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自在剣篇
19.無言の契
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2021年8月17日火曜日。東京都港区台場、お台場海浜公園。
午後18時50分。
昨日の約束のとおり、体育祭に向けた二人三脚の練習を終えた俺と愛理は、海浜公園内の休憩所近くにある段差に腰をおろし、橙と紺に彩られた幻想的な空を眺めていた。
シチュエーションとしては非常にロマンチックだけど、二人とも気を張りすぎたせいで息を切らしており、とてもそれどころではない。互いに呼吸を早く整えたいと切に願っていることがわかるくらいに、辺りには俺たちの深呼吸が響いていた。
しばらくして、双方ともようやく呼吸音がしなくなった。
「あの、楠森くん。余計なお世話かもしれないけど、その……聞いてもいい?」
夜風と漣漣とのマッチによって生まれた静寂の中、唐突に愛理が口を開いた。
無論、彼女の厚意を余計なお世話だと思っていない俺は、小さく頷いたのち、ゆっくりと彼女の顔に目線を送る。声のトーンからは想像もし得ない程に、真剣な面持ちだった。
「最近、わたしとの練習ばかりで、日和ちゃんと会えてない…………ように見えるから、楠森くんは、いいのかなって……?」
「いいのかと言われても……」
それは勿論、良くないに決まっている。日和に限らず、マイやHarderとも一切の交流がなく、さらに関係回復の兆しもないまま愛理との練習に励んでいる現状はより危うい。
エコービルの少女たちが、俺に嫉妬心や怨嗟の念を抱いているとは信じ難いけど、このままの状況が続けばいずれは可能性を信じざるを得なくなるだろう。
「いいか悪いかで言えば、悪いに決まってる。でも俺は、どっちのほうが大事だとか、片方を贔屓してる訳じゃない。それでも……」
その先を言おうとしたら、愛理は急に泣きそうな表情になる。そんな顔をされたら、今俺が言っていることが、まるで言い訳みたいに聞こえるじゃないか。
俺自身にそんなつもりがなくても、優しい彼女が俺の回答を言い訳に挿げ替えてしまう。
愛理は実際に口にしないが、断固として俺に真実を語らせたいはずだ。言わないのが彼女の弁えで優しさなんだろうけど、残念ながら言わずとも顔に出てしまっていた。
「……最近、好きな人ができたんだ」
「…………」
――出だしの方向性をかなり間違えた気がする。だけど、好きな人(友人や仲間として)ができたことは本当だし、彼らの力になりたい気持ちも本心だ。だからのちに、愛理にどう思われようとも、現状と俺の胸中を最後まで伝えるべきである。
「その好きな人は、すごく優しくて……優しすぎるんだ。今までの生き方で充分満足していた俺を、胸を張って言えるような幸せへといざなってくれた」
マイと日和の印象を、俺は淡々と口にした。
ちゃんと俺の居場所があり、俺にしかできないことを教えてくれた彼女たちへの感謝を、他の誰にも伝えないまま抱き続けるのは忍びなかった。
「あと、すごく取っ付きやすいんだ。俺の反応なんてあんまり気にしないくせに、俺のことをちゃんとわかってくれてる。それでまた、もの凄く仲間思いで……俺の言い訳とか弱い部分とか、全部わかったうえで言い咎めてくれるんだ。といっても、まだ付き合いは浅いけどね」
今度は、あの純白ツインテールの少女のことを愛理に伝える。
外見だけでなく、機械の隅々から異様さとか怪しさを醸しているのに、どこか安心感と親近感を覚えてしまう彼女の人柄。いや、風貌がロボットなので中身の性別はわからないけど、俺の心情とか能力とか性格とか、ひと通りを知っていながら自分の筋を通そうとしてくるHarderのスタイルに、まるで母親のような愛情を感じたことを、少しでもいいから誰かに理解して欲しかった。
「だから……そんないい人と俺は、どうしたら分かり合えるかな? 俺は今の自分が、どうしたらその人の力になれるのか、よくわからないんだ……。郷さん、俺はこれから、誰かの力になれるのかな……?」
言い切った途端に、俺の身体と心を罪悪感が蝕んだ。
全てが俺の妄想で、全てが俺の独り言で、愛理を困らせるだけだとわかっていながら、話し続けていた。
俺は最低だ。彼女に対して捲し立てるように言葉を発していた自分が、とてつもなく恥ずかしい。
そう思っていたのに――。
「えっと、あの……楠森くんは、今っ、わたしの力になってるよ。すごくっ!」
いつの間にか前に垂れ下がっていた頭を持ち上げて、甘美な響きのほうへ誘われるように面を向ける。
優しい笑顔の愛理がいた。
「わ、わたしが言うのもおこがましいかもしれない、けど……誰かの力になりたいとか、誰かの救いになりたいって思うことは、すごく難しいと思う。わたしは今までにそんなこと考えたことなかったし、実際に言ってる人も見たことないよ。居たとしたら、すっごく変な人」
「そ、そうだよね……確かに変な人ですけど……」
「でも、わたしはそういうの、好きだよ」
愛理のその言葉は、一番大きく耳に響いた。
「誰かの力になりたいって、そう思ってる人がいるだけで、多分みんなは嬉しいと思う。もし自分がピンチに陥っても、この人は自分を見捨てないで、必ず力を貸してくれるって……なんか、そういう安心感が常にある感じ、かな……」
言い終えると、愛理は小さく深呼吸をした。すぅ、はぁ。可愛らしい寝息のようだった。
彼女の言葉が決して、名言のごとく心に突き刺さったということはない。最初のほうはなんだか、聞いていて皮肉のような印象さえ覚えた。俺の心は、だいぶ荒んでいるようだな。
すると愛理は急に小さく笑って、どこからかハンカチを取り出した。
「楠森くん……良かったらこれ、使って?」
「いや、大丈夫だよ。今日は怪我しなかったから」
「そ、そうじゃなくって……あの、な、涙出てるから……」
なんだか申し訳なさそうに指摘されたので、試しに頬を触ってみると、掌と頬肉の間を何かが伝っていった。それをハンカチで拭い取ると、空色のそれに小さな黒い染みができている。
――おかしい。目の錯覚だろうか。
「ねえ、郷さん。俺の涙って、何色してる?」
「……そ、それって、ぷぷぷぅろ――ぽぅ……」
「え、やっぱり変な色してるの……?」
俺が涙の色について訊ねた途端、急に顔を真っ赤にした愛理。なんだか様子がおかしいと思って、再度ハンカチで液体を拭い取ってみた。
そして染みの色を確認した刹那、顔面から徐々に血の気が引いていった。
「さ、郷さん……おっ、お、俺の涙、赤くない、ですかっ……?」
自分でもわかるくらいに震えた声で、俯きながら何かを唱える愛理に再び訊ねる。
顔を上げた彼女が口にしたのは、
「赤色って……普通に、涙の色だと、思うけど……?」
「――そ、そう。最近色んなことがあったから、かなり疲れてるのかも……」
「じゃあ、今日はもう帰ろっか。あ、えっと……涙、拭いてもいい?」
その提案が、きっと彼女なりの気遣いなんだろう。俺はすぐに彼女にハンカチを手渡して、優しい手つきでその液体を拭き取ってもらった。
……ちなみに、彼女の手に付着した俺の液体も、はっきりと血の色に見えている。でも愛理の挙動を見る限り、ごく普通の半透明だと嘘をついているようにも思えなかった。
思い返せば、俺は血尿が出だした頃から今までずっと、人間の体液といえば、自分でも他人でも血液しか見ていない。その記憶が時折フラッシュバックして、体液ならば全て赤く見えてしまうのだろう。怖っ……。
そして愛理と、また明日も練習をする約束をしたのち、俺は帰宅した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
2021年8月21日土曜日。神奈川県川崎市、『エコービル』B5F。
午前9時。
元々は俺の責任だけど、朝の7時15分になってもマイは来なかった。勿論、日和もヴォルカンも、来るはずもないけどHarderも。彼女らが俺の自宅を訪れる毎日が、いつの間にか日常になっていたことに気付いた。
そして今は、ある事情があってエコービルの住居エリアに来ている。
しかし先ほどからマイの部屋を探しているのに、1時間が経過しても一向に見つからない。こうなると、マイは日和と同じく別の場所で暮らしていると考えるのが自然だろう。
「だけど……他の場所って、一体どこだよ……?」
俺の記憶が正しければ、隣人荘の住人は日和以外みんな無所属の人間のはずだ。つまり隣人荘のではない、別の場所でマイが生活している可能性が高い。
――とはいえ、本気で探すとなると範囲は何十倍にも広がる。エコービルの中は当然、見つからなければ川崎市内の至る所のアパートやマンションを総当たりする必要がある。どれだけ時間を要するかはわからないが、ゲーム感覚で取り組めば意外と慣れるかもしれない。
「なあ楠森、もしかしてお嬢を探してるのか?」
「――誰かと思えば、ラボンじゃないか……」
俺の眼前に、待ってましたと言わんばかりに登場した男は、同じクラスの萩谷暁月だった。いや、今は本名のほうが馴染み深く感じるから、彼の名前はラボン・ローレンスだ。
「へえ、もう覚えたのな! お主、なかなかやりおる」
「その件はいいよ……それで、マイはどこにいる?」
散々焦らしたくせに、ラボンは大きく嘆息しやがった。しかし一応、彼とは友人一歩手前の間柄なので、見なかったふりを敢行した。
「あの人は、いつもB7で生活してるよ。行ってら」
「そ、そうか……悪い、助かるよ」
正直彼のテンションに対して反応に困ったので、ひとまず普段と同じように愛想笑いで話を打ち切る。もはや俺の処世術に成り下がってしまったが、仕方がないか……。
「ああ、それといいかな……?」
「なんだ、まだあるのか。いいぜ、俺が答えられることなら、なんなりと!」
「……ラボンにとって、マイはどういう人間なんだ」
「そうだな。生真面目でお人好しで、もの凄く生きづらい人生送ってる人だよ」
快く答えてくれたラボンに礼を言って、俺は先日の異常空間へ行くためエレベーターに乗り込んだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「何度来ても、ここは慣れないな……と思ったらまだ2度目か」
こちらを眺める少女から反応がないので、仕方なく一人漫才に耽る。
こんな時間に俺がここへ赴いたことではなく、恐らく彼女は、俺が会いに来たことに驚いているのだろう。そう思っても、相変わらずの冷徹な表情なので、断言はできない。
徒に美麗な少女と見つめ合っているのも悪くはないけど、このままでは埒が明かないので、俺はゆっくりと本題に言及する。
「マイに、一度だけ訊いたことがあるけど……初めて、マイと出会ったのは、『あの日』で合ってるよね……?」
「そう。だけど、訊かれた時は答えられなかった。だから、ごめんなさい」
別に責めているつもりではなかったけど、少女は謝罪の言葉を述べると、律儀に頭まで下げてきた。彼女の素直さが、先日は恐怖の対象だった。しかし今では、本心から嬉しく思う。
「だから、教えて欲しいんだ。……俺の力についての、全部――」
俺が『全部』と言ったその刹那、マイは目を見開いて愕然とした表情を浮かべた。
彼女の無表情以外を見たのは、これが3度目だ。
いまだ知り得ない、俺自身に秘められた力が発現した日の、憐憫の表情。
俺が他人の負傷を自分のせいだと決めつけて、Harderに叱られた日の、悲哀の表情。
俺が己の力を知りたいと、マイの元へ直談判に来た今日の、驚愕の表情。
そんな時、決まってマイは俺に手を差し伸べてくれた。だから今日もまた、彼女が助けてくれるのではないか……そう期待しきっている自分が非常に情けないとは思うが、それでもマイへの期待感を拭い去ることはできなかった。
するとマイは、自身のつり上がった頬を戻すように両手で捏ねたのち、再び凛とした表情で俺のほうに向き直る。
「明日、絶対に話すわ。だからジルには、待っていて欲しい」
「……そう、ですか。マイが言うなら、そうするよ」
今日聞き出すことはできなかったが、やはりマイは俺の期待を裏切らないでくれた。
そして彼女から、俺自身が宿した力について話を聞いた暁には――絶対にマイを、日和を、エコービルの同志たちを守ってみせる。
午後18時50分。
昨日の約束のとおり、体育祭に向けた二人三脚の練習を終えた俺と愛理は、海浜公園内の休憩所近くにある段差に腰をおろし、橙と紺に彩られた幻想的な空を眺めていた。
シチュエーションとしては非常にロマンチックだけど、二人とも気を張りすぎたせいで息を切らしており、とてもそれどころではない。互いに呼吸を早く整えたいと切に願っていることがわかるくらいに、辺りには俺たちの深呼吸が響いていた。
しばらくして、双方ともようやく呼吸音がしなくなった。
「あの、楠森くん。余計なお世話かもしれないけど、その……聞いてもいい?」
夜風と漣漣とのマッチによって生まれた静寂の中、唐突に愛理が口を開いた。
無論、彼女の厚意を余計なお世話だと思っていない俺は、小さく頷いたのち、ゆっくりと彼女の顔に目線を送る。声のトーンからは想像もし得ない程に、真剣な面持ちだった。
「最近、わたしとの練習ばかりで、日和ちゃんと会えてない…………ように見えるから、楠森くんは、いいのかなって……?」
「いいのかと言われても……」
それは勿論、良くないに決まっている。日和に限らず、マイやHarderとも一切の交流がなく、さらに関係回復の兆しもないまま愛理との練習に励んでいる現状はより危うい。
エコービルの少女たちが、俺に嫉妬心や怨嗟の念を抱いているとは信じ難いけど、このままの状況が続けばいずれは可能性を信じざるを得なくなるだろう。
「いいか悪いかで言えば、悪いに決まってる。でも俺は、どっちのほうが大事だとか、片方を贔屓してる訳じゃない。それでも……」
その先を言おうとしたら、愛理は急に泣きそうな表情になる。そんな顔をされたら、今俺が言っていることが、まるで言い訳みたいに聞こえるじゃないか。
俺自身にそんなつもりがなくても、優しい彼女が俺の回答を言い訳に挿げ替えてしまう。
愛理は実際に口にしないが、断固として俺に真実を語らせたいはずだ。言わないのが彼女の弁えで優しさなんだろうけど、残念ながら言わずとも顔に出てしまっていた。
「……最近、好きな人ができたんだ」
「…………」
――出だしの方向性をかなり間違えた気がする。だけど、好きな人(友人や仲間として)ができたことは本当だし、彼らの力になりたい気持ちも本心だ。だからのちに、愛理にどう思われようとも、現状と俺の胸中を最後まで伝えるべきである。
「その好きな人は、すごく優しくて……優しすぎるんだ。今までの生き方で充分満足していた俺を、胸を張って言えるような幸せへといざなってくれた」
マイと日和の印象を、俺は淡々と口にした。
ちゃんと俺の居場所があり、俺にしかできないことを教えてくれた彼女たちへの感謝を、他の誰にも伝えないまま抱き続けるのは忍びなかった。
「あと、すごく取っ付きやすいんだ。俺の反応なんてあんまり気にしないくせに、俺のことをちゃんとわかってくれてる。それでまた、もの凄く仲間思いで……俺の言い訳とか弱い部分とか、全部わかったうえで言い咎めてくれるんだ。といっても、まだ付き合いは浅いけどね」
今度は、あの純白ツインテールの少女のことを愛理に伝える。
外見だけでなく、機械の隅々から異様さとか怪しさを醸しているのに、どこか安心感と親近感を覚えてしまう彼女の人柄。いや、風貌がロボットなので中身の性別はわからないけど、俺の心情とか能力とか性格とか、ひと通りを知っていながら自分の筋を通そうとしてくるHarderのスタイルに、まるで母親のような愛情を感じたことを、少しでもいいから誰かに理解して欲しかった。
「だから……そんないい人と俺は、どうしたら分かり合えるかな? 俺は今の自分が、どうしたらその人の力になれるのか、よくわからないんだ……。郷さん、俺はこれから、誰かの力になれるのかな……?」
言い切った途端に、俺の身体と心を罪悪感が蝕んだ。
全てが俺の妄想で、全てが俺の独り言で、愛理を困らせるだけだとわかっていながら、話し続けていた。
俺は最低だ。彼女に対して捲し立てるように言葉を発していた自分が、とてつもなく恥ずかしい。
そう思っていたのに――。
「えっと、あの……楠森くんは、今っ、わたしの力になってるよ。すごくっ!」
いつの間にか前に垂れ下がっていた頭を持ち上げて、甘美な響きのほうへ誘われるように面を向ける。
優しい笑顔の愛理がいた。
「わ、わたしが言うのもおこがましいかもしれない、けど……誰かの力になりたいとか、誰かの救いになりたいって思うことは、すごく難しいと思う。わたしは今までにそんなこと考えたことなかったし、実際に言ってる人も見たことないよ。居たとしたら、すっごく変な人」
「そ、そうだよね……確かに変な人ですけど……」
「でも、わたしはそういうの、好きだよ」
愛理のその言葉は、一番大きく耳に響いた。
「誰かの力になりたいって、そう思ってる人がいるだけで、多分みんなは嬉しいと思う。もし自分がピンチに陥っても、この人は自分を見捨てないで、必ず力を貸してくれるって……なんか、そういう安心感が常にある感じ、かな……」
言い終えると、愛理は小さく深呼吸をした。すぅ、はぁ。可愛らしい寝息のようだった。
彼女の言葉が決して、名言のごとく心に突き刺さったということはない。最初のほうはなんだか、聞いていて皮肉のような印象さえ覚えた。俺の心は、だいぶ荒んでいるようだな。
すると愛理は急に小さく笑って、どこからかハンカチを取り出した。
「楠森くん……良かったらこれ、使って?」
「いや、大丈夫だよ。今日は怪我しなかったから」
「そ、そうじゃなくって……あの、な、涙出てるから……」
なんだか申し訳なさそうに指摘されたので、試しに頬を触ってみると、掌と頬肉の間を何かが伝っていった。それをハンカチで拭い取ると、空色のそれに小さな黒い染みができている。
――おかしい。目の錯覚だろうか。
「ねえ、郷さん。俺の涙って、何色してる?」
「……そ、それって、ぷぷぷぅろ――ぽぅ……」
「え、やっぱり変な色してるの……?」
俺が涙の色について訊ねた途端、急に顔を真っ赤にした愛理。なんだか様子がおかしいと思って、再度ハンカチで液体を拭い取ってみた。
そして染みの色を確認した刹那、顔面から徐々に血の気が引いていった。
「さ、郷さん……おっ、お、俺の涙、赤くない、ですかっ……?」
自分でもわかるくらいに震えた声で、俯きながら何かを唱える愛理に再び訊ねる。
顔を上げた彼女が口にしたのは、
「赤色って……普通に、涙の色だと、思うけど……?」
「――そ、そう。最近色んなことがあったから、かなり疲れてるのかも……」
「じゃあ、今日はもう帰ろっか。あ、えっと……涙、拭いてもいい?」
その提案が、きっと彼女なりの気遣いなんだろう。俺はすぐに彼女にハンカチを手渡して、優しい手つきでその液体を拭き取ってもらった。
……ちなみに、彼女の手に付着した俺の液体も、はっきりと血の色に見えている。でも愛理の挙動を見る限り、ごく普通の半透明だと嘘をついているようにも思えなかった。
思い返せば、俺は血尿が出だした頃から今までずっと、人間の体液といえば、自分でも他人でも血液しか見ていない。その記憶が時折フラッシュバックして、体液ならば全て赤く見えてしまうのだろう。怖っ……。
そして愛理と、また明日も練習をする約束をしたのち、俺は帰宅した。
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2021年8月21日土曜日。神奈川県川崎市、『エコービル』B5F。
午前9時。
元々は俺の責任だけど、朝の7時15分になってもマイは来なかった。勿論、日和もヴォルカンも、来るはずもないけどHarderも。彼女らが俺の自宅を訪れる毎日が、いつの間にか日常になっていたことに気付いた。
そして今は、ある事情があってエコービルの住居エリアに来ている。
しかし先ほどからマイの部屋を探しているのに、1時間が経過しても一向に見つからない。こうなると、マイは日和と同じく別の場所で暮らしていると考えるのが自然だろう。
「だけど……他の場所って、一体どこだよ……?」
俺の記憶が正しければ、隣人荘の住人は日和以外みんな無所属の人間のはずだ。つまり隣人荘のではない、別の場所でマイが生活している可能性が高い。
――とはいえ、本気で探すとなると範囲は何十倍にも広がる。エコービルの中は当然、見つからなければ川崎市内の至る所のアパートやマンションを総当たりする必要がある。どれだけ時間を要するかはわからないが、ゲーム感覚で取り組めば意外と慣れるかもしれない。
「なあ楠森、もしかしてお嬢を探してるのか?」
「――誰かと思えば、ラボンじゃないか……」
俺の眼前に、待ってましたと言わんばかりに登場した男は、同じクラスの萩谷暁月だった。いや、今は本名のほうが馴染み深く感じるから、彼の名前はラボン・ローレンスだ。
「へえ、もう覚えたのな! お主、なかなかやりおる」
「その件はいいよ……それで、マイはどこにいる?」
散々焦らしたくせに、ラボンは大きく嘆息しやがった。しかし一応、彼とは友人一歩手前の間柄なので、見なかったふりを敢行した。
「あの人は、いつもB7で生活してるよ。行ってら」
「そ、そうか……悪い、助かるよ」
正直彼のテンションに対して反応に困ったので、ひとまず普段と同じように愛想笑いで話を打ち切る。もはや俺の処世術に成り下がってしまったが、仕方がないか……。
「ああ、それといいかな……?」
「なんだ、まだあるのか。いいぜ、俺が答えられることなら、なんなりと!」
「……ラボンにとって、マイはどういう人間なんだ」
「そうだな。生真面目でお人好しで、もの凄く生きづらい人生送ってる人だよ」
快く答えてくれたラボンに礼を言って、俺は先日の異常空間へ行くためエレベーターに乗り込んだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「何度来ても、ここは慣れないな……と思ったらまだ2度目か」
こちらを眺める少女から反応がないので、仕方なく一人漫才に耽る。
こんな時間に俺がここへ赴いたことではなく、恐らく彼女は、俺が会いに来たことに驚いているのだろう。そう思っても、相変わらずの冷徹な表情なので、断言はできない。
徒に美麗な少女と見つめ合っているのも悪くはないけど、このままでは埒が明かないので、俺はゆっくりと本題に言及する。
「マイに、一度だけ訊いたことがあるけど……初めて、マイと出会ったのは、『あの日』で合ってるよね……?」
「そう。だけど、訊かれた時は答えられなかった。だから、ごめんなさい」
別に責めているつもりではなかったけど、少女は謝罪の言葉を述べると、律儀に頭まで下げてきた。彼女の素直さが、先日は恐怖の対象だった。しかし今では、本心から嬉しく思う。
「だから、教えて欲しいんだ。……俺の力についての、全部――」
俺が『全部』と言ったその刹那、マイは目を見開いて愕然とした表情を浮かべた。
彼女の無表情以外を見たのは、これが3度目だ。
いまだ知り得ない、俺自身に秘められた力が発現した日の、憐憫の表情。
俺が他人の負傷を自分のせいだと決めつけて、Harderに叱られた日の、悲哀の表情。
俺が己の力を知りたいと、マイの元へ直談判に来た今日の、驚愕の表情。
そんな時、決まってマイは俺に手を差し伸べてくれた。だから今日もまた、彼女が助けてくれるのではないか……そう期待しきっている自分が非常に情けないとは思うが、それでもマイへの期待感を拭い去ることはできなかった。
するとマイは、自身のつり上がった頬を戻すように両手で捏ねたのち、再び凛とした表情で俺のほうに向き直る。
「明日、絶対に話すわ。だからジルには、待っていて欲しい」
「……そう、ですか。マイが言うなら、そうするよ」
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