アンブル

このえ貴

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零地点

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もう、どうでもよかった。


誰かから掛けられる言葉も、指先で叩く画面の中の言葉も。
踏み出す足の感覚、他人を慈しむ感覚。
重く沈んだ空気、息を潜めたままの空気。

職場を出たままの、まだ僅かに火照った頬を冷ましながら、ぼんやりと歩を進めている。
帰りがけに誘われた呑みを断り、コンビニでビールとチューハイを一缶ずつ、チー鱈とサンマの蒲焼を買った。
白いビニール袋を薬指と小指に掛け、前後に揺らす。
ネオンの光が視界に入る。何となく目に煩い。

今日はどこかで雪が降ったとか、昼にネットニュースで見た気がする。
だからか、凍え切った静寂が頬に張り付く。
こんな夜には星もよく見えるだろうと思って、空を見ると、冷えた外気が喉を通り抜ける。
どんなに澄んだ空の星だって、都会じゃこんなものかと言われる程度にしか輝けない。一際光を灯すあの金星だって、鈍色の空気を纏っている。

一度、止めた呼吸を続けると、白い息が視界を過る。寒さを再確認して、自宅へと足を向けた。


僕があいつと出会ったのは、そんな日だった。



近所のゴミ置き場は無法地帯だ。収集日でもないのに常にゴミが溢れており、それを正す人が誰もいない。狭く、薄暗い路地なので、土日の朝には迷い込んだ酔っ払いの吐瀉物がいくつも残る。
その日はいつもよりなんだか騒がしくて、二人組が集まってゴミ置き場を見ていた。

「元気ですかー!?」
「やだあ、汚い…」

やたら声が馬鹿でかい男とピンクのミニスカートを穿いた女がゴミに話し掛けている。ただの酔っ払いだ。
生憎残業に疲れ切っている自分には構いきれる相手ではないので、そのまま通り過ぎようとした時、通りの向こうで数人が固まっているのが見えた。街頭もない暗い道から見ているので、顔は全く分からない。けれど、シルエットからバットのような長物を持っていることに気付いた。

「あの…」

余計なことはしたくない。でも、奴らが狙っているのは明らかにこのカップルだ。

「僕の事を信用しなくてもいいんですけど、あなた達、早く逃げた方がいいですよ」

通り過ぎ様に言うと、カップルが僕を怪訝そうに見た。そして、その先のバットを持った集団も見えたのだろう。素っ頓狂な声を上げて、二人は逃げ去った。
僕はそのまま角を曲がる。奴らはその内いなくなるのだろう。早く帰って、飯を解凍し、夕飯と晩酌にありつきたいものだ。
そのはずだった。あいつの声がするまでは。

「高橋…中村…加藤? ダイスケ、ナオヤ、…シュウ!」

急に背後から名前を呼ばれたので、思わず振り返ってしまった。すると、ゴミ捨て場からゆらりと立ち上がって、こちらに向かってくる。さっき、カップルが話し掛けていたのはこいつだったと気付いた。

「ダチだろ、なあ? 泊めてよ」

ぬるり、と蛇が巻き付くように僕の首に手を回した。酒と生ごみの臭いが鼻まで上ってきた。耳元に粘り気のある声が絡む。
先程までの余裕など霧散した。横に絡みつく肉食動物の眼光に射竦められ、振りほどくこともできない。吐きそうになりながら、辛うじて動く喉から声を絞り出す。

「松浦先輩……」

その瞬間、強欲な捕食者が微笑んだ気がした。僕はあのカップルと澄み渡る星空、それと運命の巡り合わせを強く恨んだ。
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