かぐわしいかな、黄泉路の薫香 ~どうにか仕事に慣れたけど どうかしてると思います!

日野

文字の大きさ
2 / 48
1 鼻つまみ うつむく先に 拾う神

1-2 解放感

しおりを挟む
        ●

 水面下でずっと息を止めていた気分だった。
 会社を出、九泉香料の入った雑居ビルを後にし――建物との距離が開いていくことで、百合はやっと息苦しさから解放されていく。
 気持ちが軽くなり、ようやく百合は今日も散々だった、と振り返ることができていた。
 終業時間がずっと待ち遠しかったし、それはおそらく同僚たちもおなじだっただろう。
 事務所にある芝田と小境の机は、百合と向かい合うように並んでいた。
 ふたりが顔を寄せて声を落としてなにか話したり、目配せをしてくちびるのはじを上げる姿はすべて百合の目に入る。
 そして耳に届くふたりのひそひそ話や雰囲気は、時間の経過とともに孕んだ苛立ちが色濃くなっていくのだ。ときおり百合を一瞥する彼女たちの目は、明らかな怒りを帯びていた。そのすべてが自分に向けられたものだと思うのは、百合の自意識過剰だろうか。
 百合だって、好きでいやなにおいをまとっているわけではない。
 朝と帰宅してすぐと寝る前、一日三回百合は入浴するようになっている。細々と換気をして入浴し、着替えも頻繁にするからか、帰宅している間はこれといって悪臭を感じない。しかし外出し気がつくと、どうしてかひどいにおいがしている。
 どうしてこんなことに、と涙ぐみそうになりながら、百合は会社にいる間ずっと水中で息を止めているような状態だ。
 苦しくて苦しくてしかたがない――だがずっと息を止めていたのは、百合だけではない。
 ――同僚たちもそうだろう。
 彼女たちにいやな思いをさせている。
 それをどう謝ればいいのかわからないし、たぶん方法は退社して彼女たちの前から姿を消す――そのくらいしかないのではないか。
 足を進める初秋の空は晴れ、空気はほどよく冷たい。
 百合は胸いっぱいに空気を吸いこんだ。
 百合が開放感に満ち満ちているためか、空気は清々しくおいしかった。外気のなかにいるためか、もういやなにおいを感じない。百合は肩の力を抜いていった。
 会社のあるK区ひらか町は、どちらかというと住宅地が多い。帰路を急ぐ会社員よりも、買いもので忙しい自転車の往来が目立った。
 百合の横を自転車が通り過ぎていく。
 自転車の主たちは、さほどスピードを出していない。誰ひとりとして鼻を覆ったり、あたりのにおいを気にするような素振りを見せなかった。
 小走りで会社を出て離れた百合は、人気のない民家の間をすり抜けるようにして進んでいく。
 最近歩いている道だ――自分から異臭がするのだと気がついてから、百合が選んだひとけのない道である。
 奇しくもそこは、百合がおさないころに暮らしていた一帯だった。
 当時とは微妙に道や住人などが入れ替わっているものの、眺めになつかしさを覚える部分がある。
 昔百合が入り浸っていた駄菓子屋は、いまは喫煙所を兼ねた自動販売機の密集する場所に変わっていた。
 帰り道に立ち寄ると、たいていそこは無人だった。
 いまでは自動販売機が並ぶようになっているが、目を閉じると百合が入り浸っていた小学生当時の駄菓子屋を思い起こせる。
 駄菓子屋が建っていたとき、二階建てのその建物は店舗と住居を兼ねていた。
 いつもおばあちゃんが店番をしていて、その後ろ、薄暗い空間に急な階段があった。
 せまい階段をのぼった先で寝ていると、おばあちゃんが話していたことがある。一階の店、二階の寝室。それだけの建物だったようだ。裏手に倉庫があると聞いたこともあるが、高い壁があり、道から敷地内の状態は一切わからなかった。
 夕方母と買いものに出ると、銭湯にいくおばあちゃんと何度もすれ違ったものだ。「おうちにお風呂つけないの?」と尋ねると、「ほとんどお店にいるから、銭湯でのんびりするのが楽しみなんだよ」と笑顔で返してくれた。
 駄菓子屋の店内、たくさんの棚には、駄菓子がそれこそひしめき合うように詰めこまれていた。店内はいつも窮屈で、ほかの子とすれ違うのもやっとだったのだ。
 そこが更地になってみると、案外広さがあって驚いてしまう。
 四台の自動販売機の半分は飲みもので、半分は煙草を扱っている。百合の腰の高さまでの灰皿には、手書きの告知がある――『この喫煙所の使用は、年末までとなります』。
 並んだ自動販売機の後ろ、隠されているかのように、じつはもう一台べつの自動販売機がある。
 背が低く古いもので、見た目からして錆び、経年を感じさせ、直接ふれるのにためらうような状態だ。
 そこで販売しているのは、駄菓子屋で販売している菓子そのものである。
「今日はどれにしようかな」
 その自動販売機の前で百合は身をかがめ、くすんだガラス越しに商品を眺めた。
 並んでいるものの種類はさほど多くない。おさない百合が買い求めていたときと、どれもデザインは変わっていなかった。
 懐かしいパッケージのそれらは、百円――ワンコインで買えるようになっていた。
 半月ほど前、このちいさな自動販売機を見つけた。それ以来ラインナップは変わっていない。
 硬貨を投入してボタンを押すと、取り出し口に商品の落ちる軽い音が聞こえる。
 百合が取り出したのは、お手製だろう、ビニール袋におなじ駄菓子がみっつ入っているものだ。
 貨幣をかたどったチョコ菓子で、使用されている脂のせいか、すこし後味が重いものである。小学生まで虫歯の多かった百合は、母からチョコレートなど甘みの強いお菓子を禁じられていた。その反動か、現在つまみ食いの菓子を選ぶときには、チョコレート製品をよく選ぶようになっている。
 ビニールを開き、ひとつを手に取る。
 残りをカバンにしまった百合が振り返ると、そこに立つ人影があった。
「……あらぁ」
 思わず手に力がこもっていた。
 使いこまれて見えるサンダルを履いた足が、一歩近づいてくる。
 百合はチョコ菓子をにぎりしめ、目の前の顔をまじまじと見つめた。
 きついパーマのあてられた白髪まじりの髪と、まんまるい瞳と大きな口――それが動いた。
「あなた、昔きてた子よね、よく買いに」
 知っている顔だ。
 こみ上げるものは懐かしさではなかった。
 心臓が凍りついたようになっている。息苦しい。力の限りでチョコ菓子をにぎる。
 そんなはずはない、と百合は生唾を飲んでいた。
「なんだっけ、名前……ここまで出かかってるのよねぇ」
 声にも覚えがあった。
「だ――駄菓子屋の、おばあちゃ……」
 百合は無理に声を出した。
 そこに立つのは、店番をしていたおばあちゃんそのひとだった。
 駄菓子屋が閉店した理由もわかっている――おばあちゃんは倒れ、そのまま亡くなったのだ。
 ここにいるはずがない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

最低のEランクと追放されたけど、実はEXランクの無限増殖で最強でした。

みこみこP
ファンタジー
高校2年の夏。 高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。 地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。 しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...