マイフェアレディも楽じゃない

佐倉 紫

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1巻

1-2

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 ――結婚相手はもちろんだが、伯爵家の跡継ぎなんてわたしには荷が重すぎる!
 このまま黙っていてはトントン拍子びょうしに話が進んでしまうだろう。そうなっては大変だ。

「あの! そもそもわたし跡継ぎとか結婚とか考えて――、きゃっ!」

 勢いよく立ち上がろうとしたジェシカは、素早く服を引っ張られて椅子に戻された。その張本人であるリジオンは、何事もなかったようににっこりと口を開く。

「男爵のおっしゃりたいことはわかりました。要は、ジェシカ嬢が現状、侯爵家の生まれであるわたしにふさわしい淑女でないため、結婚させられない。そういうことですね?」
「えっ……まぁ、そうです……」
「だったら、彼女が文句のつけようもない立派な淑女なら、わたしとの結婚も許可するということですね?」
「いや、ですから。その娘が短期間で淑女になれるわけが――」
「なれますよ。他でもない、このわたしが直々じきじきに彼女を指導するのですから」
「はっ……?」

 これには親族だけでなく、ジェシカも一緒になって聞き返した。

「リ、リジオン卿が、その娘をしつけると? 専属の家庭教師を呼ぶのではなく?」
「今から一流の教師を探すのは時間的に難しいでしょう。ならばわたしが彼女の護衛を兼ねて、そばについて教えるのが一番よい方法かと」
「ちょっとお待ちください。護衛、とおっしゃいましたか? なぜそんなものが必要なのです」

 ベリンダが眉をひそめて口を挟んでくる。それには答えたのはリジオンではなくユーリーだった。

「実はわたしたちがここへ着く前、誘拐まがいの事件が起きていたのです。被害者は他でもないジェシカ嬢。彼女は伯爵の葬儀のあと、御者の手引きによって無法者に引き渡されそうになっていたのです」

 親族たちがざわっとどよめく。ベリンダも「まぁ、そんなことが」と目をみはっていた。
 ……それがかなり胡散臭うさんくさく見えるのは、ジェシカの思い過ごしだろうか。

「グランティーヌ伯爵家は建国から続く由緒正しい家です。王家の覚えもめでたく、領地も財産も大変に豊かときている。その跡を継ぐのがまだ年若いご令嬢となれば、よからぬことを考えるやからも出てくるだろうと、かねてより伯爵は懸念けねんされていました。それが伯爵の死後、早々に現実になったということです」
「ちょうど伯爵邸に向かっていたわたしたちが、ジェシカ嬢の馬車の異変に気づき助けに入ることができました。そうでなければ、今頃彼女は我々の手の届かないところへ連れ去られていたかもしれません」

 ユーリーのあとを引き継ぎ、リジオンが硬い声音こわねで言う。そこにリジオンのいきどおりを感じ取った親族たちが、ごくりと唾を呑み込んだ。

「そういった状況からも、ジェシカ嬢にはしっかりとした護衛が必要なのですよ。王国騎士団所属の騎士であるわたしは、その役にうってつけでしょう」
「ご、護衛を任せる騎士や軍人ならば、我が一族にも当てはまる者がおります……」
「ほう? このわたし以上に、武に優れた者がいるということですか?」

 リジオンは冷ややかに問いかける。ちらりと見た彼は相変わらず微笑んでいたけれど、その目はちっとも笑っていなかった。
 だいたい、リジオンにかなう人間なんて国中探してもいないんじゃ……とジェシカは思う。
 ならず者たちを倒した彼の動きは神がかっていたし、自信満々にそう言えるだけの強さがあるのは、きっと間違いないだろう。

(……でもちょっと強引というか、横暴な気がするけど!)

 未だ服を引っ張られたままのジェシカは、椅子から立ち上がることもできずきつく唇を噛みしめる。これで自分がまたなにか言おうものなら、今度は脇腹でもつねられそうだ。
 誰もが口を閉ざし、部屋に重苦しい空気がただよう。
 それを振り払ったのは、ユーリーの明るい声だった。

「わたしとしては、三ヶ月後の王宮舞踏会に向けて、リジオンを護衛兼教師として伯爵家に滞在させ、ジェシカ嬢を立派な淑女に教育してもらうつもりです。亡き伯爵の意向に添い、二人が婚約するなら、お互いを知るためにもそばにいるのは悪くないと思いますしね」
「いや、ですが、やはり我々は、たかだか三ヶ月程度でその娘がどうにかなるとは思えません」

 ラスビーゴ男爵がしつこく食い下がる。それに対し、ユーリーは「わかりますよ」という面持おももちで頷いて見せた。

「では、こういうのはどうでしょう。どのみち護衛は必要なので、リジオンが護衛兼教師としてジェシカ嬢の教育をになう――これは彼女の後見役としての決定事項です。弟が言った通り、今から一流の教師を探すのは難しいですし、外部の人間がこの邸に頻繁ひんぱんに出入りするのも、警備の関係から避けたいですしね」

 物言いたそうな親族たちをぴしゃりと牽制けんせいし、ユーリーははきはきと続けた。

「その上で、もしジェシカ嬢があなた方の納得する成果を出せなかった場合は、弟との縁談を破棄し皆様が選出した方と結婚させる……ということでいかがでしょう?」
「いや、ですからわたしは結婚とか考えてない……痛い痛い痛い!」

 たまらず声を上げたジェシカの脇腹を、リジオンは本当につねってきた。おまけに「おまえはちょっと黙っていろ」と低い声で脅され、ジェシカはすべもなく口を閉じる。
 親族たちは考えるようにうなり声を漏らしたが、やがてラスビーゴ男爵が低い声で問いかけてきた。

「リジオン卿、本気でその娘を教育なさるおつもりですか?」
「そういう男爵こそ、先ほどからわたしがこの家に入ることをずいぶん渋っておられる。もしや男爵は、伯爵家の婿としてわたしがふさわしくないとお考えなのですか?」
「いえ、決してそのようなことはっ!」

 さすがに不興は買いたくないのだろう。男爵は慌てて否定した。

「ですが、伯爵家のこととなれば、我々も黙っているわけにはいかないのです。ヒューイ子爵がご提案された通り、こちらも急ぎその娘の婿候補を用意いたします。詳しい話はまたそのときに」
「わかりました」

 リジオンは望むところだとばかりに微笑んだ。
 だが、ジェシカとしてはまったくもって納得できない。これまでの話はすべて自分に関わることなのに、本人の意思が綺麗に無視されている!
 脇腹をつねられながらも、ジェシカは必死に隣のリジオンへ訴えかけた。

(無理! 無理です! 親族たちの言葉に従うのは腹立たしいけれど、自分が三ヶ月やそこらで立派な淑女になれるとはとうてい思えない!)

 ジェシカの声にならない声に気づいているだろうに、リジオンは涼しげな顔でそれを無視した。

「では、わたしと彼女は先に退席させていただきます。彼女も祖父を亡くしたばかりで気落ちしているでしょうから、このあとはそっとしておいてあげてください」

 暗に『誰もこいつに近寄るな』と釘を刺したリジオンは、ジェシカの腕をぐいっと引っ張った。
 突然のことに足をもつれさせながら、ジェシカは彼に腕を引かれるまま食堂を出る。
 どんどん歩いて行くリジオンの背に、ジェシカはたまらず声を上げた。

「ちょ、ちょっと待って、離して」

 だが、リジオンの足が止まることはなく、結局私室が連なる三階まで引っ張ってこられてしまう。

「よし。ここなら親族どもも追いかけてこないだろう」

 人気ひとけのない廊下に入り込んだところで、ようやく手が離される。慌てて身体を引いたジェシカは、キッとリジオンをにらみつけた。

「もうっ、いきなり腕をつかまないでよ。痛いじゃない! さっきだって、ひとの脇腹を思い切りつねって。あとになったらどうしてくれるのよっ」
「どれくらい力を入れればあとになるかくらい心得ているさ。そもそもコルセットをしていないおまえが悪い。年頃なんだからきちんとした下着を身につけろ」
「ちゃ、ちゃんと胸当て付きのシュミーズを着ているわよ! というか、あなたが婚約者ってどういうこと? それに淑女教育とか……そもそも、わたしはこの家を継ぐ気なんてないわ。腹が立つけど、あのひとたちの言う通り、庶民育ちのわたしに伯爵家の跡継ぎなんて無理よ……!」

 食堂で言えなかった言葉を、ジェシカはここぞとばかりに吐き出した。
 ベリンダの言葉ではないが、ジェシカは庶民育ちだ。父は貴族だったかもしれないが、母はどこにでもいる町娘で薬師として働いていた。
 だから祖父が不治の病に倒れたとき、その最期を看取ったら、自分は伯爵家を出て母のような薬師となり、どこかに店を構えて薬を売って暮らそうと考えていたのだ。
 それが、数百年の歴史と広大な領地を持つ伯爵家の跡継ぎに指名されるなんて!
 伯爵邸で過ごしたこの二年間で、ジェシカは祖父がどんな人物か少なからず理解している。重い病気を抱えてもなお賢く寛大で、領主にふさわしい広い視野を持ったひとだった。
 だからこそ、庶民出の自分を跡継ぎに指名した祖父の考えがわからない。
 だが困惑するジェシカの隣で、リジオンは「そんなに驚くことか?」と首をかしげた。

「貴族というのはたいてい長男に家を継がせるものだ。おまえの親父さんは駆け落ちで家を離れたとはいえ、伯爵家の嫡男。本来なら親父さんが継ぐはずだった爵位が、次の代にめぐってきただけの話だろう?」
「そんなこと言われても……!」

 貴族のあいだでは常識でも、ジェシカにとっては簡単に頷けるものではない。
 戸惑って視線を彷徨さまよわせていると、不意にリジオンの厳しい声音こわねが耳に入ってきた。

「じゃあ、おまえはこの先、この家がどうなってもいいと思うのか?」
「ど、どうなっても、って?」

 急に態度を変えたリジオンに、ジェシカはびくりと肩を揺らした。

「おまえが跡継ぎの権利を放棄した場合、次にこの家を継ぐのは誰になると思う?」
「誰って、言われても……」
「おそらく、あのベリンダとかいううるさいおばさんになるだろうな。あのおばさん、おまえの親父さんの姉だろう?」

 ジェシカはおずおずと頷く。
 集まった親族のほとんどは初めて見る顔だったが、ベリンダは祖父が生きていた頃からよく屋敷を訪れていたため、顔を合わせる機会も多かった。
 父に姉がいたとは知らなかったので、初めて伯母と名乗られたときは心がおどった。
 しかし二言三言話しただけで、その喜びはあっけなく霧散むさんした。なにしろ初対面から嫌みのオンパレードで、すぐに『二度と会いたくない人物』として記憶したくらいだ。

「直系の親族であるおまえが相続を放棄すれば、その権利は一代さかのぼって、あのおばさんに行く可能性が高い。想像してみろ。あのおばさん、見た目からして相当の派手好きだろう? 葬儀に出向くにしては今日の恰好は豪華すぎる」

 ジェシカはベリンダのよそおいを思い出した。言われてみれば確かに、レースやら宝石やらがあちこちについていた気がする。

「そんな女が、この家の爵位と財産を手にしたらどうなる? いくら庶民育ちといえど、簡単に想像はつくだろう?」

 ジェシカは、今度は重々しく頷いた。
 同時に、伯母がこの邸を訪れる目的が、たいていお金の無心むしんだったことを思い出す。
 そのたびに祖父のめいを受けた家令がきっぱり断っていた。だが祖父が亡くなった今、これまでと同じように対応することはできないだろう。

「他の親族も似たり寄ったりって感じだったな。おまえが伯爵家を相続すると聞いた途端、一様に顔色を変えていた。あいつらは隙あらばおまえに取って代わって、この家の財産を食い荒らそうとたくらんでいるはずだ。条件のいいおれではなく、自分たちの用意した婿とおまえを結婚させようというのがいい証拠だ」
「え、どういうこと?」
「奴らの目的はこの家を乗っ取ることだ。遺言がある以上、お前がこの家の跡継ぎであることは絶対にくつがえせない。それなら自分たちの息のかかった者を婿入りさせて、そいつを通してこの家を好きにするというのが最善策というわけだ」
「うわっ……」

 ジェシカは思わず顔をしかめる。ラスビーゴ男爵がしつこくリジオンに反対していたのは、そういう理由からだったのか。

「そうなったら、この家はあっという間にあのハイエナどもに食い尽くされる。下手へたしたらおまえにも危険が及ぶぞ」
「えっ! どうして……!?」
「おまえはこの家の跡継ぎではあるが、実際に爵位を継ぐのは結婚相手だ。つまり結婚さえしてしまえば、もうおまえは用なし。無視されたりないがしろにされるならまだしも、この家から追い出されたり、最悪、命だって……」

 ジェシカはゾッと背筋を震わせた。ならず者どもに連れ去られそうになった恐怖がよみがえる。
 ――そんな未来は絶対に御免ごめんだ!
 そこでジェシカはハッと目の前のリジオンを見上げた。

「もっ、もしかしてあなたも、同じようなことを考えていたりしないでしょうね? わたしと結婚して爵位を継いだら、わたしを……!」

 恐怖のあまり、思わずそんなことを口走ってしまう。
 壁に背をつけ距離を取るジェシカに、リジオンはあからさまに大きなため息をついた。

「馬鹿。なんでそうなるんだ。すでにおれは金も地位も社会的評価も充分に持っている。逆に欲に目がくらんでおまえをどうにかしようものなら、まず間違いなくユーリーに殺されるだろうよ」
「そ、そうなの……」

 あの穏やかなユーリーがそんなことをするとはとうてい思えないが、リジオンの表情はいたって真面目だった。

「とにかくおれは、この家の財産やらなにやらが、ああいう利己主義な奴らに食い尽くされるのは我慢ならない。きっと伯爵だって死んでも死にきれないはずだ。あのひとの公明正大な人柄は、おまえだってよく知っているだろう」
「ええ、それはもちろん」

 祖父は気難しいところもあったが基本的に優しく、誰に対しても公平だった。領地で問題が起きれば病を押しても解決のために動いていたし、そのために私財を投じることもいとわない高潔な精神の持ち主だった。
 不意に、祖父の笑顔や乾いた手の温かさを思い出して、ジェシカの瞳に涙が浮かぶ。
 忘れかけていた悲しみがどっと胸に押し寄せ、再び家族を亡くしてしまった事実が、孤独とともに重くのしかかってきた。

「……っ、ご、ごめんなさい」
「謝ることじゃないさ。家族を亡くしたら、悲しいのは当たり前だ。……泣いておけ」

 ぼろぼろと泣き出したジェシカをとがめることなく、リジオンは優しくそう言った。
 葬儀のとき、こらえきれずにすすり泣いたジェシカを、親族たちは不快そうに顔をゆがめて見ていた。そのせいでこれまで祖父のために泣くことができなかったのだ。
 リジオンの厚意に甘えて、ジェシカは少しの時間、悲しみにひたる。

「う、うぅっ、うー……」

 リジオンは紳士らしく横を向いて、ジェシカの泣き顔を見ないでくれている。そうしながらも、じっと隣でジェシカが落ち着くのを待っている様子に、深い感謝の思いが湧いた。
 同時に、彼もまた祖父の死をいたんでくれているのが伝わってきて、心の奥が温かくなる。
 形ばかりの悲しみを見せて、葬儀から帰ってくるなり爵位や財産のことでいきどおる親族たちとは違う。
 それだけで、ジェシカは救われた気持ちになった。
 ――どれくらいそうしていただろうか、リジオンがやがてゆっくり口を開く。

「伯爵がおまえを跡継ぎに指名したのは、直系だからという理由だけじゃなく、おまえならきっとこの家を護ってくれると期待したからだろう。突然のことで戸惑うのもわかる。だが、伯爵の遺言に沿うことが、おまえのできる最後の祖父孝行じゃないかと、おれは思う」

 最後の祖父孝行……
 そう言われると、相続を放棄してこの家を出ることが、とても無責任で身勝手な行動に思えてくる。祖父の願いならもちろん叶えたい。亡き両親のぶんもたくさん愛情をそそいでくれた祖父のために、自分ができることがあるなら頑張りたいと思うが……

「……でも実際、わたしがなんの教養もない庶民出の娘であることは変わらないわ。そんなわたしに、この家の跡継ぎが本当に務まるのかしら……?」

 ベリンダの言った『育ちのいやしい』という言葉が思い出され、ジェシカはうつむいて唇を噛む。
 ずっと薬師になるつもりで専門的な勉強はしてきたが、それ以外となるとさっぱりである。まして伯爵家の跡継ぎなど、完全に未知の領域だ。
 祖父に引き取られた二年間は伯爵邸で暮らしていたが、令嬢らしい華やかな生活をするよりも、病に苦しむ祖父のために薬作りばかりしてきた。
 悔しいが、親族たちの言う通り、三ヶ月かそこらで自分が立派な淑女になれるとは思えない。

「そこでおれの出番というわけだ。言っただろう? あいつらを納得させると。ちゃんと貴族のお嬢様らしくなれるように、一からみっちり教えてやる」

 沈み込むジェシカに、リジオンが力強い声音こわねで言う。ちらりと目を向けると、彼はまっすぐにジェシカを見つめていた。
 黒い前髪からのぞく藍色の瞳に射貫かれ、ジェシカは思わず息を呑む。面食いの自覚はなかったが、これほど秀麗な顔に見つめられるとさすがに落ち着かない。
 恥ずかしさから慌てて目をらしたジェシカは、内心の動揺を隠して彼に突っかかった。

「ほ、本当にそんなことができるの? 親族たちは絶対無理って言ってたけど」
めるなよ。おれを誰だと思っている」

 誰と言われても……
 というのが正直な気持ちだったが、あまりに堂々と言い切られてしまい反論する気持ちが失せる。
 一方で、なぜ彼がここまでジェシカに協力してくれるのかが気になった。

「そもそも……あなたは、本当にわたしと結婚するつもりなの? よくわからないけど、あなたは侯爵家の次男で、名の知れた騎士様なんでしょ? いくらお祖父じい様に頼まれたからって、そんな理由で結婚相手を決めちゃっていいの? それに……」

 祖父の顔を思い浮かべながら、ジェシカはじっと疑いのまなざしをリジオンにそそいだ。

「本当にお祖父じい様は、わたしとあなたを結婚させたがっていたの? わたしは跡継ぎのことはもちろん、結婚についてだって一度も聞かされたことはなかったけれど」
「そうだな。いきなり現れた男に『婚約者だ』って言われたら驚くのも無理はない。――だが、おまえには婚約者の存在が必要だ。それもできるだけ名の知れた奴が」
「どういうこと?」
「伯爵の遺言が明らかになれば、婿の座を狙って、親族だけじゃなく大勢の男たちがおまえに近づこうとしてくるはずだ。もちろんおまえの相続する伯爵家の諸々もろもろが目当てでな。だがすでに婚約者がいるとなれば、強引な誘いは断ることができる。逆に本気でおまえと一緒になりたいという奴は、たとえ婚約者がいても真面目に求婚してくるだろう」

 前者はともかく、後者は果たしているのかなぁとジェシカは首をかしげる。だが説明するリジオンは真剣な面持おももちだった。

「どのみちおまえは、いずれ婿を取って結婚しないといけないんだ。それなら、おれをそばに置いておくのは悪いことじゃないだろう?」
「でも……財産目当てで寄ってくるひとを牽制けんせいするのが目的なら、親族が用意するひとでもいいんじゃないの? そりゃ、そのひとにこの家を乗っ取られたり、殺されたりするのはいやだけど……」
「伯爵家を好きにしようとしている連中だぞ? まともな人間を用意するはずがない。あやつられていることにも気づかない頭の悪い奴に決まっている。年も、おまえよりずっと上とかな」
「うっ。そ、それは……かなり、いやなんだけど」

 ジェシカにだって年頃の娘らしく、結婚に対する夢はある。完璧な貴公子とまでは言わないが、せめて人並みの容姿で、年齢差も十歳以内であってほしいと思っていた。

「だろう? だから身内が紹介する男は一番に除外しておけ。その点、おれはさほどおまえと年も離れていないし、侯爵家の出で王国騎士団に所属する腕利きだ。顔も悪くないと思うが?」

 確かに、かすかに首をかしげて微笑む姿は、思わず見惚みとれてしまうくらい魅力的だった。

「でも……、あなたは本当にそれでいいの? もし跡継ぎのわたしと結婚することになったら、あなたはこの家を護っていかなきゃならないんでしょう。それってものすごい重責を背負うことになると思うんだけど……」

 言いながら、その責任は彼だけでなく自分も負うことになるのだと再確認して、戸惑いと不安が膨れ上がる。だが上目遣いでうかがうジェシカに、リジオンはしっかり頷いて見せた。

「いいに決まっている。だからここにきたんだよ。それにおまえは、あのグランティーヌ伯爵が跡継ぎに指名した娘だ。おまえを信じた伯爵の目を、おれは信じている」

 揺るぎない声音こわねでそう断言され、ジェシカは思わず弱気な言葉をつむぎそうになる口を閉じる。
 まっすぐ自分を見つめるリジオンの瞳を見ていると、「できない」、「無理」、といった言葉を吐き出すのは躊躇ためらわれた。
 かといって不安がなくなるわけではない。いくら彼が教育係を務めてくれるといっても、自分が本当に淑女になれるかどうかもわからないのだ。
 だがここでジェシカが無理と言ってしまえば、親族たちの思うつぼになってしまう。
 ――そんなことにはしたくない。
 祖父や、祖父が護ってきたもののために、ジェシカができることが跡継ぎになることだというのなら、自分は迷うことなく遺言を受け入れるべきだ。
 大丈夫、リジオンが協力してくれる。ユーリーだって。自分はたった一人で残されたわけではないのだ。きっとなんとかなる――いや、してみせる!

(お祖父じい様のために、家のために、わたしはわたしができることをするだけよ……!)

 そう決意したジェシカは、リジオンの藍色の瞳をまっすぐ見つめ返した。

「跡継ぎどころか、淑女らしくなれるかもさっぱりわからないけど、精一杯頑張るわ。だから、お力添えをお願いします」

 リジオンに向かって、ジェシカはしっかりと頭を下げた。

「いい心意気だ。大丈夫、明日からみっちり教えてやるから、大船に乗ったつもりでいろ」
「はい! よろしくお願いしますっ」
「こちらこそよろしく、婚約者殿」

 リジオンの中では、ジェシカが淑女になることは確定しているらしい。
 すっと彼の手が差し出されたのを見て、ジェシカは目をぱちくりさせた。

(ああ、よろしくって意味の握手ね)

 得心がいった彼女は、なにも考えず彼の手を握る。
 するとリジオンは、わずかに身をかがめてジェシカの手を自身の口元へ持っていった。そして、白くなめらかな甲にちゅっと唇を落としてくる。

「……っ!?」

 ジェシカはびっくりして、反射的に手を引っ込めた。

「なっ、ななな、なにをするのっ?」
「なにって、挨拶あいさつだろ? 貴族のあいだじゃ、男が女にする挨拶あいさつは手の甲へのキスが普通だ」
「そ、そうなの」

 なんて心臓に悪い挨拶あいさつだ。未だばくばくする心臓に手をやり、ジェシカは大きく息を吐き出した。

「手にキスをされたくらいでそんなに驚くとは。……これは、淑女教育の内容をちょっと考える必要があるな」
「へ?」
「外に出した瞬間、速攻で食べられそうで危なっかしい」

 ――食べられる?
 意味がわからず首をかしげるジェシカに、リジオンはやれやれと首を振った。そうして、おもむろに距離を詰めてくる。

「え? ちょ、ちょっと……」
「つまり、こういうことだ」

 そう言うなり、ぐいっと腰を引き寄せられる。突然のことに文句を言おうとしたジェシカの口が、リジオンのそれに塞がれた。

「んっ!? んん、ンぅ――!」

 混乱のあまり変な声が出る。だが、それはぴったり合わさった唇のせいで、くぐもったうめき声にしかならない。
 若葉色の瞳を大きく見開いて、ジェシカはリジオンの藍色の瞳を見つめた。
 男のひとなのに、信じられないほどびっしりと睫毛まつげが生えている。さらさらの前髪のあいだからじっと見つめられると、否応いやおうなく心拍数が上がってなにも考えられなくなってきた。

(って、ほうけてる場合じゃない! く、くちがっ、くちびるがっ、重なって――!?)

 温かくて柔らかな初めての感触に、ジェシカはどうしていいかわからずただただ混乱する。
 あまりのことに硬直しているジェシカに構わず、リジオンは角度を変えて何度か唇を押しつけたあと、おもむろに深く侵入してきた。
 悲鳴の形に開いたままだったジェシカの口内に、ぬるりと肉厚の舌が入り込んでくる。

(――ッ!?)

 他人の舌に歯列や頬の内側をめられる感触に、ジェシカは危うく卒倒しそうになった。
 ジェシカにとっては永遠にも等しい時間、彼女の口腔こうこう内を堪能したリジオンは、顔を上げるなり「うーん」と悩ましげな顔をする。

「……たったこれだけで、こんなふうになるんだからなぁ」

 すっかり放心状態におちいっていたジェシカは、その台詞せりふにハッと我に返った。

「なっ、どっ、どういう、こと……、というか、今の、キッ、キキキ……」
「キスだけど? いずれ結婚するんだから、したって問題ないだろう」
(大ありなんですけど――ッ!?)

 まだ正式に婚約が決まったわけでもないのに、いきなりなにをしてくれたのだ、この男は――!

(そ、それも、初めての……! わたしにとってはファーストキスだったのにぃぃぃッ!)

 密かに抱いていた乙女の夢ががらがらと音を立てて崩れていく。まさか初めてのキスが、こんな一方的に、おまけに舌まで入れられて奪われるなんて……!
 だがジェシカはその思いを言葉にすることはできなかった。あまりの衝撃に口をぱくぱくさせるのが精一杯で、リジオンに支えられていなければその場にへたり込みそうになっていたからだ。
 そんな彼女を見下ろし、リジオンはふっと笑う。

「どこの馬の骨とも知れない奴にこういうことをされないためにも、これからいろんな勉強をしていかないとな」

 ――いろんな勉強ってなに!? あなたがするのは淑女教育じゃなかったの!?
 ジェシカの心の声が聞こえているのか、リジオンはしごく楽しそうな面持おももちで宣言した。

「せいぜい覚悟しておけよ。明日からビシバシいく。表向きのことも、そうじゃないこともな」
「ひぃっ!」

 耳元に顔を寄せ男らしい低い声でそう宣言されたジェシカは、情けなく悲鳴を上げる。


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