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1 鼻つまみ うつむく先に 拾う神
1-4 身の置き場
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●
九泉香料の事務所、自分の席で相変わらず百合は最低限の呼吸をして過ごしていた。
会社の入っている建物は古く、しかし内装にそれらしき影はない。室長の九重清巳が内装を決めたそうで、「働く場所はきれいなほうが気分がいいでしょう」と話していた。そういっていた当の本人は、事務所に腰を落ち着けている時間はいつも短く、今日も打ち合わせのため席を外している。朝礼のあと、一日中打ち合わせの連続だとこぼしていた。
資料室は続きの隣室にあり、そこに標本やファイルなどはすべて置かれている。各社員の机だけのこざっぱりした事務所の席で、会社支給のノートパソコンに向いた百合は、全身にじっとりといやな汗をかいていた。
ノートパソコンのモニターをただじっと見つめる――その視界には、向かいの席にすわす芝田の姿がある。
芝田がひたいに手を当て、難しい顔をしていた。
小境はすこし前に、事務所を出ていっている。
低い声で、「くさい」と吐き捨てていた。
机で身をこわばらせながら、百合もそう思っている。
――今日のにおいはひどすぎる。
出社し、着席してすぐ後ぐらいから、急激ににおいは強くなっていた。
なにかが腐っているような――ぐずぐずになった肉を想像させるものだ。
それがいま、百合を中心にして漂っている。
百合は口で呼吸をしていた。うっすらと涙の浮いた目を凝らし、モニターに集中するよう心がけていた。
急ぎの仕事ではないものの、今日中に片づけようと思っていた資料づくりは、いまのところまったく進んでいない。
それは百合に限った話ではなかった。
ノートパソコンのモニターの向こう、真っ赤な顔をした芝田が口元を手で覆っている。
――においのせいだ。
それをできるだけ視界に入れないように――意識しないようにするが、なかなかうまくいかない。
――なんで。
呼吸をするのにも、ためらうような悪臭。
百合本人でも、たまらないと思う。
手のひらや胸元が、いやな汗で濡れていく。
ひどく緊張していた。
狼狽し、身の置き場がどこにもない。焦燥感に苛まれ、百合はいますぐにでも走って事務所を出ていきたくなっていた。
「ああ、もうっ!」
はっきりと吐き捨て、芝田が席を立った。
カツカツと乱暴な靴音とともに彼女は移動し、百合の後方にある窓を開けると事務所を出ていく。
ビルに響き渡るような激しさでドアが閉められた。
事務所にひとりきりになって、百合は机に突っ伏した。
大きく息を吐き、吸いこもうとしてむせる。それほどのにおいがしていて、百合はひたすら愕然とする。
「……どうして、こんな」
うつむいた鼻先に、悪臭が迫ってくる。百合は顔を上げ、ひとりになった事務所を見回した。
薄く開けられた背後の窓から入った風で、前髪が軽く揺れる。
悪臭は散って消えたりせず、事務所に広がり部屋中を汚染しているような気がした。
ひとりになって気が緩み、涙が浮かんでくる。百合が乱暴にぬぐうと、その動きに合わせてにおいまで動いていた。
鼻で呼吸をすることが難しい。口で喘ぐように空気を吸いこみ、それでもにおいを感じる。百合は陸に打ち上げられた瀕死の魚のようになっていた。
「もう、やだ……」
思考が混乱しそうになるなか、百合の手はノートパソコンで開いていたデータを保存する。そしてシャットダウンし、机に広げてあった道具を大雑把に引き出しに投げこんだ。乱暴で耳障りで、先ほどの芝田の立てた騒音にそっくりだった。
芝田も小境も、怒りを露わにして出ていった。
その気持ちはよくわかる――百合だってそうしたかった。
物音など気にせず出ていき、清々しい空気のなかに身を置きたい。
それができないなら、せめてほかに誰もいないところにいきたい。ひとり暮らしをしているアパートに帰りたい。
机の一番下の引き出しがカバン入れになっていて、百合がそこに手をかけたとき、事務所のドアが開いた。
「ただいま戻りました。ああ、風入れてるんだね」
室長の九重清巳だった。打ち合わせから戻ったのだ。
九重は襟足の長い緩めのオールバックであり、所々で白髪が束になっている。切れ長の一重の目が時々冷たそうに見えるが、ひとと話すときには彼は微笑むので印象はやわらかい――その笑顔を百合に向けてきた。
「一件打ち合わせが終わったので戻りましたが、なにかありましたか? 午後はもう戻らないと思います」
五十になったばかりの九重の声は、のんびりしたものだ。
彼の声に百合は安堵を覚えていた。しかしそれも束の間だ。
――どうして九重に安堵したのか。
――いままで彼からくさいといわれたことも、そんな態度を見せられたこともない。
――その九重にまで、もしいやなものを見るような視線を向けられたら。
九重もすでに百合から漂う悪臭に気がついているだろう。それをあからさまに顔や態度に貼りつけることはないが――首をめぐらせた九重は、手にしたスーツの上着を自分の席に置いた。
「歩くとおもてはちょっと暑いですね。芝田さんたちはどうしました? 朝はいましたよね」
「こ、九重さん」
「どうしました?」
九重は不思議そうな顔をしていた。
「あの……今日、気分が悪いので早退しても……」
「大丈夫ですか? タクシー呼びますか?」
気遣わしげに眉をひそめ、百合のほうに近づこうとする九重の前で、カバンと上着を一緒くたに抱えこんだ。
――近づいてほしくない。
「いえ、大丈夫です! あの、すみません……帰ります」
言葉の最後のほうが、涙声になってしまった。
九重の返答を待たず、百合の足は駆け出していく。
ドアに体当たりをするようにして開け、エレベーターではなく非常階段のほうに向かう。背後でひとの声を聞いた気がした。そちらには手洗いがあり、芝田と小境がいるならそこだろう。足をさらにはやめた――駆けていく姿さえ、彼女たちに見られたくなかった。
「……っ、う……」
非常扉を開けようと足を止めたとき、鼻先に腐臭が立ちこめた。それをかき分けるように非常扉を開け、百合は前に進む。
非常階段に出て風に吹かれると、一瞬で悪臭から解放された。だがすぐに戻ってきて、百合は顔を覆ってその場にしゃがみこんだ。
においがまとわりついている。
あたりに風があるためか、事務所にいたときよりはましな気がした。
百合は歯を食い縛って立ち上がり、非常階段を駆け下りていった。
九泉香料の事務所、自分の席で相変わらず百合は最低限の呼吸をして過ごしていた。
会社の入っている建物は古く、しかし内装にそれらしき影はない。室長の九重清巳が内装を決めたそうで、「働く場所はきれいなほうが気分がいいでしょう」と話していた。そういっていた当の本人は、事務所に腰を落ち着けている時間はいつも短く、今日も打ち合わせのため席を外している。朝礼のあと、一日中打ち合わせの連続だとこぼしていた。
資料室は続きの隣室にあり、そこに標本やファイルなどはすべて置かれている。各社員の机だけのこざっぱりした事務所の席で、会社支給のノートパソコンに向いた百合は、全身にじっとりといやな汗をかいていた。
ノートパソコンのモニターをただじっと見つめる――その視界には、向かいの席にすわす芝田の姿がある。
芝田がひたいに手を当て、難しい顔をしていた。
小境はすこし前に、事務所を出ていっている。
低い声で、「くさい」と吐き捨てていた。
机で身をこわばらせながら、百合もそう思っている。
――今日のにおいはひどすぎる。
出社し、着席してすぐ後ぐらいから、急激ににおいは強くなっていた。
なにかが腐っているような――ぐずぐずになった肉を想像させるものだ。
それがいま、百合を中心にして漂っている。
百合は口で呼吸をしていた。うっすらと涙の浮いた目を凝らし、モニターに集中するよう心がけていた。
急ぎの仕事ではないものの、今日中に片づけようと思っていた資料づくりは、いまのところまったく進んでいない。
それは百合に限った話ではなかった。
ノートパソコンのモニターの向こう、真っ赤な顔をした芝田が口元を手で覆っている。
――においのせいだ。
それをできるだけ視界に入れないように――意識しないようにするが、なかなかうまくいかない。
――なんで。
呼吸をするのにも、ためらうような悪臭。
百合本人でも、たまらないと思う。
手のひらや胸元が、いやな汗で濡れていく。
ひどく緊張していた。
狼狽し、身の置き場がどこにもない。焦燥感に苛まれ、百合はいますぐにでも走って事務所を出ていきたくなっていた。
「ああ、もうっ!」
はっきりと吐き捨て、芝田が席を立った。
カツカツと乱暴な靴音とともに彼女は移動し、百合の後方にある窓を開けると事務所を出ていく。
ビルに響き渡るような激しさでドアが閉められた。
事務所にひとりきりになって、百合は机に突っ伏した。
大きく息を吐き、吸いこもうとしてむせる。それほどのにおいがしていて、百合はひたすら愕然とする。
「……どうして、こんな」
うつむいた鼻先に、悪臭が迫ってくる。百合は顔を上げ、ひとりになった事務所を見回した。
薄く開けられた背後の窓から入った風で、前髪が軽く揺れる。
悪臭は散って消えたりせず、事務所に広がり部屋中を汚染しているような気がした。
ひとりになって気が緩み、涙が浮かんでくる。百合が乱暴にぬぐうと、その動きに合わせてにおいまで動いていた。
鼻で呼吸をすることが難しい。口で喘ぐように空気を吸いこみ、それでもにおいを感じる。百合は陸に打ち上げられた瀕死の魚のようになっていた。
「もう、やだ……」
思考が混乱しそうになるなか、百合の手はノートパソコンで開いていたデータを保存する。そしてシャットダウンし、机に広げてあった道具を大雑把に引き出しに投げこんだ。乱暴で耳障りで、先ほどの芝田の立てた騒音にそっくりだった。
芝田も小境も、怒りを露わにして出ていった。
その気持ちはよくわかる――百合だってそうしたかった。
物音など気にせず出ていき、清々しい空気のなかに身を置きたい。
それができないなら、せめてほかに誰もいないところにいきたい。ひとり暮らしをしているアパートに帰りたい。
机の一番下の引き出しがカバン入れになっていて、百合がそこに手をかけたとき、事務所のドアが開いた。
「ただいま戻りました。ああ、風入れてるんだね」
室長の九重清巳だった。打ち合わせから戻ったのだ。
九重は襟足の長い緩めのオールバックであり、所々で白髪が束になっている。切れ長の一重の目が時々冷たそうに見えるが、ひとと話すときには彼は微笑むので印象はやわらかい――その笑顔を百合に向けてきた。
「一件打ち合わせが終わったので戻りましたが、なにかありましたか? 午後はもう戻らないと思います」
五十になったばかりの九重の声は、のんびりしたものだ。
彼の声に百合は安堵を覚えていた。しかしそれも束の間だ。
――どうして九重に安堵したのか。
――いままで彼からくさいといわれたことも、そんな態度を見せられたこともない。
――その九重にまで、もしいやなものを見るような視線を向けられたら。
九重もすでに百合から漂う悪臭に気がついているだろう。それをあからさまに顔や態度に貼りつけることはないが――首をめぐらせた九重は、手にしたスーツの上着を自分の席に置いた。
「歩くとおもてはちょっと暑いですね。芝田さんたちはどうしました? 朝はいましたよね」
「こ、九重さん」
「どうしました?」
九重は不思議そうな顔をしていた。
「あの……今日、気分が悪いので早退しても……」
「大丈夫ですか? タクシー呼びますか?」
気遣わしげに眉をひそめ、百合のほうに近づこうとする九重の前で、カバンと上着を一緒くたに抱えこんだ。
――近づいてほしくない。
「いえ、大丈夫です! あの、すみません……帰ります」
言葉の最後のほうが、涙声になってしまった。
九重の返答を待たず、百合の足は駆け出していく。
ドアに体当たりをするようにして開け、エレベーターではなく非常階段のほうに向かう。背後でひとの声を聞いた気がした。そちらには手洗いがあり、芝田と小境がいるならそこだろう。足をさらにはやめた――駆けていく姿さえ、彼女たちに見られたくなかった。
「……っ、う……」
非常扉を開けようと足を止めたとき、鼻先に腐臭が立ちこめた。それをかき分けるように非常扉を開け、百合は前に進む。
非常階段に出て風に吹かれると、一瞬で悪臭から解放された。だがすぐに戻ってきて、百合は顔を覆ってその場にしゃがみこんだ。
においがまとわりついている。
あたりに風があるためか、事務所にいたときよりはましな気がした。
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