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1 鼻つまみ うつむく先に 拾う神

1-3 いないはずの

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 飲みものの自動販売機の影に足を踏み入れてきたそのひとは、かくかくと顔を上下させた。
「そうそう、うちのお母さんが行儀いい子だってほめてた子だわ! 面影あるわねぇ」
「え……」
 冷や汗をかきながらも、百合は対峙した顔を見つめた。
 記憶にある顔と寸分違わない――声も話し方も、百合の肩くらいまでの背の高さも。そうして見てみると、着ているカーディガンまでおなじ気がする。
「あの、駄菓子屋のおばあちゃんの……娘、さん……?」
 娘さん、というのに抵抗を覚えるていどには、年齢が高い。百合はしどろもどろになっていた。
「なつかしぃ! あなたまだこのあたり住んでるの? 区画整理でけっこうな人数が引っ越しちゃったでしょう、店畳んでから全然ちっちゃい子見なくなっちゃって」
 彼女はきびすを返し、喫煙所のほうに足を向けていく。早鐘のような鼓動を打つ胸にチョコ菓子を押しつけ、百合はその背中についていった。
 以前この町で区画整理があり、百合の家もそこに合わせて引っ越しをしていた。
「引っ越してとなりの市に住んでたんですけど、会社がこっちなので」
「そうなのぉ、最近そのお菓子販売機が売れてたんだけど、お姉さん買ってた?」
「あ、はい……懐かしくて」
 手のなかにあるチョコ菓子は、温度で溶けはじめたのか、パッケージ越しでもかたちが変わっているのがわかる。
「そうよねぇ、あの子がこんなお姉さんになってるなら、あたしも歳取るはずだわぁ」
 灰皿のとなりで振り返ったおばさんの手には、ほうきとちり取りがにぎられていた。これまでに行き会ったことはなかったが、定期的に掃除に訪れているのだろう。
 そっと息を吐き、おばさんのことを幽霊でも見る気持ちになっていたことを反省する。
「さっき、おばあちゃん本人かと思いました。そ、そっくりで……」
 チョコ菓子をカバンに落とす。
「そりゃ親子だからね、似てるわよ」
 笑っている顔も、パーマのかかり方も、前頭部で白髪が描く模様も、店番をしていたおばあちゃんとそっくりだ。
「こっちに越してきたのはいつ? 昔とだいぶ変わったでしょ」
「去年末です。このあたりはあんまり変わってないですけど、区画整理のあった方は全然違いますね」
 町――私鉄K駅の線路が町を二分している。
 線路を挟んだこちらとあちらで、現在町の様子は違うものとなっていた。
 区画整理はあちらがわでおこなわれて、はやくも十五年が経過していた。当時は小学生だった百合も、大学を出て九泉香料に勤めるようになっている。
 一度小学生時分に転居し、となりの町に移っていたが、就職を機会に百合は戻ってきた。区画整理があったため、地名はおなじでも、風景に過去を忍ばせるものはなにもない。駅を挟んだあちらがわは、まったくべつの町へと変貌を遂げていた。
「あんまりあたし出歩かないから実感ないのよね、もうべつの町みたいになってる?」
「そうですね。便利になったって感じはあんまりしませんけど、道路はすごく広くなってて……なにか災害があったときに、車が通りやすくていいんじゃないでしょうか。ただあっちはぜんぜん知らない町みたいです」
 開発の手の入らなかった、駅のこちらがわ――駄菓子屋のあったあたりでも、時間の流れだろう、風景が変わっている場所が多い。
 現に駄菓子屋は休憩所となり、ほかにも昔あった店が消え、新しい店がオープンしている。何軒かの家があった区画には、背の高いマンションが建てられていた。
 変化したとはいえ、買いものなど日常生活を送るための遠出は必要なく、この近所だけで十分暮らしていける。おばさんのいうように、出歩かないですむ環境ともいえた。
 百合もまた、会社まで徒歩で通い、1DKのアパートとの往復で日々を過ごしている。
 うううん、とおばさんは唸り、眉間に深いしわを刻む。
「なんだったかなぁ、おねえさんの名前、思い出せそうなのよね。ここまで出かかってるの」
 おばさんは自分の喉元をトントンとチョップする。百合が名乗ろうと口を開きかけると、慌てたようにおばさんは首を振った。
「あ、でもいわないで! 待って! 思い出せると思うのよ、さすがにそこまでボケてないから!」
 片手に掃除道具をまとめて持ち、おばさんは百合の近くにきて肩を叩いてきた。
「また寄ってね。そのときには名前思い出せてるよ、きっと」」
 近くに寄られると緊張してしまう――しかしおばさんがなにかにおいに気がついた様子はなく、百合はほっと安心しながらうなずき返していた。
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