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その店の楼主はもの静かな男性だった。ぴしっとした着物と羽織姿で、立ち居振る舞いが子供の目からみても美しい。美しいのは姿勢だけではなく、その顔立ちも整っているといわれるもので、私はこんなに美しい男がいるのかとぽうっと見上げた。それは終子も同じだったようで、かしましく騒ぎ立てることなく、黙って男と楼主のやりとりを見守ることとなってしまった。
具体的にどんなやり取りが行われたのか私たちには分からない。ただ男の提示する何かに彼が何度か頭を振ったり、書きつけたりということをしていたのは覚えている。楼主である彼がしゃべることができないのだと知ったのはずいぶんと後のことだった。
とにかく、私と終子の管理権ははつつがなく男から楼主の元へと移譲された。
「それじゃ、あとはお前ら次第だから頑張れよ」
「当たり前じゃない」
「太夫になったら一席おごってくれ」
「むしろ祝いにきなさいよ」
「あ、あの、おじさん」
「なんだ?」
「家族に、みんなにあったら、私は平気って、伝えて」
「……分かった。お前は何かないのか」
「必要ないわ」
「そうか」
最後に男は私たちの頭をひと撫でして、後ろを振り返ることなく行ってしまった。彼にとってはこれまで引き渡してきた子供のうちのたった2人で、そしてこれからも続いていく行為なのだ。逐一感情移入していてはやっていられないのだろう。だから男は最後まで私の名も、終子の名も呼ぶことはなかったのだと思う。
「絶対、のしやがってやる」
何度目とも分からない言葉を、終子がつぶやく。その瞳に炎をともして。
口のきけない楼主がパンパンと手を叩くと、奥から年を経た女性が現れる。私の祖母と変わらない年齢に見える彼女は、値踏みするような視線を投げると楼主に「どうしますか」と短く尋ねた。身の置き所のない視線に、もじもじと目線を下に移し、開けっ放しになったドアの向こうの在りの行列を見つめ続ける。
「わかりました」
「え、きゃっ」
はっと顔を上げたのは遣り手の声が聞こえた時だ。彼女は大きな手で終子の腕をつかむと奥へと引きずり込もうと引っ張り上げた。脱ぎ散らかされた終子の草履が土間へと転がる。
「十和子っ」
私もその後に続こうと慌てて草履をに手をかける。こんなところに置いて行かれるのはいやだ。だというのに、楼主は私の肩に手を置き、頭を左右に振った。
どういうことだろうか。私はもしかしてこの店に遊女ではなく下女として買われたのかもしれない。それなら門の向こうに出ていける可能性もなく、春を売る必要もないのかも。そう期待した私を、楼主はきゅっと唇を結んだ悲し気な顔で見つめた。肩に置かれた手にわずかに力がこもる。なんだと、言うのだろうか。
彼は立ち上がると、土間へと降りる。そこに置かれた下駄を突っかけてなぜか店の外の路地へと歩みを進めた。肩を掴んでいた手はそのまま腕へ、手首へと移動して、手をつなぐ形となる。男とは違う、やわらかい白い手が私を路地の奥へといざなった。
けれど、路地の奥は行き止まりで、そこにあるのはこの町を外と隔てる大きな壁のはずだ。町へと入る前に外から見たときは外側が掘りになっており、壁を乗り越えての脱走は不可能なように見えた。漆喰でできた白い壁は昼間だというのに建物の隙間で暗い路地でぼんやりと薄く光る。訪れる人もいないのか、表通りの喧騒が嘘のように静かだった。
そっと楼主が壁の一部へと手を這わせる。すると、不思議なことにその部分が、きぃ、と音を立てて開いた。扉になっていたらしい。その向こうは掘りになっているはず――そう思っていたのに、そこにあったのは私の後ろにあるのと同様の……否、太陽の光が差し込む庭だった。その奥には先ほど終子が引き取られていった楼閣ほどではないにせよ、それでもそれなりに立派な建物が建っていた。表の楼閣との違いは張見世と呼ばれる遊女たちが居並ぶ場所がないことぐらいで、知らなければ立派な町屋だと思っただろう。それも、庭付きの。
ただひたすらに何が起こったのか理解できず、驚きの連続で感情が麻痺してしまった私の手を引いて、楼主は迷うことなくその建物へと続く整えられた道を歩く。入ってきた扉は分からないよう、きっちりと閉めるのを忘れずに。
ぽかんと手を引かれながら建物を見上げていると、2階の出窓に赤いものがちらつくのが見えた。それが女性の着物だと分かるころには、その着物を纏った人物とばちりと目が合う。薄く笑んだ彼女は妖艶という言葉がよく似合って、同性だというのに計らずしも、私の心臓が早鐘を打つ。あんな綺麗な人、村では見たことがない。そして何よりも、都について以降、私に憐れみの視線を向けなかったのは、彼女が初めてで、なんだかそんな単純なことで嬉しくなる。
ぱっと視線を逸らすと小さいながらもよく手入れされた庭が目に入る。小さな池を中心に、起伏に富んだ地面には苔がびっしりと生えそろい、玉砂利で作られた道は白くその軌跡を示す。ただ、気になるのはところどころに植えられた木のそのどれもが背の低いものだということだ。ただ、さすがに子供にその意味までは分からず、綺麗な庭だと感心することしきりだった。
具体的にどんなやり取りが行われたのか私たちには分からない。ただ男の提示する何かに彼が何度か頭を振ったり、書きつけたりということをしていたのは覚えている。楼主である彼がしゃべることができないのだと知ったのはずいぶんと後のことだった。
とにかく、私と終子の管理権ははつつがなく男から楼主の元へと移譲された。
「それじゃ、あとはお前ら次第だから頑張れよ」
「当たり前じゃない」
「太夫になったら一席おごってくれ」
「むしろ祝いにきなさいよ」
「あ、あの、おじさん」
「なんだ?」
「家族に、みんなにあったら、私は平気って、伝えて」
「……分かった。お前は何かないのか」
「必要ないわ」
「そうか」
最後に男は私たちの頭をひと撫でして、後ろを振り返ることなく行ってしまった。彼にとってはこれまで引き渡してきた子供のうちのたった2人で、そしてこれからも続いていく行為なのだ。逐一感情移入していてはやっていられないのだろう。だから男は最後まで私の名も、終子の名も呼ぶことはなかったのだと思う。
「絶対、のしやがってやる」
何度目とも分からない言葉を、終子がつぶやく。その瞳に炎をともして。
口のきけない楼主がパンパンと手を叩くと、奥から年を経た女性が現れる。私の祖母と変わらない年齢に見える彼女は、値踏みするような視線を投げると楼主に「どうしますか」と短く尋ねた。身の置き所のない視線に、もじもじと目線を下に移し、開けっ放しになったドアの向こうの在りの行列を見つめ続ける。
「わかりました」
「え、きゃっ」
はっと顔を上げたのは遣り手の声が聞こえた時だ。彼女は大きな手で終子の腕をつかむと奥へと引きずり込もうと引っ張り上げた。脱ぎ散らかされた終子の草履が土間へと転がる。
「十和子っ」
私もその後に続こうと慌てて草履をに手をかける。こんなところに置いて行かれるのはいやだ。だというのに、楼主は私の肩に手を置き、頭を左右に振った。
どういうことだろうか。私はもしかしてこの店に遊女ではなく下女として買われたのかもしれない。それなら門の向こうに出ていける可能性もなく、春を売る必要もないのかも。そう期待した私を、楼主はきゅっと唇を結んだ悲し気な顔で見つめた。肩に置かれた手にわずかに力がこもる。なんだと、言うのだろうか。
彼は立ち上がると、土間へと降りる。そこに置かれた下駄を突っかけてなぜか店の外の路地へと歩みを進めた。肩を掴んでいた手はそのまま腕へ、手首へと移動して、手をつなぐ形となる。男とは違う、やわらかい白い手が私を路地の奥へといざなった。
けれど、路地の奥は行き止まりで、そこにあるのはこの町を外と隔てる大きな壁のはずだ。町へと入る前に外から見たときは外側が掘りになっており、壁を乗り越えての脱走は不可能なように見えた。漆喰でできた白い壁は昼間だというのに建物の隙間で暗い路地でぼんやりと薄く光る。訪れる人もいないのか、表通りの喧騒が嘘のように静かだった。
そっと楼主が壁の一部へと手を這わせる。すると、不思議なことにその部分が、きぃ、と音を立てて開いた。扉になっていたらしい。その向こうは掘りになっているはず――そう思っていたのに、そこにあったのは私の後ろにあるのと同様の……否、太陽の光が差し込む庭だった。その奥には先ほど終子が引き取られていった楼閣ほどではないにせよ、それでもそれなりに立派な建物が建っていた。表の楼閣との違いは張見世と呼ばれる遊女たちが居並ぶ場所がないことぐらいで、知らなければ立派な町屋だと思っただろう。それも、庭付きの。
ただひたすらに何が起こったのか理解できず、驚きの連続で感情が麻痺してしまった私の手を引いて、楼主は迷うことなくその建物へと続く整えられた道を歩く。入ってきた扉は分からないよう、きっちりと閉めるのを忘れずに。
ぽかんと手を引かれながら建物を見上げていると、2階の出窓に赤いものがちらつくのが見えた。それが女性の着物だと分かるころには、その着物を纏った人物とばちりと目が合う。薄く笑んだ彼女は妖艶という言葉がよく似合って、同性だというのに計らずしも、私の心臓が早鐘を打つ。あんな綺麗な人、村では見たことがない。そして何よりも、都について以降、私に憐れみの視線を向けなかったのは、彼女が初めてで、なんだかそんな単純なことで嬉しくなる。
ぱっと視線を逸らすと小さいながらもよく手入れされた庭が目に入る。小さな池を中心に、起伏に富んだ地面には苔がびっしりと生えそろい、玉砂利で作られた道は白くその軌跡を示す。ただ、気になるのはところどころに植えられた木のそのどれもが背の低いものだということだ。ただ、さすがに子供にその意味までは分からず、綺麗な庭だと感心することしきりだった。
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