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犬と獣(ケダモノ)
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「わかってるけど……面と向かって言われるとやっぱりショックだな……。できれば別の物でお願いします」
「別の物ですか。果物とか野菜なんかの甘いのは好きなんですけど、基本的にお菓子とか飲み物の甘いのはあまり好きじゃないです」
「へぇ、甘いもの苦手なんだ。覚えとこう」
『女性なら誰でも甘いものに目がない』と思い込んでいる男性はとても多い。
職員のほとんどを女性が占める職場で働く緒川支部長も、そんなものだと思っていた。
職場ではケーキやクッキーなど甘いお菓子をお裾分けされる機会が多いけれど、緒川支部長は愛美がそれを食べているところを見たことがない。
余りのお菓子にこっそり紛れ込ませたり、ダイエット中だと言って他の職員に食べてもらったりしているところを見かけたときには不思議に思ったけれど、苦手だから食べなかったのかと合点がいく。
「それからレーズンが苦手です。食べた事はないですけど、見た目からダメで。食わず嫌いは損だよって、マスターによく言われます」
「美味しいんだけどな、レーズン。俺は好き」
「じゃあ支部でレーズンの入ったケーキとかお裾分けでもらったら、私の分も食べて下さい」
「うん、いいよ」
コーヒーを飲みながら、そんな他愛ない話をして過ごした。
しばらくすると、緒川支部長がマグカップをテーブルの上に置いて壁掛け時計を見上げた。
愛美もつられて同じように壁掛け時計を見上げる。
「あ……もうこんな時間か……」
時計の針は11時を少し過ぎたところを指している。
ただ話しているだけなのに、一緒にいると心地よくて、時間が過ぎるのがいつもより早く感じた。
緒川支部長がコーヒーを飲み干して立ち上がる。
「もう遅いし、そろそろ帰るよ」
緒川支部長はあっさりと玄関に向かう。
愛美は緒川支部長のあとをついて廊下を歩いた。
もっとたくさん話したい、もっと一緒にいたいと思うのに、その一言が素直に出てこない。
『明日は休みなんだから、まだ帰らないで』と、自分からは言いづらい。
玄関で靴を履いて、緒川支部長が振り返った。
「シチューごちそうさま。ありがとう」
「どういたしまして……」
(もう帰っちゃうんだな……)
愛美が寂しげに目を伏せると、緒川支部長は愛美を抱き寄せた。
「もしかして……俺が帰るの寂しいって、思ってくれてるの?」
愛美がためらいがちに小さくうなずくと、緒川支部長は優しく愛美の頭を撫でた。
「ホントに?嬉しいな。言ってくれたらもっと嬉しいんだけど……」
本当は『帰らないで』『一緒にいて』と言いたいのに、素直に言おうと思うほど声が出ない。
なかなか素直になれない自分がもどかしい。
(ああもう……なんで言えないんだろ……)
緒川支部長は小さくため息をついて、うつむいて黙り込む愛美の頭をポンポンと優しく叩いた。
「じゃあ……帰るよ?」
愛美は言葉にできない代わりに、緒川支部長の上着の裾をギュッと握りしめた。
「ん……?」
緒川支部長は、黙り込んだままうつむいて上着の裾を握る愛美を愛しそうに抱きしめて、優しい声で話す。
「引き留めてくれるの、すっごい嬉しいんだけど……明日も出社する職員さんがいるから、俺も行かなきゃいけないんだ。だから今日は帰るよ。ごめんね」
愛美がうなずいて手を離すと、緒川支部長は愛美の顎に手を添えて上を向かせ、そっと口付けた。
ほんの少し長いキスの後、緒川支部長は優しく愛美の頬を撫でた。
「明日、多分夕方には仕事終わると思うから……会いに来てもいい?」
「……ホントに来る?」
緒川支部長は、ためらいがちに尋ねる愛美の目をまっすぐに見つめた。
「うん。絶対来るよ。もしどうしても遅くなる時には連絡するから、明日はスマホの電源切らずに待っててくれる?」
「はい……」
「じゃあ……おやすみ」
「おやすみなさい」
緒川支部長はもう一度愛美にキスをして帰って行った。
愛美は緒川支部長を見送り、テーブルの上のコーヒーカップを片付けた。
今さっきまで一緒にいた優しい『政弘さん』の事を考えると、胸がキュッと甘い音を立てた。
(私……政弘さんの事、どんどん好きになってる……)
緒川支部長は車のエンジンを掛け、帰り際の愛美を思い出して口元をゆるめた。
そしてゆっくりと車を発進させ、自宅に向かって夜の道を走る。
言葉に出して言ってはくれなかったが、一緒にいたいと思っているのは自分だけじゃないのだと思うと、愛美が引き留めてくれた事は本当に嬉しかった。
愛美に引き留められた時、本当はこのまま朝まで一緒にいたいと思った。
だけどそのまま一緒にいると、衝動が抑えきれず気持ちだけが先走りして、無理やりにでも愛美をどうにかしてしまいそうで怖かった。
愛美の気持ちを何よりも大切にしたい。
衝動だけで突っ走って、愛美を傷付け嫌われるような事だけはしたくない。
愛美が好きだと言ってくれるまで、ゆっくり待とうと緒川支部長は思った。
「別の物ですか。果物とか野菜なんかの甘いのは好きなんですけど、基本的にお菓子とか飲み物の甘いのはあまり好きじゃないです」
「へぇ、甘いもの苦手なんだ。覚えとこう」
『女性なら誰でも甘いものに目がない』と思い込んでいる男性はとても多い。
職員のほとんどを女性が占める職場で働く緒川支部長も、そんなものだと思っていた。
職場ではケーキやクッキーなど甘いお菓子をお裾分けされる機会が多いけれど、緒川支部長は愛美がそれを食べているところを見たことがない。
余りのお菓子にこっそり紛れ込ませたり、ダイエット中だと言って他の職員に食べてもらったりしているところを見かけたときには不思議に思ったけれど、苦手だから食べなかったのかと合点がいく。
「それからレーズンが苦手です。食べた事はないですけど、見た目からダメで。食わず嫌いは損だよって、マスターによく言われます」
「美味しいんだけどな、レーズン。俺は好き」
「じゃあ支部でレーズンの入ったケーキとかお裾分けでもらったら、私の分も食べて下さい」
「うん、いいよ」
コーヒーを飲みながら、そんな他愛ない話をして過ごした。
しばらくすると、緒川支部長がマグカップをテーブルの上に置いて壁掛け時計を見上げた。
愛美もつられて同じように壁掛け時計を見上げる。
「あ……もうこんな時間か……」
時計の針は11時を少し過ぎたところを指している。
ただ話しているだけなのに、一緒にいると心地よくて、時間が過ぎるのがいつもより早く感じた。
緒川支部長がコーヒーを飲み干して立ち上がる。
「もう遅いし、そろそろ帰るよ」
緒川支部長はあっさりと玄関に向かう。
愛美は緒川支部長のあとをついて廊下を歩いた。
もっとたくさん話したい、もっと一緒にいたいと思うのに、その一言が素直に出てこない。
『明日は休みなんだから、まだ帰らないで』と、自分からは言いづらい。
玄関で靴を履いて、緒川支部長が振り返った。
「シチューごちそうさま。ありがとう」
「どういたしまして……」
(もう帰っちゃうんだな……)
愛美が寂しげに目を伏せると、緒川支部長は愛美を抱き寄せた。
「もしかして……俺が帰るの寂しいって、思ってくれてるの?」
愛美がためらいがちに小さくうなずくと、緒川支部長は優しく愛美の頭を撫でた。
「ホントに?嬉しいな。言ってくれたらもっと嬉しいんだけど……」
本当は『帰らないで』『一緒にいて』と言いたいのに、素直に言おうと思うほど声が出ない。
なかなか素直になれない自分がもどかしい。
(ああもう……なんで言えないんだろ……)
緒川支部長は小さくため息をついて、うつむいて黙り込む愛美の頭をポンポンと優しく叩いた。
「じゃあ……帰るよ?」
愛美は言葉にできない代わりに、緒川支部長の上着の裾をギュッと握りしめた。
「ん……?」
緒川支部長は、黙り込んだままうつむいて上着の裾を握る愛美を愛しそうに抱きしめて、優しい声で話す。
「引き留めてくれるの、すっごい嬉しいんだけど……明日も出社する職員さんがいるから、俺も行かなきゃいけないんだ。だから今日は帰るよ。ごめんね」
愛美がうなずいて手を離すと、緒川支部長は愛美の顎に手を添えて上を向かせ、そっと口付けた。
ほんの少し長いキスの後、緒川支部長は優しく愛美の頬を撫でた。
「明日、多分夕方には仕事終わると思うから……会いに来てもいい?」
「……ホントに来る?」
緒川支部長は、ためらいがちに尋ねる愛美の目をまっすぐに見つめた。
「うん。絶対来るよ。もしどうしても遅くなる時には連絡するから、明日はスマホの電源切らずに待っててくれる?」
「はい……」
「じゃあ……おやすみ」
「おやすみなさい」
緒川支部長はもう一度愛美にキスをして帰って行った。
愛美は緒川支部長を見送り、テーブルの上のコーヒーカップを片付けた。
今さっきまで一緒にいた優しい『政弘さん』の事を考えると、胸がキュッと甘い音を立てた。
(私……政弘さんの事、どんどん好きになってる……)
緒川支部長は車のエンジンを掛け、帰り際の愛美を思い出して口元をゆるめた。
そしてゆっくりと車を発進させ、自宅に向かって夜の道を走る。
言葉に出して言ってはくれなかったが、一緒にいたいと思っているのは自分だけじゃないのだと思うと、愛美が引き留めてくれた事は本当に嬉しかった。
愛美に引き留められた時、本当はこのまま朝まで一緒にいたいと思った。
だけどそのまま一緒にいると、衝動が抑えきれず気持ちだけが先走りして、無理やりにでも愛美をどうにかしてしまいそうで怖かった。
愛美の気持ちを何よりも大切にしたい。
衝動だけで突っ走って、愛美を傷付け嫌われるような事だけはしたくない。
愛美が好きだと言ってくれるまで、ゆっくり待とうと緒川支部長は思った。
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