マイフェアレディも楽じゃない

佐倉 紫

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1巻

1-3

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「まだ早いが、今日はこのまま休め。いろいろあって疲れただろう。食事は部屋に運ぶように家令に伝えておく」

 まるでこの屋敷のあるじのような態度で言うと、ようやくリジオンはジェシカから身体を離した。

「じゃ、お休み」

 片手をひらひら振ってリジオンは階段へ向かう。
 その姿が完全に見えなくなっても、ジェシカはしばらくその場を動くことができなかった。


   *   *   *


 翌日の朝。ジェシカは晴れやかな天気とは正反対のげっそりとした面持おももちで、食堂に下りていった。
 燦々さんさんと日の入る広々とした食堂に、昨日のすさんだ空気は残っていない。長テーブルの一角では、ユーリーとリジオンが優雅にコーヒーを飲んでいた。

「おはよう、ジェシカ」

 こちらに気づいた二人がにこやかに挨拶あいさつしてくる。ユーリーはともかく、リジオンが何事もなかったような笑みを浮かべているのは、なんとも腹立たしかった。

(こっちはあなたのおかげで寝不足だっていうのに……)

 リジオンにきつい視線を送りながら、ジェシカはうながされるまま近くの席に腰かける。
 給仕がすぐに動いて、三人の前にできたての朝食を並べた。
 カリカリに焼いたベーコンに、黄身がとろりとこぼれる卵。新鮮な野菜を使ったサラダに、じっくり煮込んだスープ。かごにはパンが山盛りに盛られ、しぼりたてのジュースまであった。
 食欲をそそる匂いに、ジェシカのお腹がぐぅっと空腹を訴えてくる。
 昨夜は、リジオンのキスと意味深な言葉を思い出し、赤くなったり青くなったりして一夜を過ごした。運ばれてきた夕食もほとんど食べられなかったので、今になってお腹が空いてきたのだ。

「冷めないうちにいただこうか。難しい話は美味おいしい食事には合わないからね」

 赤くなったジェシカにくすりと笑って、ユーリーはそう声をかけてくる。
 その言葉に深く頷き、いそいそとナプキンを広げたジェシカは、さっそくしぼりたてのジュースに手を伸ばした。さわやかな香りとともに、喉を通り過ぎる冷たさに寝不足の頭がシャキッとしてくる。
 空腹も手伝い、ジェシカはあっという間に朝食を平らげた。
 リジオンとユーリーもそれぞれ食べ終え、食後のお茶を待つ。そのあいだ、ナプキンで口元をぬぐったユーリーがゆっくり口を開いた。

「――さて、あらかた食べ終わったところで今後の話をするよ。まず昨日の親族たちについてだが、彼らのほうで用意する君の婚約者候補は、二週間後にこちらに顔を出すそうだ。そのときに、君がリジオンにふさわしい淑女かどうかを試すための試験内容を告げるらしい」

 試験内容。穏やかじゃない言葉に、ジェシカはれ立ての紅茶にせそうになった。

「まさかその場で試験を始める、なんてことはないよな?」

 リジオンの言葉に、ユーリーはしっかり頷く。

「そこはちゃんと釘を刺しておいたよ。王宮舞踏会までは三ヶ月ある。となれば試験はその直前で構わないだろう、とね。それで悪いけれど、僕はこれから王宮に出向かないといけない。グランティーヌ伯爵の遺言について、陛下に報告する義務があるんだ」

 そう言って、ユーリーはナプキンをテーブルの上に置いた。

「そうですか……。あの、よろしくお願いします」

 ジェシカは居住まいを正し、ユーリーに深く頭を下げる。ユーリーは「気にしないで。これも後見人の仕事だから」と言いながら、ジェシカに好意的な視線を向けた。

「ただ、他にもいろいろな事務作業があって、約束の二週間後には戻ってこられないと思う。リジオンがいるから大丈夫だと思うけれど、もし無礼なことをされたり言われたりしたらすぐに連絡してね。その場合はどんなことをしても飛んで帰ってくるから」
「ありがとうございます」

 ジェシカは再び頭を下げる。その横で、リジオンは少し厳しい顔つきでユーリーを見やった。

「道中、気をつけてくれ。できれば兄さんも王宮まで護衛をつけたほうがいい」
「大丈夫だよ。……と言いたいところだけど、ジェシカ嬢の誘拐未遂もあったことだしね。ここは君の言う通りにしようか」

 神妙に答えるユーリーに、リジオンは頷いた。

「護衛にはおれの部下を使ってくれ。ついでだから、護衛たちを紹介しておくか」

 リジオンが手を叩くと、奥に控えていた家令が姿を見せる。家令はリジオンの指示を受けると、足早に食堂を出て行った。
 いつの間に護衛など呼び寄せたのか。ジェシカが驚いているあいだに、扉が開いて数人の男たちが食堂に入ってくる。彼らはいずれも、リジオンと同じ王国騎士団の騎士装束しょうぞくを身につけていた。

「おれの部下たちだ。この四人のほかにも控えが三人いて、交代で屋敷の警護に当たる。王宮舞踏会を無事に乗り切るまで、ここに世話になるからよろしく頼む」
「は、はいっ。こちらこそ、よろしくお願いします……!」
「よし。下がっていいぞ」

 リジオンが指示すると、全員がピシッと敬礼して食堂を出て行く。統制の取れた動きに、ジェシカはぽかんと見入ってしまった。同時に当たり前のように命令を下すリジオンが、とても偉いひとに見えてくる。思わずまじまじとリジオンを見やると、彼は「どうした?」と首をかしげた。

「あ、ううん。なんでもないです」
「一応紹介はしたが、あいつらのことは特に気にしなくていい。普段の生活で姿を見ることはほとんどないだろうから」
「はぁ……」

 そうは言われても……という心境だったが、言ったところでなにが変わるわけでもないので、ジェシカはおとなしく口をつぐんだ。

「さて、それでは僕は出発するよ。ジェシカ、三ヶ月で親族を納得させる淑女になるのは大変だと思うけど、頑張るんだよ。君自身のためにもね」
「は、はい! ユーリーさんもお気をつけて」
「ありがとう。それじゃ、またね」

 メイドが持ってきた上着に袖を通すと、ユーリーは片手を上げて食堂から出ていった。

「さて。腹も膨れたし、おれたちもさっそく始めるか」

 食後のコーヒーを飲み干したリジオンが立ち上がる。
 ジェシカも急いで紅茶を飲み、彼のあとに続いて食堂を出た。
 彼が教室に選んだのは、屋敷の南向きの一室だった。私的な音楽会やお茶会を開いたりするために用いる部屋らしく、部屋の隅にはピアノやハープが置かれている。
 部屋の中央には文机ふづくえと椅子、何冊かの本が運び込まれており、ジェシカはひとまず椅子に座るよううながされた。

「まずは簡単な筆記問題をする。読み書きはできると聞いているが、羽ペンを使ったことは?」
「は、羽ペンなんて高価なもの、さわったこともないわ」

 文机ふづくえに用意されている何本もの羽ペンにジェシカはづく。
 これまで薬の調合でメモを取るときなどは、石版にチョークか黒炭を使っていた。さらに言うなら紙になにかを書いた経験も少ない。
 リジオンはあきれることもなく、事務的に頷いた。

「ものは試しだ。まずは使ってみろ。こういうのは毎日使って慣れていくしかない」
「ええっ。いきなりそんなこと言われても」

 首を振るジェシカに、リジオンはずいっと顔を近づけてきた。

「ほーう、口答えする気か? 文句があるならまたキス――」
「やります、すぐにやります!」

 ジェシカは慌てて羽ペンを取る。また昨日のようなキスをされてはたまらない。
 慎重にインク壺にペン先をひたすジェシカを見て、リジオンは「それでいいんだ」とばかりにニヤリと笑って見せた。


「……歴史問題は壊滅的だが、字は綺麗だし、文章や文法のとらえ方は的確だ。計算も問題なし。これなら座学に関してはさほど苦労せずに進めそうだな」

 慣れない羽ペンの扱いに四苦八苦しながら、ジェシカはなんとか筆記問題を終えた。
 早々にぐったりする彼女の横で、採点を終えたリジオンは満足そうに笑う。全問正解とはいかなかったが、及第点には達したようだ。

「あと座学で必要なのは、言語学だな。隣国のシャーガとは、ここ百年近く友好的な関係が続いている。王侯貴族のあいだじゃシャーガから嫁をもらったり、嫁いだりすることが多いから、この国の言葉を話せるようになるのは必須だ」
「わたし、シャーガの言葉なら話せるわよ。簡単な読み書きも問題ないわ」
「本当か?」

 驚いた顔でこちらを見たリジオンに、ジェシカも机に突っ伏していた顔を上げて頷いた。

「わたし、ここにくる前はシャーガと、その隣のドップス国に近い辺境に住んでいたの。薬師だった母の薬を求めて商人や旅人がよく立ち寄っていたから、彼らの言葉は自然と覚えたのよ」
「じゃあ試しにシャーガ語で話してみろ。今日の天気は?」

 窓の外を見やり、ジェシカはにっこり微笑んだ。

『朝からとってもいいお天気よ。このあたりは一年を通して晴れの日が多いけれど、今日は格段と綺麗な青空ね』
「完璧だな」

 藍色の瞳をみはって、リジオンは感心した様子で頷いた。

「頭のできも悪くないし、思っていたより大丈夫そうだ。食事の姿勢も食べ方も、そこまで悪くなかったし。まあ、カトラリーの使い方はもう少しどうにかする必要がありそうだが」
「えっ。いつの間に食事の姿勢なんて見ていたの?」
「朝食の席から授業は始まっていたんだよ」

 驚くジェシカに、リジオンはさらっと告げてきた。

「知識はともかく、無意識の立ち居振る舞いは育った環境がもろに出る。……おまえの両親は、おまえをどこに出しても恥ずかしくない娘に育てたんだな」

 不意にそんなことを言われて、ジェシカは戸惑う。
 すでに亡くなった両親を思いがけない形でめられ、胸がくすぐったかった。

「カトラリーの使い方は食事の時間に叩き込むとして……。座学は歴史と言葉遣い、それと王宮の人間関係を重点的にやっていくか。他にも本を用意するから、暇なときに読んでおくこと。それと羽ペンの使い方と詩学を兼ねて、毎日この本のここからここまでを書き取るように」
「はい!?」

 リジオンが持った本の『ここからここまで』を見たジェシカは、思わず目をいた。軽く五十ページはありそうだが……それを毎日書き取れと!?

「まっ、今日のところは勘弁してやるよ。これ以上インクで手を汚されるのも体裁が悪いからな。これから来客があるし」
「来客? 誰?」
「そろそろくる時間だが……お、ちょうどきたようだな」

 リジオンが窓の外をのぞくのと、馬車が停まる音が聞こえたのはほぼ同時だった。

「今日、このあとの時間は、淑女らしい立ち居振る舞いを学んでもらう」
「淑女らしい立ち居振る舞い?」

 ジェシカは首をかしげる。そこで部屋の扉がノックされ、外から家令が声をかけてきた。

「仕立て屋が到着いたしました。こちらにお通ししてもよろしいでしょうか?」
「え、仕立て屋?」

 目をぱちくりさせるジェシカの横で、リジオンが「ああ」と返事をする。

「今のおまえにもっとも必要なものは、ドレスだ」
「ドレス? どうして?」

 きょとんとするジェシカに、リジオンはもっともらしく頷いた。

「マナーを学ぶにしても、ドレスを着てなきゃ意味がないからな」

 彼の言葉にジェシカはますます首をかしげる。そうこうするうち、仕立て屋とお針子が入室してきた。彼らと一緒にたくさんの荷物も部屋に運び込まれる。

「お初にお目にかかります、お嬢様。ではさっそく採寸させていただきます」

 リジオンが退室するなり、ジェシカはあっという間に下着姿にされ、わけもわからぬまま身体のあちこちの寸法を取られた。
 それが終わるとすべての下着をぎ取られる。そして運び入れられた荷物から代わりのコルセットをあてがわれた。
 ジェシカのこれまでの恰好は、下着は胸当て付きのシュミーズにドロワーズ、その上に動きやすいワンピースというものだった。
 そのため初めて身に着けたコルセットの息苦しさに、早くもを上げそうになる。
 コルセットだけではない。ジェシカはあれよあれよという間に全身着替えさせられた。
 驚くほどたっぷりひだを取った豪華なドレスは、想像以上に重たい上にかなりかさばる。
 先の尖った華奢きゃしゃなハイヒールは足が痛いし、宝石のついた髪飾りはとにかく重たかった。

「う、う、動けない……!」
「動くんだよ。貴族の娘はその恰好で歩いたり食事したり歌を歌ったりするんだ。ちなみに舞踏会ではこれよりもっと豪華で派手なドレスを着るし、宝石も今の倍はつけることになる」

 いつの間にか戻ってきていたリジオンが、ジェシカの泣き言を切って捨てる。

「無理無理無理! 今でさえ動けないくらい苦しいのに!」
「な? ドレスが必要だって言った意味がわかっただろう? おまえはこれからワンピースを着るのは禁止だ。レッスンは必ずドレスを着て受ける。いいな?」
「無理――ッ!」

 ジェシカは涙目になって叫ぶが、リジオンは容赦なかった。

「無理じゃない。さっそく授業再開だ」

 にっこりと綺麗な笑みを浮かべながら、有無うむを言わせぬ気配をただよわせるリジオンに、ジェシカは声を詰まらせた。
 彼の笑顔を恐ろしく感じるのは、果たして気のせいであろうか?
 答えを知るのは、そのあとすぐのことだった。


 ――リジオンのレッスンは、いわゆるスパルタ式だった。

「そこ、また前かがみになってるぞ! 胸は少し反らしてあごを軽く引く。何度言ったらわかるんだ!」

 部屋の中に、張りのある厳しい声が響く。

「裾の持ち上げ方はそうじゃない! 足を引くタイミングが遅い! お辞儀は腰から折ってするものだろうが! 首だけ動かして済まそうとするんじゃない!」

 次から次へと、リジオンの注意は息を継ぐ間もなく飛んできた。

「あくびをするな、くしゃみもするな、あからさまにため息をつくな! そういうときこそ手に持った扇を広げて顔を隠す……って扇を取り落とすんじゃない!」

 こんな調子で、美しく調ととのえられたサロン中に、リジオンの怒声は絶え間なく響き続けた。
 ドレスを着こなすどころか、完全に着られているジェシカは、裾を持って歩くだけでも一苦労だった。一歩一歩慎重に足を出せば姿勢が悪いと注意され、頑張って胸を反らせばつまずいて転びそうになる。お辞儀をすればこれでもかとダメ出しの嵐。
 慣れないハイヒールを履いて立っているだけでも、かなりの苦行だというのに……!
 必死にレッスンについていこうとしたジェシカだが、次第にイライラが抑えられなくなってくる。
 気づけば彼女は負けじと大声で反論していた。

「こんなにかかとの高い靴を履いてたら誰だって前かがみにもなるわよ! ハイヒールを履いたこともないくせに無茶ばっかり言わないで!」

 一度不満が口を突いてしまうと、淑女らしくない言葉がポンポン飛び出てきた。

「腰を折れって簡単に言うけど、これだけコルセットをきつく締められたら不可能だっていうの! どれだけ苦しいかわかってて言ってるわけ!?」


 相手の言葉にまったく遠慮がないせいか、レッスンを受けるジェシカの言葉もどんどん喧嘩腰になっていく。

「休む間もなくガミガミ言われたらため息のひとつくらいつきたくなるってもんでしょ! あなたの指導法にも問題があるんじゃないの――ッ!?」

 おかげで日が暮れる頃にはいろんな意味でぐったりと疲れ切り、文字通り指一本動かせなくなってしまった。そのため少しの休憩を挟んだが、夕食ではカトラリーの使い方について再びガミガミ言われて、ちっとも食べた気にならなかった。
 そうして一日を終え、自室に戻ったジェシカは心からほーっと安堵の息をつく。

「無理……。これが毎日続くとか、冗談抜きで死んじゃうかもしれない」

 寝台に倒れ込んだジェシカは、薄い夜着姿だ。
 ドレスと一緒にクローゼットに入れられた真新しい一着だが、さすがに締めつけは見当たらない。それどころか極上の絹仕立てで、うっとりするほど肌ざわりのいい品だ。
 最高の夜着をまとって洗い立ての敷布の上を転がると、とても安らいだ気分になる。
 前日の寝不足と今日の疲れもあって、早くもうとうとし始めたところに、部屋の扉がコンコンとノックされた。

「誰? あとはもう寝るだけだから、休んでもらって大丈夫よ」
「あいにくこっちは用があるんでね。入るぞ」

 てっきり身支度を手伝ってくれたメイドだと思っていたジェシカは、返ってきた答えに仰天した。止める間もなく扉が開いて、リジオンがずかずかと部屋に入ってくる。

「なっ、ななな! なにしにきたのよ!?」

 夜着一枚の身体を抱きしめ、ジェシカは顔を真っ赤にして叫ぶ。
 リジオンはというと、悪びれた様子もなく肩をすくめた。

「マッサージ。一日中立ちっぱなしで、足がパンパンだろう? 明日のレッスンのためにも、今日のうちにきちんとほぐしておかないとな」

 割とまともなことを言われ、ジェシカはつい頷いてしまいそうになる。
 だがすでに遅い時間である上、自分が男性と話せる恰好でないこと、さらにここが寝室であることを思い出し、断固拒否の姿勢を取った。

「け、結構よ! そんなの必要ないから出ていって!」
「今の言葉遣いじゃとてもその気にならないな。本当に追い出したいなら、もっと淑女らしく丁寧な言葉で言ってみろ」
「無茶言わないで――! 一日やそこらで淑女らしくなれるわけないじゃない!?」

 ジェシカのもっともな主張もリジオンは聞く気がないらしい。脇に抱えていたたらいを長椅子のそばに置き、タオルを広げてさっさと支度を調ととのえてしまった。

「ほら、こっちにこいよ。やっておいたほうが絶対にいいから」
「い・や・です!」

 手探りでガウンを引き寄せ、急いで夜着の上に羽織りながらジェシカはプイッとそっぽを向く。
 その子供じみた仕草に、リジオンは小さく噴き出した。

「笑わないでよ!」
「こ、これが笑わずにいられるか。淑女どころか、まるで子供じゃないか」

 確かにその通りであるだけに、ジェシカはたちまち真っ赤になった。

「早くこっちにこいよ。それともおれがそっちまで迎えに行くか、お嬢様?」
「……変なこと、しないでしょうね?」

 昨日のキスを思い出し、ジェシカは警戒心をき出しにして確認する。
 リジオンは再び肩をすくめた。

「しないよ。本当にマッサージをしにきただけだ」
「前科があるだけに、信じられないんだけど」
「……昨日は、いきなりキスして悪かった。初心うぶなおまえが可愛らしくて、ちょっとからかってやりたくなったんだ」

 可愛らしいと言われて悪い気はしないが、からかわれたのだと思うと、やはり許すことができない。大事なファーストキスだっただけに、なおさらだ。

「どうせわたしは、田舎いなか育ちの垢抜あかぬけない娘ですよ。侯爵家育ちの騎士様にとっては、乙女の純情をもてあそんだところで、なんとも思わないんでしょうけどね?」
「……もてあそぶっていうのは聞き捨てならないな。おれは本当に、おまえのことを可愛いと思ったからキスしたんだぞ?」

 不意に低い声音こわねで言われ、そっぽを向いていたジェシカは驚いた。ちらりと視線をやると、やけに真面目な顔をしたリジオンがこちらをじっと見つめている。

「それに、今日一日あれだけ容赦なく注意したのに、おまえはめげることなくしっかりついてきた。なんだかんだ言いつつ、覚えも早いし努力しようとしている。教えるほうとしては、初日からやりがいを感じていたところだ」

 そんなことを言われたジェシカは、思わず目を白黒させる。一日中怒鳴られてばかりで、彼が自分を評価しているようにはとうてい思えなかっただけに、かなり意外だった。

「だからこそ、明日も万全の状態でレッスンができるように、こうしてマッサージをしにきたんだ。昨日のことは謝る。だからおまえも、こっちにきて座ってくれ」

 目の前の長椅子をぽんぽん叩いて、リジオンは優しくジェシカをうながしてきた。
 ……そういう態度を取られると、意地を張っている自分が本当に子供っぽく思えてしまう。
 なにも言えなくなったジェシカは、唇を尖らせながらしぶしぶ寝台を下りた。素足のまま、ぺたぺたとリジオンに歩み寄る。

「いい子だ」

 優しくそう言ってくるリジオンに、今さらながら恥ずかしくなった。
 ジェシカが長椅子に座ると、リジオンはたらいに張られた湯の中にオイルを数滴振り入れる。すぐにふわりと花の香りが広がり、知らずほっと息が漏れた。
 彼に言われるまま夜着の裾を少し引き上げ、両足を湯につける。指先が温まる感覚にうっとりしていると、手のひらにオイルを広げたリジオンがジェシカの片足をそっと持ち上げた。
 足の裏から始まって、足の甲やふくらはぎを大きな手がゆっくり往復していく。男のひとに直接足をさわられるのは恥ずかしかったが、それ以上に気持ちがよくて、ジェシカはほーっと細くため息をついた。

「思ったより張ってないな。それでも今日は普段使わない筋肉を使ったから、入念にほぐしておかないとな」
「ん……。それはどーも」
「しかし、おまえの足――」

 不意にジェシカのかかとを持ち上げたリジオンが真面目な顔になる。気持ちよさにうっとりしかけていたジェシカはにわかに緊張した。

「な、なに? わたしの足って、なにか変なの?」
「いや、その逆だ。土踏まずがしっかりあって、形のいい健康的な足だなぁと」

 なんだ……と脱力したジェシカだが、果たして『健康的』というのがめ言葉なのかどうなのかと考えてしまい、微妙な表情を浮かべてしまった。

めているんだよ。貴族の娘は、物心ついたときからハイヒールを履くのがめずらしくないからな。土踏まずがなかったり、左右で足の大きさが違ったりなんてのが普通なんだ。けれどおまえの足はそういうゆがみがなくて、いい足だと思ったんだ」

 本当に感心したように言われて、ジェシカはどぎまぎしてしまう。
 足の形なんて、これまで意識したこともなかった。今日一日散々駄目出しされた身としては、こんなことでもいいと言ってもらえたのはなんだか嬉しい。
 だがそれを素直に伝えるのははばかられて、ジェシカは再びそっぽを向いた。

「そ、そんなところめられても、別に嬉しくないし」

 するとリジオンはくすりと笑い、マッサージを再開する。
 しばらく無言でマッサージを受けるうち、その気持ちよさにとろりとまぶたが落ちてきた。
 今日の疲れも相まって、ほどなくジェシカは長椅子にもたれたまま船をぎ始めてしまう。

「……まったく、そういうところが危ういんだよ」
「……んぁ、あ? っ……?」

 それまでとは違う感覚が足先に走り、ジェシカはパチパチとまばたきする。
 彼女の前に膝をついたリジオンが、ジェシカの片足を高く持ち上げていた。夜着がまくれ上がって、足首どころか膝まであらわになっている。
 その光景にぎょっとしたのも束の間――
 つま先にちゅっと口づけられ、ジェシカは声にならない声を上げた。

「ふぇっ!? えええっ……!?」

 さらにリジオンはなんの躊躇ためらいもなく、彼女の足の親指をパクリと口にくわえ込む。ぬるりとした感覚が親指をい、ジェシカは悲鳴を上げた。

「やっ、な、なっ! なにして……!?」
「んー? 今日一日、お疲れ様のキス?」

 絶対適当に言っている! 思わずそう叫びたくなるほど軽い調子で言われ、ジェシカはめまいを覚えた。

「ちょっ、やだ、離し……、あっ、ん!」

 彼の舌先が親指と人差し指のあいだに入り込み、そこをねっとりとめ上げる。
 お世辞にも綺麗とは言い難いところをめられ、恥ずかしくてたまらないのに……なぜか、ぞくっとしたしびれが背中を走って、ジェシカは目を白黒させた。

「ひゃ、あ、なに……っ?」
「ん……、ここ、感じるのか?」
「やだっ……!」

 指先をくわえられたまま話され、ジェシカは大きく身震いする。彼の吐息が振動となって、身体中に伝わってくるようだ。

「あ……、や、やめて……っ、へ、変なことしないって、言ったじゃない……!」
「変なことをしているつもりはないぞ? 今日一日頑張った足をいたわってるだけだ」
(これのどこがよ――ッ!!)

 そう叫びたいのに……

「……ひぅ……っ、ん、んぁ、あ……っ」

 指の股をめられ、指先で足の裏をつぅとでられると、ジェシカは背を反らして震えてしまう。
 中途半端に開いた唇から妙な声が漏れて、カーッと顔に熱が集まるのがわかった。

(うそ、嘘よ。こんなことをされて、気持ちよくなるとか……ありえない……!)

 むしろあってはならないことだと思うだけに、ジェシカは若葉色の瞳をうるませ、必死に首を振る。

「お、ねがい、リジオン……っ、もうやめて」


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