一時間ずつしっかりと太陽に当てると、ふっくら柔らかく暖かい焼きたてのパンのように仕上がる。
そうするといつも最上の安らぎをくれる。
この関係がまさか愛情の等価交換だったとは気付かなかったが、きちんと手入れしたことに布団も満足していたのだと思うと、ぼくも少し嬉しい気持ちになった。
「本当にただ一人、ぼくを愛してくれる人だね」
「それは……わかりません。あなたがわたしたちの与える安らぎが愛であるとつい先ほど気付いたように、それを愛と気付かずに受け取っているものはもしかすると、他にもあるのかもしれませんから」
布団の声は少し寂しげな響きを含んでいた。
今まで注いでいる愛に気付いてもらえていなかったからなのか、自分の他にもぼくが愛を注ぎ注がれているものがあるかもしれないからなのか。
ぼくには計り知れない。
なんだか申し訳ない気持ちが滲んでくる。
「そんな悲しい顔をしないでください。わたしたちの仲間はほとんどが愛に気付いてもらえないまま役目を終えます。こうして気付いてもらえたことはそれだけで滅多に得られない幸福なのですよ」
そう言ってぼくを励ます布団の声は、またはじめの暖かい声に戻っていた。
この暖かさを失いたくないと心から思った。
「きみはぼくを愛し続けてくれるかい」
口を突いて出たその問いに布団はやはり柔らかに答える。
「えぇ。あなたがわたしたちを愛し続ける限り、役目を終えるその日まであなたを愛し続けます」
額に一瞬柔らかい何かが触れた気がした。
「さぁ、もう目を覚ます時間ですよ」
瞼を開けると、カーテン越しの朗らかな陽光が部屋を満たしていた。
点けっ放しの暖房が、今は少し暑い。
ぼくは早速布団たちを担いで屋上へ向かう。
物干し竿に布団たちを掛けてやり、部屋に戻ってコーヒーを淹れる。
それからまた屋上に戻って、雨晒しで黒ずんだロッキングチェアに腰を落ち着ける。
そして淹れたてのコーヒーを飲みながら布団たちと一緒に風に吹かれた。
いつもと同じ週末の朝だったが、いつもより少しだけ暖かい気がした。
いつものように五日間の苦役を耐えたぼくの体は、あらゆる部位が冷たく強張っていた。
脳みそは生温く、微睡みに足を踏み外しては吊革と共に意識を引き戻す不毛な上下運動を繰り返す。
その様は子供から見れば脱力人形のようで少し滑稽かもしれなかった。
働き始めた頃はそんな姿を人に見られることに恥ずかしさを感じていたが、いつからかどうでもよくなった。
良くも悪くも、人は人を見ていない。
誰もぼくを心配しない代わりに、誰もぼくを責めない。
そんな冷たく思えるほどの乾いた関係がすっかり心に馴染んだぼくは、一人で重たい足に鞭を打って四畳半の天国へ階段を上る。
電車に揺られて三十分、それから歩いて十五分。最後の難関がこのアパートの階段である。
十三段でなかったことに感謝しながら、まるで彷徨う亡者のようにして天国に帰り着いた。
「ただいま」
もちろん誰も返事をすることはない。
ぼくの他には誰も住んでいないのだからそれが当たり前だ。
それでも帰りを告げるのは、この小さな空間が何も言わずに迎え入れる空気を作ってくれる気がするからだ。
今日もそんな空気で聞こえない「おかえり」を言ってくれているような気がする。
硬い靴から始まり、靴下 背広 ネクタイ ベルト シャツ ズボンと、ぼくを社会に馴染ませる鎧を一枚ずつ剥がしながら短い廊下を進むと、冷え切った部屋の温度が肌に貼り付き身震いした。
「迎えてくれる割には冷たいもんだね」
そう虚空に八つ当たりしながら明かりの紐を引いた。それから頭に浮かんだ暖房の二文字に一瞬ためらいつつも、今日はもう銭湯に行く気力も残っていないことに気付き、誘惑に負けた。
不健康そうな、息詰まる不自然な風が部屋をかき回し、室温がグンと上がる。
文明の発展に感謝しながらも暖まらない何かを抱えたまま、押入れに手を突っ込み布団を引っ張り出す。
せめてシャワーくらい浴びた方が良いと分かっているが、今日の疲労はそれを許さなかった。
一刻も早く眠りたい。
強烈な眠気だけがぼくの全てを支配していた。
木綿の敷布団にアクリル繊維の毛布、羽毛の掛布団。このなんてことない三人組が、ぼくにほとんど唯一の安らぎをくれる。
掛布団と共に毛布をめくりあげ静かに足先を潜らせるとまだ少しヒンヤリとしているが、その何者も拒まない滑らかで柔らかな肌触りは疲労で虚ろなぼくに幸福を注ぎこむ。
それからゆっくりと羽毛が全身を温め、よく干した敷布団が熱を閉じ込めながらふんわりと体を浮かせる。
これでようやくぼくの最後の鎧が溶けるような気がした。
体の全部で感じるこの温かさは、ぼくに向けられた唯一の愛のように思えた。
「ぼくを愛してくれるのはきみたちだけだよ」
寝具に話しかけるなんてぼくもいよいよだなと思いはしたが、何故だか呟かずにはいられなかった。
「わたしたちは愛してくれるものを拒みませんから」
ふわりと声が聞こえてきた。まるで耳を撫でる春のそよ風のような、軽やかで柔らかい声だ。
「きみは一体……」
フィクションでしか聞いたことのない台詞が思わず溢れる。
「わたしたちはあなたが愛し、あなたを愛する布団ですよ」
そよ風のような声に暖かい微笑みを感じる。
だがしかし、なんということだろう。ぼくは布団の声を聞いているらしい。
ぼく以外誰も住んでいない部屋なのだから、他の何かでないことは確かなのだが、こんな不思議なことが起こるとは。
精霊や神というのは存在するのかもしれない。
「八百万の神がいるって話もあながち間違いじゃあないってことか」
「えぇ。厳密に言えばわたしたちは布団自身なので少しだけ違いますが」
布団はゆったりと話を続ける。
「わたしたちは注がれた愛を、使ってくださるあなたに返す存在なのです。だからあなたがわたしたちの愛に気付いてくれたことが、この上なく嬉しいのです」
布団は注がれた愛を返す存在である。
確かにぼくは布団に愛を注いでいる人間だ。
毎週末この四畳半を擁するアパートの屋上で、布団を天日に干すのがぼくの習慣だ。
片面一時間ずつしっかりと太陽に当てると、ふっくら柔らかく暖かい焼きたてのパンのように仕上がる。
そうするといつも最上の安らぎをくれる。
この関係がまさか愛情の等価交換だったとは気付かなかったが、きちんと手入れしたことに布団も満足していたのだと思うと、ぼくも少し嬉しい気持ちになった。
「本当にただ一人、ぼくを愛してくれる人だね」
「それは……わかりません。あなたがわたしたちの与える安らぎが愛であるとつい先ほど気付いたように、それを愛と気付かずに受け取っているものはもしかすると、他にもあるのかもしれませんから」
布団の声は少し寂しげな響きを含んでいた。
今まで注いでいる愛に気付いてもらえていなかったからなのか、自分の他にもぼくが愛を注ぎ注がれているものがあるかもしれないからなのか。
ぼくには計り知れない。
なんだか申し訳ない気持ちが滲んでくる。
「そんな悲しい顔をしないでください。わたしたちの仲間はほとんどが愛に気付いてもらえないまま役目を終えます。こうして気付いてもらえたことはそれだけで滅多に得られない幸福なのですよ」
そう言ってぼくを励ます布団の声は、またはじめの暖かい声に戻っていた。
この暖かさを失いたくないと心から思った。
「きみはぼくを愛し続けてくれるかい」
口を突いて出たその問いに布団はやはり柔らかに答える。
「えぇ。あなたがわたしたちを愛し続ける限り、役目を終えるその日まであなたを愛し続けます」
額に一瞬柔らかい何かが触れた気がした。
「さぁ、もう目を覚ます時間ですよ」
瞼を開けると、カーテン越しの朗らかな陽光が部屋を満たしていた。
点けっ放しの暖房が、今は少し暑い。
ぼくは早速布団たちを担いで屋上へ向かう。
物干し竿に布団たちを掛けてやり、部屋に戻ってコーヒーを淹れる。
それからまた屋上に戻って、雨晒しで黒ずんだロッキングチェアに腰を落ち着ける。
そして淹れたてのコーヒーを飲みながら布団たちと一緒に風に吹かれた。
いつもと同じ週末の朝だったが、いつもより少しだけ暖かい気がした。
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