2 / 4
生物の境界
しおりを挟む
生物の境界というのは一体なんなのだろうか。
緑に囲まれて生活しているぼくにとって、動物も植物も皆馴染み深い。
生物を生物であると認識することは容易にできるが、しかしそれらを統合して生物と呼称したとき案外境界は曖昧であるように思う。
その曖昧さの根源にあるのは生命の定義であるわけだが、こんなにも定義が一つに定まらないものが他にあるだろうか。
人類は一万年も前から文明を発展させてきたにも関わらず、普遍的な概念であるはずの生命を一軸で捉えることができていないのである。
「この問題を難しくしているのは僕ら自身の存在だと思うんだ」
そう言うのはぼくたちが住む地域一帯の長であるSだ。
彼は博識でぼくの疑問にはいつも明確な答えをくれるのだが、今回ばかりはSと言えどもそう簡単にはいかないらしい。
彼はぼくの横に腰掛けると、一本のバナナを渡してくれた。
「難問には糖分が必要さ」
Sは持っていた自分の分のバナナを食べ始めた。
ぼくも彼に倣ってバナナを頬張る。
むちりとした歯触りと自然とは思えない程の贅沢な量の糖分が脳に刺激を与える。
幸福である。
しかしバナナは生命の境界を教えてはくれない。
……否、そもそも今ぼくが食べたバナナは生物だろうか。
よく考えてみれば本体から離れた植物の部位というのは、正しく生命の境界に位置しているではないか。
ハッとしてSに目をやると、満足気に少しだけ口角を上げてぼくの肩を軽く叩くと、そのまま立ち上がってどこかへ行ってしまった。
なんとも言葉にし難いものを感覚で示すとは、やはりSは博識だ。
ぼくの胃に収まったバナナを生物か非生物か、判断できればこの永遠に続くと思われた疑問も解決と言える。
「……どっちだろう」
言うは易く行うは難しとはこの事か。
そもそも切り離されたものと言っても葉と果実では全く意味合いが違う。又、果実であっても種子と果肉で分けることもできる。一つずつ判断していこう。
仮定:木から落ちた葉は非生物である
葉は独立したとき、自ら栄養を摂取し生長することはできず、繁殖する機能も持たない為、生物であるものの特徴をほとんど失っている。故に非生物である。
仮定:木から落ちた種子は生物である
種子は独立したとき、自らに蓄えられた栄養を用いて生長することができ、繁殖能力を得るため、生物である。
仮定:木から落ちた果肉は非生物である
果肉は独立したとき、葉と同じく生物としての特徴を失う。故に非生物である。
よし。大方間違いないだろう。
では、木から落ちた果実は生物か非生物か。
ぼくの気持ちはこうだ。
「木から落ちた果実は生物である」
そう言い切りたい。
しかしどうだろう。先の仮定が正しいとすると、果実は生物でありながら非生物という矛盾した物体になってしまう。
ぼくが果実に感じる生命感を正しく説明できない。
ではこれならどうだろう。
仮定:単独で生物として機能する核を有する物体は生物である
これならば種子という生物としての核を非生物の果肉や皮が覆っていたとしても、一つの物体としての果実は生物とみなすことができる。
なるほど。バナナは一本でも生物だ。
仮定は定義となった。
嬉しくなったぼくはSのもとに向かった。
そして生物の定義ができたことを報告した。
すると彼は少し困った顔をしてこう言った。
「それではあそこの大木と、あの倒木と、生物はどちらかな」
それはもちろん大木だ。
「そうだろう。では先ほどの君の定義に従って言うならば、あの倒木が失った生物としての核とは何かな」
……わからない。
先ほどまで世紀の大発見をしたような心持ちだったが、急激に自信を失ってしまった。
「そんなに悲しむことではない。ただ生物や生命という言葉は、君が思っているものとは少し違う形をしているんだ」
言葉の形とは、と考えているとSは「概念とも言う」と付け足し、そのまま話を続けた。
「例えば木が少しずつ腐食したり、あるいは他の自然現象で倒れるとしよう。
この時木の幹は根という栄養吸収の主たる器官を失い、死に向かっていく。
しかし人がやるように一部を切り取って別の個体に繋げてやると死なないこともあるんだ」
そうなのかと感心しつつも、生命の曖昧さに混乱する。
倒れた瞬間が死ではないとして、どの瞬間が死なのか、どこまでが生なのか。
肝心なところがはっきりしない。
「釈然としないようだね」
ぼくは頷く。
するとSはぼくに一つの問題を出した。
「では、これからもしも人類の意思が完全に統合されて、一つの集合体として動き出した場合、現在で言う一人の死は死とみなされるだろうか」
現在の価値観で言うならば一人の死は死である。
しかし集合体の中の一個体の死は死とみなされているだろうか。
単純に人の集団であれば、一人の死は死である。
しかし、例えば毛が一本抜けたとして「毛が一本死んだ」と言う人は見たことがないし、ぼくも言わない。
毛はぼくを構成する一部であって、ぼくではないからだ。
では毛にそれぞれ別個の意識があったとしたらどうだろう。
きっと隣に生えていた毛は、隣の奴が死んだと思うだろう。
つまり答えはこうだ。
完全に統合された集合体の中においては、一人の死は死とみなされない。
それを聞いたSは、今度は少し意地悪な笑みを浮かべて新たな問いを立ててきた。
「それでは、完全に意思が統合された集合体の内、何人が死ねば死とみなされるだろう」
人の個体数は八十億程度、その内何人が死ねば死と言うだろう。ぼくの体に置き換えて考えてみよう。
先ほどと同じく毛で考えるとすると、一本に死は感じない。
では百本ではどうだろう。一ヶ所からごっそり百本抜ければ毛が死んだと言っても違和感が無い気がする。
では全身から合計で百本抜けたとしたらどうか。
死んだとは絶対に言わないし、なんなら一日で抜けていそうな気すらする。
同じ数なのに死の判断は整わない。
ぼくはなんとなくSの言いたいことがわかってきた。
ぼくの顔を見てそれがわかったのか、彼はまとめに入った。
「生物、生命が、そして対となる死がどういうものかわかったみたいだね。
生死とは見方や立場で変容するものであり、二語で分けられるほど明確な境界は存在しないんだ。
だから君の疑問への答えは無いんだよ」
Sの話はいつも正しい。今日のことも、どこを否定することもできない。
しかし、博識なSの話を聞いて、初めて納得させられた気分になった。
もっともっと色々なことを考えて、調べて、Sを超えなければいけない。
そんな思いがフツフツと胸の内に湧き上がってくる。
鬱蒼と茂るジャングルの夜道を大きな金の月が覗いている。
ぼくはその月に向かって大きく
ドラミングした。
緑に囲まれて生活しているぼくにとって、動物も植物も皆馴染み深い。
生物を生物であると認識することは容易にできるが、しかしそれらを統合して生物と呼称したとき案外境界は曖昧であるように思う。
その曖昧さの根源にあるのは生命の定義であるわけだが、こんなにも定義が一つに定まらないものが他にあるだろうか。
人類は一万年も前から文明を発展させてきたにも関わらず、普遍的な概念であるはずの生命を一軸で捉えることができていないのである。
「この問題を難しくしているのは僕ら自身の存在だと思うんだ」
そう言うのはぼくたちが住む地域一帯の長であるSだ。
彼は博識でぼくの疑問にはいつも明確な答えをくれるのだが、今回ばかりはSと言えどもそう簡単にはいかないらしい。
彼はぼくの横に腰掛けると、一本のバナナを渡してくれた。
「難問には糖分が必要さ」
Sは持っていた自分の分のバナナを食べ始めた。
ぼくも彼に倣ってバナナを頬張る。
むちりとした歯触りと自然とは思えない程の贅沢な量の糖分が脳に刺激を与える。
幸福である。
しかしバナナは生命の境界を教えてはくれない。
……否、そもそも今ぼくが食べたバナナは生物だろうか。
よく考えてみれば本体から離れた植物の部位というのは、正しく生命の境界に位置しているではないか。
ハッとしてSに目をやると、満足気に少しだけ口角を上げてぼくの肩を軽く叩くと、そのまま立ち上がってどこかへ行ってしまった。
なんとも言葉にし難いものを感覚で示すとは、やはりSは博識だ。
ぼくの胃に収まったバナナを生物か非生物か、判断できればこの永遠に続くと思われた疑問も解決と言える。
「……どっちだろう」
言うは易く行うは難しとはこの事か。
そもそも切り離されたものと言っても葉と果実では全く意味合いが違う。又、果実であっても種子と果肉で分けることもできる。一つずつ判断していこう。
仮定:木から落ちた葉は非生物である
葉は独立したとき、自ら栄養を摂取し生長することはできず、繁殖する機能も持たない為、生物であるものの特徴をほとんど失っている。故に非生物である。
仮定:木から落ちた種子は生物である
種子は独立したとき、自らに蓄えられた栄養を用いて生長することができ、繁殖能力を得るため、生物である。
仮定:木から落ちた果肉は非生物である
果肉は独立したとき、葉と同じく生物としての特徴を失う。故に非生物である。
よし。大方間違いないだろう。
では、木から落ちた果実は生物か非生物か。
ぼくの気持ちはこうだ。
「木から落ちた果実は生物である」
そう言い切りたい。
しかしどうだろう。先の仮定が正しいとすると、果実は生物でありながら非生物という矛盾した物体になってしまう。
ぼくが果実に感じる生命感を正しく説明できない。
ではこれならどうだろう。
仮定:単独で生物として機能する核を有する物体は生物である
これならば種子という生物としての核を非生物の果肉や皮が覆っていたとしても、一つの物体としての果実は生物とみなすことができる。
なるほど。バナナは一本でも生物だ。
仮定は定義となった。
嬉しくなったぼくはSのもとに向かった。
そして生物の定義ができたことを報告した。
すると彼は少し困った顔をしてこう言った。
「それではあそこの大木と、あの倒木と、生物はどちらかな」
それはもちろん大木だ。
「そうだろう。では先ほどの君の定義に従って言うならば、あの倒木が失った生物としての核とは何かな」
……わからない。
先ほどまで世紀の大発見をしたような心持ちだったが、急激に自信を失ってしまった。
「そんなに悲しむことではない。ただ生物や生命という言葉は、君が思っているものとは少し違う形をしているんだ」
言葉の形とは、と考えているとSは「概念とも言う」と付け足し、そのまま話を続けた。
「例えば木が少しずつ腐食したり、あるいは他の自然現象で倒れるとしよう。
この時木の幹は根という栄養吸収の主たる器官を失い、死に向かっていく。
しかし人がやるように一部を切り取って別の個体に繋げてやると死なないこともあるんだ」
そうなのかと感心しつつも、生命の曖昧さに混乱する。
倒れた瞬間が死ではないとして、どの瞬間が死なのか、どこまでが生なのか。
肝心なところがはっきりしない。
「釈然としないようだね」
ぼくは頷く。
するとSはぼくに一つの問題を出した。
「では、これからもしも人類の意思が完全に統合されて、一つの集合体として動き出した場合、現在で言う一人の死は死とみなされるだろうか」
現在の価値観で言うならば一人の死は死である。
しかし集合体の中の一個体の死は死とみなされているだろうか。
単純に人の集団であれば、一人の死は死である。
しかし、例えば毛が一本抜けたとして「毛が一本死んだ」と言う人は見たことがないし、ぼくも言わない。
毛はぼくを構成する一部であって、ぼくではないからだ。
では毛にそれぞれ別個の意識があったとしたらどうだろう。
きっと隣に生えていた毛は、隣の奴が死んだと思うだろう。
つまり答えはこうだ。
完全に統合された集合体の中においては、一人の死は死とみなされない。
それを聞いたSは、今度は少し意地悪な笑みを浮かべて新たな問いを立ててきた。
「それでは、完全に意思が統合された集合体の内、何人が死ねば死とみなされるだろう」
人の個体数は八十億程度、その内何人が死ねば死と言うだろう。ぼくの体に置き換えて考えてみよう。
先ほどと同じく毛で考えるとすると、一本に死は感じない。
では百本ではどうだろう。一ヶ所からごっそり百本抜ければ毛が死んだと言っても違和感が無い気がする。
では全身から合計で百本抜けたとしたらどうか。
死んだとは絶対に言わないし、なんなら一日で抜けていそうな気すらする。
同じ数なのに死の判断は整わない。
ぼくはなんとなくSの言いたいことがわかってきた。
ぼくの顔を見てそれがわかったのか、彼はまとめに入った。
「生物、生命が、そして対となる死がどういうものかわかったみたいだね。
生死とは見方や立場で変容するものであり、二語で分けられるほど明確な境界は存在しないんだ。
だから君の疑問への答えは無いんだよ」
Sの話はいつも正しい。今日のことも、どこを否定することもできない。
しかし、博識なSの話を聞いて、初めて納得させられた気分になった。
もっともっと色々なことを考えて、調べて、Sを超えなければいけない。
そんな思いがフツフツと胸の内に湧き上がってくる。
鬱蒼と茂るジャングルの夜道を大きな金の月が覗いている。
ぼくはその月に向かって大きく
ドラミングした。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる