5 / 48
1 鼻つまみ うつむく先に 拾う神
1-5 無臭
しおりを挟む
自然といつもの道を歩いていた。
しかしいつもと違う時間のためだろう、通行人の数はことさらすくなかった。目的地を定めずに歩いていた百合の足は、自然と元駄菓子屋だった喫煙所にと向かっていた。
腕時計から短いアラームが聞こえる――昼食時だ。
ぼんやりと歩いていた思考が、九泉香料の事務所に戻っていく。
百合が出てきたのだ、いまごろはもう悪臭などどこにもなく、芝田たちはせいせいしたと話しているかもしれない。
そう考えるだけで息苦しくなる。
気を取り直すように、百合はいつもとおなじく駄菓子の自動販売機の前に立った。
ひとりきりになる狭い通路で、百合の涙腺は決壊しそうになる。
いっそ泣いてしまってもいいのではないか。
そう思いながらまた、歯を食い縛っていた。
泣いてしまったら、自分から悪臭がするということを迎合してしまう気がした。対処できることはしている、なのにどうしようもないなら、もうしかたがない――そんなふうに考えるようにはなりたくなかった。
まだなにかやれることが、なにかあるはずだ。
「……あれ……?」
カバンから財布を取り出し、百合は手の甲で目尻をぬぐった。
――においを感じない。
襟元をつまみ、パタパタと動かしてみる。体温で温まった風が胸元から起こったが、かすかに鼻が嗅ぎ取ったのは、百合が使っているボディソープの甘いかおりだ。
「……え?」
鼻が慣れたのか――襟元を強く引っ張り、百合は鼻先まで服のなかに埋めた。温かい空気があるだけで、事務所で感じたようなにおいはいっさいない。
「どうして?」
手に持っていた財布のことを思い出し、百合はとりあえず買いものをする。心ここにあらず、で適当に選んだ駄菓子はきなこ棒だった。密封されているはずが、手に取ったとたんに香ばしいかおりが立ち上った気がする。
「こんにちはぁ、今日はなににしたの?」
背後から声がかかり、振り返るとほうきを持ったおばさんが立っている。
先代である駄菓子屋のおばあちゃんとそっくりなせいか、彼女と対峙した百合は緊張がゆるゆると解けていった。
「今日は……きなこ棒を」
「いいの選ぶわねぇ。でもさ、おいしいけど、口のなかぱさぱさしちゃうのよね。お茶がほしくならない?」
おばさんが大きな口で笑い、百合はつられて笑顔を浮かべていた。
「お茶だったら、そっちの自動販売機で売ってますよね」
喫煙所のあるほうに戻り、百合はあたたかいお茶を選んで購入する。
「ところで、こんなはやい時間にどうしたの? お昼休み?」
すでに掃除はすんでいるのか、あたりにはゴミひとつ落ちていなかった。
「あ……ちょっと、半休で」
会社のことを思うと、百合の言葉は歯切れが悪くなる。
「そうなの? なにか用事あった? 声かけちゃって悪かったかしら」
「とくに用事があるってわけじゃなくて……」
なにからなにまで話してしまって、いま自分からなにかにおっていないか――それをおばさんに尋ねてしまいたくなっていた。
お茶を口にするついでに、そっと手首を鼻先に近づける。
なんのにおいもしない。
まるで会社でだけ、いやなにおいを放っているようだ――ストレスかなにかで、汗のにおいがおかしくなっているのだろうか。
百合は九泉香料の仕事にとくに不満はない。それどころか、いい就職先を見つけた、と喜んでいたのだ。
残業もほぼなく、有給も取りやすい。上司である九重清巳の人当たりもよく、ミスを起こしても、されるのは指摘であって叱責ではなかった。
警戒していたのは、一族経営の会社だという点のみ。だが入社以降、一存を通すという社長をはじめ、上司の横暴にさらされたこともない。
なにかあるとするなら、今年の夏のさなかに異動が決まったことくらいか。
それは急だともいえたが、新たなデータ室のあるK区内のいくへ町は、百合が楽に通勤できる距離だった。電車に乗っている時間は、せいぜい十分ていど。
それなので百合はかまわない、としか思わなかった――そのときにはもう異臭を感じ取るようになっていて、異動について深く考える時間がなかったのが実際のところでもあるが。
まだ入社して一年と経っていないが、異臭の件が起こるまでとくに不満はなかった。
それまでは芝田たちがひそひそと、小声でなにかささやき交わすこともなかったのだ。彼女たちもいい同僚だった。自分が異臭の根源でもなければ、差し障りのない間柄でいられただろう。
「どうしたの?」
百合の仕草に気がつき、おばさんが自分の手首を鼻のところに持っていく。
「なぁに? なにかあった?」
「あ……香水でもつけたらどうかなって」
返答としては唐突なものだったが、おばさんはとくに気にしていないようだった。
「香水? あんなくさいもんつけてどうするの。つけたいって子には悪いけどさ、あれって、昔お風呂に入れないひとが、においをごまかすのにつけてたんだって聞いたよ」
その話は百合も聞いたことがあった。どこか外国での話だった覚えがある――真偽はわからない。
「まあどっかで聞いた話の受け売りだけどね。あたしらみたいに加齢臭するって歳になっても、こまめにお風呂に入ったらいいんだし。人間汗かいたらにおうもんだよ」
おばさんはするりと近づいてきて、百合に顔を寄せてると鼻をひくつかせた。
深く息を吸いこんでいるその様子に、百合は身を強張らせる――おばさんは百合を見上げ、にこりと笑う。
「まだお姉さん、加齢臭なんてしてないわよ、平気平気」
笑顔ではっきりいわれ、百合の気持ちは軽くなっていた。
気が楽になったとたんに、百合の身体は空腹を思い出した。買ったきなこ棒だけでは足りるはずがない。
「それじゃ、私」
「うん、またよろしくね。気をつけてねぇ」
明るい声に送り出され、百合は喫煙所をあとにしていった。
しかしいつもと違う時間のためだろう、通行人の数はことさらすくなかった。目的地を定めずに歩いていた百合の足は、自然と元駄菓子屋だった喫煙所にと向かっていた。
腕時計から短いアラームが聞こえる――昼食時だ。
ぼんやりと歩いていた思考が、九泉香料の事務所に戻っていく。
百合が出てきたのだ、いまごろはもう悪臭などどこにもなく、芝田たちはせいせいしたと話しているかもしれない。
そう考えるだけで息苦しくなる。
気を取り直すように、百合はいつもとおなじく駄菓子の自動販売機の前に立った。
ひとりきりになる狭い通路で、百合の涙腺は決壊しそうになる。
いっそ泣いてしまってもいいのではないか。
そう思いながらまた、歯を食い縛っていた。
泣いてしまったら、自分から悪臭がするということを迎合してしまう気がした。対処できることはしている、なのにどうしようもないなら、もうしかたがない――そんなふうに考えるようにはなりたくなかった。
まだなにかやれることが、なにかあるはずだ。
「……あれ……?」
カバンから財布を取り出し、百合は手の甲で目尻をぬぐった。
――においを感じない。
襟元をつまみ、パタパタと動かしてみる。体温で温まった風が胸元から起こったが、かすかに鼻が嗅ぎ取ったのは、百合が使っているボディソープの甘いかおりだ。
「……え?」
鼻が慣れたのか――襟元を強く引っ張り、百合は鼻先まで服のなかに埋めた。温かい空気があるだけで、事務所で感じたようなにおいはいっさいない。
「どうして?」
手に持っていた財布のことを思い出し、百合はとりあえず買いものをする。心ここにあらず、で適当に選んだ駄菓子はきなこ棒だった。密封されているはずが、手に取ったとたんに香ばしいかおりが立ち上った気がする。
「こんにちはぁ、今日はなににしたの?」
背後から声がかかり、振り返るとほうきを持ったおばさんが立っている。
先代である駄菓子屋のおばあちゃんとそっくりなせいか、彼女と対峙した百合は緊張がゆるゆると解けていった。
「今日は……きなこ棒を」
「いいの選ぶわねぇ。でもさ、おいしいけど、口のなかぱさぱさしちゃうのよね。お茶がほしくならない?」
おばさんが大きな口で笑い、百合はつられて笑顔を浮かべていた。
「お茶だったら、そっちの自動販売機で売ってますよね」
喫煙所のあるほうに戻り、百合はあたたかいお茶を選んで購入する。
「ところで、こんなはやい時間にどうしたの? お昼休み?」
すでに掃除はすんでいるのか、あたりにはゴミひとつ落ちていなかった。
「あ……ちょっと、半休で」
会社のことを思うと、百合の言葉は歯切れが悪くなる。
「そうなの? なにか用事あった? 声かけちゃって悪かったかしら」
「とくに用事があるってわけじゃなくて……」
なにからなにまで話してしまって、いま自分からなにかにおっていないか――それをおばさんに尋ねてしまいたくなっていた。
お茶を口にするついでに、そっと手首を鼻先に近づける。
なんのにおいもしない。
まるで会社でだけ、いやなにおいを放っているようだ――ストレスかなにかで、汗のにおいがおかしくなっているのだろうか。
百合は九泉香料の仕事にとくに不満はない。それどころか、いい就職先を見つけた、と喜んでいたのだ。
残業もほぼなく、有給も取りやすい。上司である九重清巳の人当たりもよく、ミスを起こしても、されるのは指摘であって叱責ではなかった。
警戒していたのは、一族経営の会社だという点のみ。だが入社以降、一存を通すという社長をはじめ、上司の横暴にさらされたこともない。
なにかあるとするなら、今年の夏のさなかに異動が決まったことくらいか。
それは急だともいえたが、新たなデータ室のあるK区内のいくへ町は、百合が楽に通勤できる距離だった。電車に乗っている時間は、せいぜい十分ていど。
それなので百合はかまわない、としか思わなかった――そのときにはもう異臭を感じ取るようになっていて、異動について深く考える時間がなかったのが実際のところでもあるが。
まだ入社して一年と経っていないが、異臭の件が起こるまでとくに不満はなかった。
それまでは芝田たちがひそひそと、小声でなにかささやき交わすこともなかったのだ。彼女たちもいい同僚だった。自分が異臭の根源でもなければ、差し障りのない間柄でいられただろう。
「どうしたの?」
百合の仕草に気がつき、おばさんが自分の手首を鼻のところに持っていく。
「なぁに? なにかあった?」
「あ……香水でもつけたらどうかなって」
返答としては唐突なものだったが、おばさんはとくに気にしていないようだった。
「香水? あんなくさいもんつけてどうするの。つけたいって子には悪いけどさ、あれって、昔お風呂に入れないひとが、においをごまかすのにつけてたんだって聞いたよ」
その話は百合も聞いたことがあった。どこか外国での話だった覚えがある――真偽はわからない。
「まあどっかで聞いた話の受け売りだけどね。あたしらみたいに加齢臭するって歳になっても、こまめにお風呂に入ったらいいんだし。人間汗かいたらにおうもんだよ」
おばさんはするりと近づいてきて、百合に顔を寄せてると鼻をひくつかせた。
深く息を吸いこんでいるその様子に、百合は身を強張らせる――おばさんは百合を見上げ、にこりと笑う。
「まだお姉さん、加齢臭なんてしてないわよ、平気平気」
笑顔ではっきりいわれ、百合の気持ちは軽くなっていた。
気が楽になったとたんに、百合の身体は空腹を思い出した。買ったきなこ棒だけでは足りるはずがない。
「それじゃ、私」
「うん、またよろしくね。気をつけてねぇ」
明るい声に送り出され、百合は喫煙所をあとにしていった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
人質5歳の生存戦略! ―悪役王子はなんとか死ぬ気で生き延びたい!冤罪処刑はほんとムリぃ!―
ほしみ
ファンタジー
「え! ぼく、死ぬの!?」
前世、15歳で人生を終えたぼく。
目が覚めたら異世界の、5歳の王子様!
けど、人質として大国に送られた危ない身分。
そして、夢で思い出してしまった最悪な事実。
「ぼく、このお話知ってる!!」
生まれ変わった先は、小説の中の悪役王子様!?
このままだと、10年後に無実の罪であっさり処刑されちゃう!!
「むりむりむりむり、ぜったいにムリ!!」
生き延びるには、なんとか好感度を稼ぐしかない。
とにかく周りに気を使いまくって!
王子様たちは全力尊重!
侍女さんたちには迷惑かけない!
ひたすら頑張れ、ぼく!
――猶予は後10年。
原作のお話は知ってる――でも、5歳の頭と体じゃうまくいかない!
お菓子に惑わされて、勘違いで空回りして、毎回ドタバタのアタフタのアワアワ。
それでも、ぼくは諦めない。
だって、絶対の絶対に死にたくないからっ!
原作とはちょっと違う王子様たち、なんかびっくりな王様。
健気に奮闘する(ポンコツ)王子と、見守る人たち。
どうにか生き延びたい5才の、ほのぼのコミカル可愛いふわふわ物語。
(全年齢/ほのぼの/男性キャラ中心/嫌なキャラなし/1エピソード完結型/ほぼ毎日更新中)
異世界にやってきたら氷の宰相様が毎日お手製の弁当を持たせてくれる
七瀬京
BL
異世界に召喚された大学生ルイは、この世界を救う「巫覡」として、力を失った宝珠を癒やす役目を与えられる。
だが、異界の食べ物を受けつけない身体に苦しみ、倒れてしまう。
そんな彼を救ったのは、“氷の宰相”と呼ばれる美貌の男・ルースア。
唯一ルイが食べられるのは、彼の手で作られた料理だけ――。
優しさに触れるたび、ルイの胸に芽生える感情は“感謝”か、それとも“恋”か。
穏やかな日々の中で、ふたりの距離は静かに溶け合っていく。
――心と身体を癒やす、年の差主従ファンタジーBL。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる