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まな板の上の鯉の気持ち~逃げられない鯉と逃げない鯉の違いはなんだ?~

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さっきまでいつか尚史と離れる日が来ると思うと寂しかったけど、明日は光子おばあちゃんに会えるんだと思うと少し元気が出てきた。
あんなことがあったあとなのに、私が今こうして笑っていられるのは、きっと尚史のおかげだと思う。
こんな風に尚史と一緒にいられる日がいつまで続くかはわからないけど、その日まではこの時間を大切にしたい。

「モモ、さっきの話だけど……マジであきらめんの?」

家のすぐそばまで来たとき、尚史はまた結婚の話を蒸し返した。
やめておけと言っていたのは尚史なのに、私があきらめると言ったら今度は本当にあきらめるのかと確かめるのはどうしてなのか。
尚史は私に結婚して欲しいのか、して欲しくないのか、どっちなんだ?

「尚史、まな板の上の鯉の気持ちってわかる?」
「んんー?まな板に乗ったこともないし、さすがに鯉の気持ちはわからんなぁ……。モモはわかるのか?」
「これから私を食ってやろうと思ってる相手に押さえ付けられて逃げられないんだよ。やだって言っても離してもらえなくて、めっちゃくちゃ怖いの。私ももう少しで鱗全部剥がれて食われるところだった。もう好きでもない人に触られるのも、あんな怖い思いするのやだ」

いい人そうに見えた八坂さんが豹変して獣のような顔で迫ってきたことを改めて思い出すと、また身震いがする。
私の話を少し顔をしかめて聞いていた尚史が、ひとつため息をついて私の頭をポンポンと優しく叩いた。

「そうか。じゃあ、この人ならって思える相手が現れるまでは大事に取っとけ」
「大事にしすぎてそのまま腐って死んじゃうかもね」
「もしそうなりそうなときは腐る前に俺が残さず食ってやる」
「……食われないよ、バカ」

仮想カップルをやる前は絶対に考えられなかった冗談だ。
バカみたいなことを言っているけど、尚史なりに私を元気付けてくれているんだと思う。
一緒にいて尚史以上に安心できる人が現れなければ、私には恋愛も結婚もできそうにないなと思うと苦笑いがもれた。

私の家の前に着くと、尚史は私に向かって両手を広げた。

「モモ」
「……ん?何これ?」
「いいから来い」

尚史は長い腕で私を抱き寄せて、いつもより優しく頭を撫でる。
不意打ちで抱きしめられて鼓動が急激に速くなり、尚史の広い胸に押し付けられた頬が熱くなって、胸の奥がしめつけられるような痛みを感じた。
……なんだこれ?
ここ最近ドキドキビクビクすることが多すぎて、心臓が疲れてるのかな?
私は尚史に触れられると恥ずかしくて照れくさくて数えくれないくらいドキドキしたけど、尚史はいつも平気な顔をしているから、いまさら私とくっついてもなんとも思わないってことなんだろう。

「一人で眠れそうか?」
「うーん……眠ろうとしたら思い出して眠れなくなりそうだから、好きな漫画読みながらそのまま寝ちゃおうと思う」
「そうか。どうしても眠れなかったら遠慮しないで電話しろよ」
「うん……ありがとう」

いつものように軽く右手を上げて帰っていく尚史の後ろ姿を見送りながら、まだ高鳴りがおさまらない胸をそっと押さえた。
尚史の前でも私はやっぱりまな板の上の鯉だ。
無理やり押さえ付けられて逃げられないわけでもないのに、尚史のあたたかさと優しさに捕らわれて、抗うことができない。



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