29 / 51
自在剣篇
28.狂乱波乱の舞台演出Ⅰ
しおりを挟む
2021年10月23日土曜日。神奈川県川崎市、私立新川学園。
午前9時30分。
「愛理、今日は接客するんでしょ? こんなところで油売ってて、大丈夫?」
「うん。まだ教室の準備に時間がかかるみたいだし……それに仕事始まったら、三人で一緒にいられなくなるし、その…………ね?」
麻衣の心配は、どうやら杞憂だったらしい。両隣を歩く麻衣とバジルに対して、気丈に振る舞う愛理の姿は、無理をしているようには到底見えなかった。
今はまだ、校内で生徒たちが準備をしているところだ。そのため一般の人々は誰も入っておらず、東棟にある庭や体育館は、穏やかな静けさに満ちている。あと1時間とたたずにここら一帯が雑踏で騒がしくなることなど、この静謐さの前で一体誰が予想できるだろうか。
今しか体験できない静寂を全身で感じながら、3人は庭をただ散歩している。たいへん贅沢な時間だ。特に会話をすることもなく、気の向くままに草の上を闊歩する。
「のどかだなぁ……今日一日、このままでいて欲しいくらいだけど」
不安定な足取りでゆっくりと歩くバジルは、ふいに本音を呟いた。学園祭によって学校全体が賑わうことも嫌いではないが、マイペースに情景を愉しむことのほうが彼にとっては魅力的なのかもしれない。
無論、それは他の少女二人も同じである。安寧を絵に描いたようなこの空間が、ずっと継続してくれれば、どれだけ嬉しいことか。
賑やかな会場になんとなく煩わしさを覚えた時、この場所のように静かで何もない空間が、最も気持ちを和ませてくれるのだ。
しかし、午前9時45分――突如として、校内にアナウンスの声が響き渡った。
『緊急連絡、緊急連絡。先ほど新川学園校門前で、傷害事件が発生しました。犯人は現場から逃走を図った模様。校内に潜伏している可能性もあるため、現在文化祭の準備をしている生徒は、直ちに自分の教室へ避難してください。ただし、避難が完了しても、担任の指示に従って行動してください』
それからさらに一度繰り返して、アナウンスは一旦終了する。
「ま、マズいよ……二人とも、早く教室に帰らないと……」
愛理が険しい表情で早急な避難を訴えても、なぜかバジルと麻衣に反応はない。二人はしゃがみ込んで何かを話している様子だった。
このままでは、自分たちが犯人の餌食になってしまうかもしれない――そんな具体的な不安が、愛理の脳内を縦横無尽に駆け回る。
一刻も早くバジルと麻衣と共に東棟の非常階段へと向かい、そこから西棟の高等部1年1組教室まで逃げなければならない。使命感ではなく、愛理の身体を蝕んでいるのはとてつもない死への恐怖心だった。
取り返しのつかない事態になる前に、愛理が本気の訴えを口にしようとしたその刹那、
「郷さん、よく聞いて? あと2分以内に暁月と江洲さんが来てくれるから、二人と一緒に教室まで逃げて欲しい。俺と黒崎さんは――」
バジルはその先を言おうとしたが、愛理の表情が豹変したことでブレーキがかかる。
今まで恐怖心に駆られていたはずの彼女は、今度は自分自身の心配以上に、これから自分と別行動をしようとしているバジルと麻衣の、身の心配をしていた。
愛理の気持ちは、バジルにだって痛いほどわかる。しかし愛理にとっての死とバジルにとっての死とでは、物理的にも観念的にも雲泥の差があった。だからたとえ頭で理解しようとも、少女の抱いている不安感の全てを理解することはできない。
バジルは決心して、愛理の双眸を見つめながら断言する。
「俺と黒崎さんは、全部を終わらせに行ってくる。もし、追及と叱責と平手打ちを保留にしてくれるのなら…………断固として、無事に帰ってきます」
「――うん、わかった。い、いって、らっしゃい……」
同時に立ち上がったバジルと麻衣は、穏やかに手を振りながら笑顔を浮かべる愛理に見送られ、校門までひた走った。
バジルは、自分よりも足の遅い麻衣に全く気を遣うことができず、無言のまま全力疾走でスタートのゴールを目指した――。
午前9時30分。
「愛理、今日は接客するんでしょ? こんなところで油売ってて、大丈夫?」
「うん。まだ教室の準備に時間がかかるみたいだし……それに仕事始まったら、三人で一緒にいられなくなるし、その…………ね?」
麻衣の心配は、どうやら杞憂だったらしい。両隣を歩く麻衣とバジルに対して、気丈に振る舞う愛理の姿は、無理をしているようには到底見えなかった。
今はまだ、校内で生徒たちが準備をしているところだ。そのため一般の人々は誰も入っておらず、東棟にある庭や体育館は、穏やかな静けさに満ちている。あと1時間とたたずにここら一帯が雑踏で騒がしくなることなど、この静謐さの前で一体誰が予想できるだろうか。
今しか体験できない静寂を全身で感じながら、3人は庭をただ散歩している。たいへん贅沢な時間だ。特に会話をすることもなく、気の向くままに草の上を闊歩する。
「のどかだなぁ……今日一日、このままでいて欲しいくらいだけど」
不安定な足取りでゆっくりと歩くバジルは、ふいに本音を呟いた。学園祭によって学校全体が賑わうことも嫌いではないが、マイペースに情景を愉しむことのほうが彼にとっては魅力的なのかもしれない。
無論、それは他の少女二人も同じである。安寧を絵に描いたようなこの空間が、ずっと継続してくれれば、どれだけ嬉しいことか。
賑やかな会場になんとなく煩わしさを覚えた時、この場所のように静かで何もない空間が、最も気持ちを和ませてくれるのだ。
しかし、午前9時45分――突如として、校内にアナウンスの声が響き渡った。
『緊急連絡、緊急連絡。先ほど新川学園校門前で、傷害事件が発生しました。犯人は現場から逃走を図った模様。校内に潜伏している可能性もあるため、現在文化祭の準備をしている生徒は、直ちに自分の教室へ避難してください。ただし、避難が完了しても、担任の指示に従って行動してください』
それからさらに一度繰り返して、アナウンスは一旦終了する。
「ま、マズいよ……二人とも、早く教室に帰らないと……」
愛理が険しい表情で早急な避難を訴えても、なぜかバジルと麻衣に反応はない。二人はしゃがみ込んで何かを話している様子だった。
このままでは、自分たちが犯人の餌食になってしまうかもしれない――そんな具体的な不安が、愛理の脳内を縦横無尽に駆け回る。
一刻も早くバジルと麻衣と共に東棟の非常階段へと向かい、そこから西棟の高等部1年1組教室まで逃げなければならない。使命感ではなく、愛理の身体を蝕んでいるのはとてつもない死への恐怖心だった。
取り返しのつかない事態になる前に、愛理が本気の訴えを口にしようとしたその刹那、
「郷さん、よく聞いて? あと2分以内に暁月と江洲さんが来てくれるから、二人と一緒に教室まで逃げて欲しい。俺と黒崎さんは――」
バジルはその先を言おうとしたが、愛理の表情が豹変したことでブレーキがかかる。
今まで恐怖心に駆られていたはずの彼女は、今度は自分自身の心配以上に、これから自分と別行動をしようとしているバジルと麻衣の、身の心配をしていた。
愛理の気持ちは、バジルにだって痛いほどわかる。しかし愛理にとっての死とバジルにとっての死とでは、物理的にも観念的にも雲泥の差があった。だからたとえ頭で理解しようとも、少女の抱いている不安感の全てを理解することはできない。
バジルは決心して、愛理の双眸を見つめながら断言する。
「俺と黒崎さんは、全部を終わらせに行ってくる。もし、追及と叱責と平手打ちを保留にしてくれるのなら…………断固として、無事に帰ってきます」
「――うん、わかった。い、いって、らっしゃい……」
同時に立ち上がったバジルと麻衣は、穏やかに手を振りながら笑顔を浮かべる愛理に見送られ、校門までひた走った。
バジルは、自分よりも足の遅い麻衣に全く気を遣うことができず、無言のまま全力疾走でスタートのゴールを目指した――。
0
あなたにおすすめの小説
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
断腸の思いで王家に差し出した孫娘が婚約破棄されて帰ってきた
兎屋亀吉
恋愛
ある日王家主催のパーティに行くといって出かけた孫娘のエリカが泣きながら帰ってきた。買ったばかりのドレスは真っ赤なワインで汚され、左頬は腫れていた。話を聞くと王子に婚約を破棄され、取り巻きたちに酷いことをされたという。許せん。戦じゃ。この命燃え尽きようとも、必ずや王家を滅ぼしてみせようぞ。
七日後に神罰が落ちる。上層部は「下を切り捨てろ」と言った——私は全員を逃がす
蒼月よる
ファンタジー
七日後、この港に神罰が落ちる。
追放された元観測士イオナだけが、その事実を知っていた。
しかも災害は自然現象ではない——誰かが、意図的に引き起こそうとしている。
港の上層部はすでに手を打っていた。「下層区画を緩衝被害区として切り捨てる」秘密契約。被害を最小限に見せかけ、体制を守る冷徹な計画だ。
イオナは元護送隊長ガルム、荷運び組合長メラとともに動き出す。
犯人を暴き、証拠を公開し、住民を逃がし、工廠を止める——すべてを七日で。
被害を「選ぶ」管理か、全員を「残す」運用か。
追放観測士の、七日間の港湾カウントダウン・サスペンス。
この作品は以下の箇所にAI(Claude Code)を利用しています。
・世界観・設定の管理補助
・プロット段階の壁打ち
・作者による執筆後の校正
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
断罪まであと10分、私は処刑台の上で「ライブ配信」を開始した〜前世インフルエンサーの悪役令嬢、支持率100%でクズ王子を逆処刑する〜
深渡 ケイ
ファンタジー
断罪まで、あと10分。
処刑台の上で跪く悪役令嬢スカーレットは、笑っていた。
なぜなら彼女は――
前世で“トップインフルエンサー”だったから。
処刑の瞬間、彼女が起動したのは禁忌の精霊石。
空に展開された巨大モニターが、全世界同時ライブ配信を開始する。
タイトルは――
『断罪なう』。
王子の不貞、聖女の偽善、王家の腐敗。
すべてを“証拠付き・リアルタイム”で暴露する配信に、
国民の「いいね(=精霊力)」が集まり始める。
そして宣言される、前代未聞のルール。
支持率が上がるほど、処刑は不可能になる。
処刑台は舞台へ。
断罪はエンタメへ。
悪役令嬢は、世界をひっくり返す配信者となった。
これは、
処刑されるはずだった悪役令嬢が、
“ライブ配信”で王子と王国を公開処刑する物語。
支持率100%の先に待つのは、復讐か、革命か、
それとも――自由か。
もしかして寝てる間にざまぁしました?
ぴぴみ
ファンタジー
令嬢アリアは気が弱く、何をされても言い返せない。
内気な性格が邪魔をして本来の能力を活かせていなかった。
しかし、ある時から状況は一変する。彼女を馬鹿にし嘲笑っていた人間が怯えたように見てくるのだ。
私、寝てる間に何かしました?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
女神に頼まれましたけど
実川えむ
ファンタジー
雷が光る中、催される、卒業パーティー。
その主役の一人である王太子が、肩までのストレートの金髪をかきあげながら、鼻を鳴らして見下ろす。
「リザベーテ、私、オーガスタス・グリフィン・ロウセルは、貴様との婚約を破棄すっ……!?」
ドンガラガッシャーン!
「ひぃぃっ!?」
情けない叫びとともに、婚約破棄劇場は始まった。
※王道の『婚約破棄』モノが書きたかった……
※ざまぁ要素は後日談にする予定……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる