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IQ指数2の会話

「ワレワレハ」

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 私の彼女はIQも偏差値もすこぶる高い。会話の内容も返しも知性とユーモアに富んでいて、そんな会話の繋げ方があったのかと驚くことも多々ある。
 でも、私の前ではやはり愛しい愛しいバブである。そしてつられて私もバブになることがしばしば……いや、よくある。
私たちの会話はたちまちIQ2まで低下し、外出先で会話を聞かれると色々な意味で道行く人々が振り返ることがある。凝視されることも二度見されることもある。

 その日は2人で初めて飛行機に乗って3泊4日の旅行に行ったある冬の日だった。
朝に弱い私達が珍しく早起きをして、水族館へと向かうフェリー乗り場へバスを乗り継いだ。やや気怠げにバス停を降りた私たちを待っていたのは強風だった。
「ちゃんノア!!寒い!」
ロキが叫ぶ。
「ひょえー!寒いね!見て見て髪がメデューサ!」
パーマがかった髪が変幻自在に舞うことに笑いながらロキに話しかけた直後、ふと嫌な予感が頭をかすめる。ーーーフェリーの運行情報を見ていない。GoogleMapの運行時間しか確認していない。
 そっと隣にいる彼女の顔色を伺うと、既に風でヘアセットが大きく乱れ、暖かい地方に来たはずなのに容赦なく打ち付けられる冷気に心が折れかけている南国育ちのロキがいた。
言えない、言い出せない、この強風ではもしかしたら……欠航かもしれないなんて。
 スーツケースを引く私たちに立ちはだかる階段。引き続き待ち構えるのは長いスロープ。それを超えても尚、私は言えないでいた。
周囲に人は見当たらない。有名な水族館のようで観光名所になっていたはずだから、人っ子1人いないことなど本来であれば有り得ない。そのことに全く気付く様子のないロキ。……たまに抜けている。
「ぺっ!ぺっぺっ!口にノアの髪入った!」
知り合いがいないからと油断しきって素をさらけだし、私の髪の毛を吐く姿まで可愛い。
ーーー違うそれどころではない。
「あ、乗り場あそこじゃないかな……私見てくるね?」
 見えてきた目的地に向かって、ロキの返事も聞かずに私は走った。スーツケースを引きずったまま、メロスも真っ青な速さで走った。時刻表まであと10m。徐々に不安と運動不足で早くなる鼓動。7m。跳ねるスーツケース、危ないひっくり返る。5m。張り紙が見える気がするいや気のせいだ!!!3、2、1……。

【本日は運休日となっております】

ぴたりと止まる足と思考。そしてゆっくりと振り返った私の小さく、しかし通る声。
「うん……運休。」
「えっ?」
「運休。」
「チョットヨクワカラナイ」
カタコトになってスーツケースを手放し、呆然とした顔を見せるロキ。そして数秒後、爆笑。
「えええ!ここまできて!?」
「ごめぇん……」
半泣きでフェリーの代わりに謝罪する私。何者にもこの天使の行手を阻むことは許されない筈だ。強風の馬鹿野郎。
 ふと笑いやむと、踵を返して来た道を戻っていくロキ。拗ねてしまったかと不安になって慌てて追いつく。
「ロキちゃん大正レトロ見に行こ?ね?楽しみにしてたでしょ?」
返ってくる静寂。焦りを募らせながら顔を覗き込むと……iPhoneの画面を食い入るように見つめていた。
「…………ける」
「え?」
「バスで行ける!」
彼女は水族館を諦めていなかった。
「バス、時間かかったよね?タクシーで……」
「バスで行く!!!」
口元がぎゅっと結ばれて、眉間に皺が寄っている。美しい顔全体が今は梅干しだ。しかしそれも可愛い。颯爽とスロープへと向かっていくロキ。足取りは軽い。そんなに水族館に行きたかったのか、それとも私が水族館が好きと話したからなのか。
 私もやる気を出して隣に並び、歩みを進める。強風に煽られた髪のせいで前も横もほぼ見えないが、受動的なロキが私との行事になると俄然やる気を出すことへの嬉しさを再度噛み締めて進む。
「ロキちゃん、とりあえずこの先のショッピングモールで……」
横を向く私、視界に写らないロキ。足を止めて目線を巡らせる。
ーーーいた。
遥か後方、スロープの半分も行かないところで亀のような速さで歩くロキを見つけた。そうだ、この子体力ないんだった。
 困り顔の彼女が愛し過ぎたが、笑ったらいけないと思って顔には出さずに彼女のスーツケースを掴む。
「貸して、こっちも持つね。」
「……うん。」
力ない返事も可愛らしくてまた笑いそうになるのを隠すために先を歩く。

「なんか勇ましいよ!ちゃんノアカッコいい!」

 中々追いついてこないと思っていると、そんなセリフと共にiPhoneのシャッター音が聞こえだす。感情の移ろいが激しい。
「かっこいいか?」
「かっこいい!キメて!」
前を向く私。写真を撮るロキ。50m以上ありそうなスロープはやっと終わりを告げた。


 1時間半以上バスに乗り、やっと目的地に辿り着くことができた私たち。イルカよりノリノリで踊るショーのお兄さんに笑ったり、“飛び跳ねるヨダレカケ"の説明文に何度も無言でシャッターを切ったり、決めポーズでクラゲの写真を撮っている姿を撮られたりしているうちに、次の予定が迫っていた。
 サンセットと夜景を見るための山登りに備えて私がトイレでヒートテックを着込んでいるうちに、ロキが目的地までの行き方を調べてくれていた。
「こっちの道だよ。多分。」
「案内板あるけど見る?」
「大丈夫、Googleがこっちって言ってる。」
行く先が駐車場であることに一抹の不安を覚えながらも、彼女についていく。案内板をチラッと横目で見ていた私は、駅が反対方向であるような気がしてならなかったが、たしかにGoogleは今歩いている道を示していた。
「この先を……あれ」
立ち止まるロキ。進まなければいけないはずの道に、歩道はなかった。今日はとことん目的地への道を阻まれる運命にあるらしい。
私はため息をついて口を開いた。

「われわれは「宇宙人だ!!!!!!!」」

口どころか目を見開いた。

「宇宙人。」
「……え?違うの?」
「うん、えっと」
笑いを堪えて何とか話の続きをしようとする。
「えっとね、われわれは「宇宙人だ!!!!」」
耐えきれなくなってふきだした。
「あのね……ひっ……われわれは…いつになったら目的地に……辿り着けるのだろうかって……言おうとしたの…ひっ……」
引き笑いが止まらない。息も絶え絶えに説明する私に向かって目を瞬いたあと、ロキの顔がにやけ始める。
「目的地ね……ふふっ……」
「宇宙人か?ふふふっ」
「宇宙人だ!!!!ふふふっ」
笑いが止まらない。周りに誰もいないことを良いことに、何度かそのやり取りを繰り返す。葉が散り始めた並木道を、2人で転びそうになりながら歩く。

やっぱり私の彼女は、今日も世界一可愛い。
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