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1 鼻つまみ うつむく先に 拾う神
1-5 無臭
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自然といつもの道を歩いていた。
しかしいつもと違う時間のためだろう、通行人の数はことさらすくなかった。目的地を定めずに歩いていた百合の足は、自然と元駄菓子屋だった喫煙所にと向かっていた。
腕時計から短いアラームが聞こえる――昼食時だ。
ぼんやりと歩いていた思考が、九泉香料の事務所に戻っていく。
百合が出てきたのだ、いまごろはもう悪臭などどこにもなく、芝田たちはせいせいしたと話しているかもしれない。
そう考えるだけで息苦しくなる。
気を取り直すように、百合はいつもとおなじく駄菓子の自動販売機の前に立った。
ひとりきりになる狭い通路で、百合の涙腺は決壊しそうになる。
いっそ泣いてしまってもいいのではないか。
そう思いながらまた、歯を食い縛っていた。
泣いてしまったら、自分から悪臭がするということを迎合してしまう気がした。対処できることはしている、なのにどうしようもないなら、もうしかたがない――そんなふうに考えるようにはなりたくなかった。
まだなにかやれることが、なにかあるはずだ。
「……あれ……?」
カバンから財布を取り出し、百合は手の甲で目尻をぬぐった。
――においを感じない。
襟元をつまみ、パタパタと動かしてみる。体温で温まった風が胸元から起こったが、かすかに鼻が嗅ぎ取ったのは、百合が使っているボディソープの甘いかおりだ。
「……え?」
鼻が慣れたのか――襟元を強く引っ張り、百合は鼻先まで服のなかに埋めた。温かい空気があるだけで、事務所で感じたようなにおいはいっさいない。
「どうして?」
手に持っていた財布のことを思い出し、百合はとりあえず買いものをする。心ここにあらず、で適当に選んだ駄菓子はきなこ棒だった。密封されているはずが、手に取ったとたんに香ばしいかおりが立ち上った気がする。
「こんにちはぁ、今日はなににしたの?」
背後から声がかかり、振り返るとほうきを持ったおばさんが立っている。
先代である駄菓子屋のおばあちゃんとそっくりなせいか、彼女と対峙した百合は緊張がゆるゆると解けていった。
「今日は……きなこ棒を」
「いいの選ぶわねぇ。でもさ、おいしいけど、口のなかぱさぱさしちゃうのよね。お茶がほしくならない?」
おばさんが大きな口で笑い、百合はつられて笑顔を浮かべていた。
「お茶だったら、そっちの自動販売機で売ってますよね」
喫煙所のあるほうに戻り、百合はあたたかいお茶を選んで購入する。
「ところで、こんなはやい時間にどうしたの? お昼休み?」
すでに掃除はすんでいるのか、あたりにはゴミひとつ落ちていなかった。
「あ……ちょっと、半休で」
会社のことを思うと、百合の言葉は歯切れが悪くなる。
「そうなの? なにか用事あった? 声かけちゃって悪かったかしら」
「とくに用事があるってわけじゃなくて……」
なにからなにまで話してしまって、いま自分からなにかにおっていないか――それをおばさんに尋ねてしまいたくなっていた。
お茶を口にするついでに、そっと手首を鼻先に近づける。
なんのにおいもしない。
まるで会社でだけ、いやなにおいを放っているようだ――ストレスかなにかで、汗のにおいがおかしくなっているのだろうか。
百合は九泉香料の仕事にとくに不満はない。それどころか、いい就職先を見つけた、と喜んでいたのだ。
残業もほぼなく、有給も取りやすい。上司である九重清巳の人当たりもよく、ミスを起こしても、されるのは指摘であって叱責ではなかった。
警戒していたのは、一族経営の会社だという点のみ。だが入社以降、一存を通すという社長をはじめ、上司の横暴にさらされたこともない。
なにかあるとするなら、今年の夏のさなかに異動が決まったことくらいか。
それは急だともいえたが、新たなデータ室のあるK区内のいくへ町は、百合が楽に通勤できる距離だった。電車に乗っている時間は、せいぜい十分ていど。
それなので百合はかまわない、としか思わなかった――そのときにはもう異臭を感じ取るようになっていて、異動について深く考える時間がなかったのが実際のところでもあるが。
まだ入社して一年と経っていないが、異臭の件が起こるまでとくに不満はなかった。
それまでは芝田たちがひそひそと、小声でなにかささやき交わすこともなかったのだ。彼女たちもいい同僚だった。自分が異臭の根源でもなければ、差し障りのない間柄でいられただろう。
「どうしたの?」
百合の仕草に気がつき、おばさんが自分の手首を鼻のところに持っていく。
「なぁに? なにかあった?」
「あ……香水でもつけたらどうかなって」
返答としては唐突なものだったが、おばさんはとくに気にしていないようだった。
「香水? あんなくさいもんつけてどうするの。つけたいって子には悪いけどさ、あれって、昔お風呂に入れないひとが、においをごまかすのにつけてたんだって聞いたよ」
その話は百合も聞いたことがあった。どこか外国での話だった覚えがある――真偽はわからない。
「まあどっかで聞いた話の受け売りだけどね。あたしらみたいに加齢臭するって歳になっても、こまめにお風呂に入ったらいいんだし。人間汗かいたらにおうもんだよ」
おばさんはするりと近づいてきて、百合に顔を寄せてると鼻をひくつかせた。
深く息を吸いこんでいるその様子に、百合は身を強張らせる――おばさんは百合を見上げ、にこりと笑う。
「まだお姉さん、加齢臭なんてしてないわよ、平気平気」
笑顔ではっきりいわれ、百合の気持ちは軽くなっていた。
気が楽になったとたんに、百合の身体は空腹を思い出した。買ったきなこ棒だけでは足りるはずがない。
「それじゃ、私」
「うん、またよろしくね。気をつけてねぇ」
明るい声に送り出され、百合は喫煙所をあとにしていった。
しかしいつもと違う時間のためだろう、通行人の数はことさらすくなかった。目的地を定めずに歩いていた百合の足は、自然と元駄菓子屋だった喫煙所にと向かっていた。
腕時計から短いアラームが聞こえる――昼食時だ。
ぼんやりと歩いていた思考が、九泉香料の事務所に戻っていく。
百合が出てきたのだ、いまごろはもう悪臭などどこにもなく、芝田たちはせいせいしたと話しているかもしれない。
そう考えるだけで息苦しくなる。
気を取り直すように、百合はいつもとおなじく駄菓子の自動販売機の前に立った。
ひとりきりになる狭い通路で、百合の涙腺は決壊しそうになる。
いっそ泣いてしまってもいいのではないか。
そう思いながらまた、歯を食い縛っていた。
泣いてしまったら、自分から悪臭がするということを迎合してしまう気がした。対処できることはしている、なのにどうしようもないなら、もうしかたがない――そんなふうに考えるようにはなりたくなかった。
まだなにかやれることが、なにかあるはずだ。
「……あれ……?」
カバンから財布を取り出し、百合は手の甲で目尻をぬぐった。
――においを感じない。
襟元をつまみ、パタパタと動かしてみる。体温で温まった風が胸元から起こったが、かすかに鼻が嗅ぎ取ったのは、百合が使っているボディソープの甘いかおりだ。
「……え?」
鼻が慣れたのか――襟元を強く引っ張り、百合は鼻先まで服のなかに埋めた。温かい空気があるだけで、事務所で感じたようなにおいはいっさいない。
「どうして?」
手に持っていた財布のことを思い出し、百合はとりあえず買いものをする。心ここにあらず、で適当に選んだ駄菓子はきなこ棒だった。密封されているはずが、手に取ったとたんに香ばしいかおりが立ち上った気がする。
「こんにちはぁ、今日はなににしたの?」
背後から声がかかり、振り返るとほうきを持ったおばさんが立っている。
先代である駄菓子屋のおばあちゃんとそっくりなせいか、彼女と対峙した百合は緊張がゆるゆると解けていった。
「今日は……きなこ棒を」
「いいの選ぶわねぇ。でもさ、おいしいけど、口のなかぱさぱさしちゃうのよね。お茶がほしくならない?」
おばさんが大きな口で笑い、百合はつられて笑顔を浮かべていた。
「お茶だったら、そっちの自動販売機で売ってますよね」
喫煙所のあるほうに戻り、百合はあたたかいお茶を選んで購入する。
「ところで、こんなはやい時間にどうしたの? お昼休み?」
すでに掃除はすんでいるのか、あたりにはゴミひとつ落ちていなかった。
「あ……ちょっと、半休で」
会社のことを思うと、百合の言葉は歯切れが悪くなる。
「そうなの? なにか用事あった? 声かけちゃって悪かったかしら」
「とくに用事があるってわけじゃなくて……」
なにからなにまで話してしまって、いま自分からなにかにおっていないか――それをおばさんに尋ねてしまいたくなっていた。
お茶を口にするついでに、そっと手首を鼻先に近づける。
なんのにおいもしない。
まるで会社でだけ、いやなにおいを放っているようだ――ストレスかなにかで、汗のにおいがおかしくなっているのだろうか。
百合は九泉香料の仕事にとくに不満はない。それどころか、いい就職先を見つけた、と喜んでいたのだ。
残業もほぼなく、有給も取りやすい。上司である九重清巳の人当たりもよく、ミスを起こしても、されるのは指摘であって叱責ではなかった。
警戒していたのは、一族経営の会社だという点のみ。だが入社以降、一存を通すという社長をはじめ、上司の横暴にさらされたこともない。
なにかあるとするなら、今年の夏のさなかに異動が決まったことくらいか。
それは急だともいえたが、新たなデータ室のあるK区内のいくへ町は、百合が楽に通勤できる距離だった。電車に乗っている時間は、せいぜい十分ていど。
それなので百合はかまわない、としか思わなかった――そのときにはもう異臭を感じ取るようになっていて、異動について深く考える時間がなかったのが実際のところでもあるが。
まだ入社して一年と経っていないが、異臭の件が起こるまでとくに不満はなかった。
それまでは芝田たちがひそひそと、小声でなにかささやき交わすこともなかったのだ。彼女たちもいい同僚だった。自分が異臭の根源でもなければ、差し障りのない間柄でいられただろう。
「どうしたの?」
百合の仕草に気がつき、おばさんが自分の手首を鼻のところに持っていく。
「なぁに? なにかあった?」
「あ……香水でもつけたらどうかなって」
返答としては唐突なものだったが、おばさんはとくに気にしていないようだった。
「香水? あんなくさいもんつけてどうするの。つけたいって子には悪いけどさ、あれって、昔お風呂に入れないひとが、においをごまかすのにつけてたんだって聞いたよ」
その話は百合も聞いたことがあった。どこか外国での話だった覚えがある――真偽はわからない。
「まあどっかで聞いた話の受け売りだけどね。あたしらみたいに加齢臭するって歳になっても、こまめにお風呂に入ったらいいんだし。人間汗かいたらにおうもんだよ」
おばさんはするりと近づいてきて、百合に顔を寄せてると鼻をひくつかせた。
深く息を吸いこんでいるその様子に、百合は身を強張らせる――おばさんは百合を見上げ、にこりと笑う。
「まだお姉さん、加齢臭なんてしてないわよ、平気平気」
笑顔ではっきりいわれ、百合の気持ちは軽くなっていた。
気が楽になったとたんに、百合の身体は空腹を思い出した。買ったきなこ棒だけでは足りるはずがない。
「それじゃ、私」
「うん、またよろしくね。気をつけてねぇ」
明るい声に送り出され、百合は喫煙所をあとにしていった。
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