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1 鼻つまみ うつむく先に 拾う神

1-2 解放感

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 水面下でずっと息を止めていた気分だった。
 会社を出、九泉香料の入った雑居ビルを後にし――建物との距離が開いていくことで、百合はやっと息苦しさから解放されていく。
 気持ちが軽くなり、ようやく百合は今日も散々だった、と振り返ることができていた。
 終業時間がずっと待ち遠しかったし、それはおそらく同僚たちもおなじだっただろう。
 事務所にある芝田と小境の机は、百合と向かい合うように並んでいた。
 ふたりが顔を寄せて声を落としてなにか話したり、目配せをしてくちびるのはじを上げる姿はすべて百合の目に入る。
 そして耳に届くふたりのひそひそ話や雰囲気は、時間の経過とともに孕んだ苛立ちが色濃くなっていくのだ。ときおり百合を一瞥する彼女たちの目は、明らかな怒りを帯びていた。そのすべてが自分に向けられたものだと思うのは、百合の自意識過剰だろうか。
 百合だって、好きでいやなにおいをまとっているわけではない。
 朝と帰宅してすぐと寝る前、一日三回百合は入浴するようになっている。細々と換気をして入浴し、着替えも頻繁にするからか、帰宅している間はこれといって悪臭を感じない。しかし外出し気がつくと、どうしてかひどいにおいがしている。
 どうしてこんなことに、と涙ぐみそうになりながら、百合は会社にいる間ずっと水中で息を止めているような状態だ。
 苦しくて苦しくてしかたがない――だがずっと息を止めていたのは、百合だけではない。
 ――同僚たちもそうだろう。
 彼女たちにいやな思いをさせている。
 それをどう謝ればいいのかわからないし、たぶん方法は退社して彼女たちの前から姿を消す――そのくらいしかないのではないか。
 足を進める初秋の空は晴れ、空気はほどよく冷たい。
 百合は胸いっぱいに空気を吸いこんだ。
 百合が開放感に満ち満ちているためか、空気は清々しくおいしかった。外気のなかにいるためか、もういやなにおいを感じない。百合は肩の力を抜いていった。
 会社のあるK区ひらか町は、どちらかというと住宅地が多い。帰路を急ぐ会社員よりも、買いもので忙しい自転車の往来が目立った。
 百合の横を自転車が通り過ぎていく。
 自転車の主たちは、さほどスピードを出していない。誰ひとりとして鼻を覆ったり、あたりのにおいを気にするような素振りを見せなかった。
 小走りで会社を出て離れた百合は、人気のない民家の間をすり抜けるようにして進んでいく。
 最近歩いている道だ――自分から異臭がするのだと気がついてから、百合が選んだひとけのない道である。
 奇しくもそこは、百合がおさないころに暮らしていた一帯だった。
 当時とは微妙に道や住人などが入れ替わっているものの、眺めになつかしさを覚える部分がある。
 昔百合が入り浸っていた駄菓子屋は、いまは喫煙所を兼ねた自動販売機の密集する場所に変わっていた。
 帰り道に立ち寄ると、たいていそこは無人だった。
 いまでは自動販売機が並ぶようになっているが、目を閉じると百合が入り浸っていた小学生当時の駄菓子屋を思い起こせる。
 駄菓子屋が建っていたとき、二階建てのその建物は店舗と住居を兼ねていた。
 いつもおばあちゃんが店番をしていて、その後ろ、薄暗い空間に急な階段があった。
 せまい階段をのぼった先で寝ていると、おばあちゃんが話していたことがある。一階の店、二階の寝室。それだけの建物だったようだ。裏手に倉庫があると聞いたこともあるが、高い壁があり、道から敷地内の状態は一切わからなかった。
 夕方母と買いものに出ると、銭湯にいくおばあちゃんと何度もすれ違ったものだ。「おうちにお風呂つけないの?」と尋ねると、「ほとんどお店にいるから、銭湯でのんびりするのが楽しみなんだよ」と笑顔で返してくれた。
 駄菓子屋の店内、たくさんの棚には、駄菓子がそれこそひしめき合うように詰めこまれていた。店内はいつも窮屈で、ほかの子とすれ違うのもやっとだったのだ。
 そこが更地になってみると、案外広さがあって驚いてしまう。
 四台の自動販売機の半分は飲みもので、半分は煙草を扱っている。百合の腰の高さまでの灰皿には、手書きの告知がある――『この喫煙所の使用は、年末までとなります』。
 並んだ自動販売機の後ろ、隠されているかのように、じつはもう一台べつの自動販売機がある。
 背が低く古いもので、見た目からして錆び、経年を感じさせ、直接ふれるのにためらうような状態だ。
 そこで販売しているのは、駄菓子屋で販売している菓子そのものである。
「今日はどれにしようかな」
 その自動販売機の前で百合は身をかがめ、くすんだガラス越しに商品を眺めた。
 並んでいるものの種類はさほど多くない。おさない百合が買い求めていたときと、どれもデザインは変わっていなかった。
 懐かしいパッケージのそれらは、百円――ワンコインで買えるようになっていた。
 半月ほど前、このちいさな自動販売機を見つけた。それ以来ラインナップは変わっていない。
 硬貨を投入してボタンを押すと、取り出し口に商品の落ちる軽い音が聞こえる。
 百合が取り出したのは、お手製だろう、ビニール袋におなじ駄菓子がみっつ入っているものだ。
 貨幣をかたどったチョコ菓子で、使用されている脂のせいか、すこし後味が重いものである。小学生まで虫歯の多かった百合は、母からチョコレートなど甘みの強いお菓子を禁じられていた。その反動か、現在つまみ食いの菓子を選ぶときには、チョコレート製品をよく選ぶようになっている。
 ビニールを開き、ひとつを手に取る。
 残りをカバンにしまった百合が振り返ると、そこに立つ人影があった。
「……あらぁ」
 思わず手に力がこもっていた。
 使いこまれて見えるサンダルを履いた足が、一歩近づいてくる。
 百合はチョコ菓子をにぎりしめ、目の前の顔をまじまじと見つめた。
 きついパーマのあてられた白髪まじりの髪と、まんまるい瞳と大きな口――それが動いた。
「あなた、昔きてた子よね、よく買いに」
 知っている顔だ。
 こみ上げるものは懐かしさではなかった。
 心臓が凍りついたようになっている。息苦しい。力の限りでチョコ菓子をにぎる。
 そんなはずはない、と百合は生唾を飲んでいた。
「なんだっけ、名前……ここまで出かかってるのよねぇ」
 声にも覚えがあった。
「だ――駄菓子屋の、おばあちゃ……」
 百合は無理に声を出した。
 そこに立つのは、店番をしていたおばあちゃんそのひとだった。
 駄菓子屋が閉店した理由もわかっている――おばあちゃんは倒れ、そのまま亡くなったのだ。
 ここにいるはずがない。
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