かぐわしいかな、黄泉路の薫香 ~どうにか仕事に慣れたけど どうかしてると思います!

日野

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2 お引っ越し 今度の上司とあやしい背中

2-2 はじめまして

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「九重さん、お茶持っていきます」
 清巳で、といわれた矢先でも、つい百合は姓で呼んでしまっていた。
 小境に続いて事務所を出るとき、彼女と一緒にならないよう歩調を緩める。
 静かな廊下の先を歩く小境の背中が、エレベーター前で止まった。
 その手前にある給湯室に百合は入る。
 視野で小境の身体は、ずっと百合に背中を見せていた。それをまるで拒絶されているようだと感じている。
 給湯室の冷蔵庫の戸を開け、百合はため息をついた。小境――以前は細々と声をかけてくれるひとだったのだ。世間話でさえ最近は交わしていない。
 異臭が起こり距離を置かれるようになって、ずっと百合は会社で気を張っている状態になっている。
 エレベーターが到着する音が響いた。
 小境が乗りこむ音に耳をそばだて、静かになったのを見計らってから、百合は冷茶のお盆を手に事務所に戻った。
 始業と同時に訪れた九重功巳を待たせてしまっている。
 異動先はデータ室と聞いているが、ちいさなデータセンターを兼ねたサポートセンターはべつにあった。各部署の横のつながりも乏しく、くわしい仕事については知らされていない。場所についても知っているのは住所のみで、現地を訪れたことはなかった。
 お盆の上の冷茶に、百合は目を落とす。
 異動とはいえ、まったく知らない別会社に就職するようではないか。
 いまさらだが百合はそう思い、よけいに気が重くなっていた。
 データ室の九重功巳は、百合とドア一枚隔てた応接室にいる。
 お茶を持っていき挨拶をする――これからおこなわれるのは、まるで面接のようだ。
 にわかに緊張しはじめた百合は、片手にお盆を持ち襟元を正した。
 ふわりとまたにおいが漂った。
 思わず片手で喉元をあおぐようにすると、「におい自覚あるんだ」とちいさな声が背中に聞こえ、百合はぎくりと身を強ばらせる。
 芝田の声にこたえる言葉を百合は持っていない。
 それこそ逃げるように、百合は応接室のドアをノックした。
「失礼します」
 ドアの向こうから、ぼそりと声がした。なんといっていたか聞き取れず、尋ね返すことは毛の先ほども考えず、百合はドアを開けた。
 そこにはドアに背を向けて立つ人影があった。
 応接セットのソファを挟んだその背中は、先ほど目にした老いたものには見えなかった。はめ殺しの窓の外を眺めているのか、彼が百合のほうを向く気配はない。
 かっちりとした広いジャケットと、色素の薄い髪を目にした百合は、その視野に妙な違和感を覚えて目をこすった。
「……え」
 かすかな声が漏れる。
 目をこすっただけの間に、窓の前に立っていた背中は消えている。
「ああ、ありがとう」
 代わりに、窓を背後にしたソファに、鳥打ち帽を被った男――九重功巳がすわっていた。
「冷茶をリクエストしたんだけど、手間だったでしょ。ごめんね」
 百合のほうに手を差し伸べてくる。あわてて百合はテーブルに冷茶のグラスとポットを用意した。
 窓に目を配り、百合はさっそくグラスに口をつける功巳に尋ねる。
「あの、お連れの方は……グラスをお持ちします」
 床にしゃがめば、ソファの後ろに隠れられないこともない。
 百合はいやな汗をかいていた。
 ――しゃがんで隠れる意味が、まったく思いつかなかった。
「今日は僕ひとりですよ。これあなたが煎れたんですか? おいしいねぇ、いいじゃない」
 うれしそうにグラスをかたむける功巳の後方を、百合はどうしてもうかがわずにいられない。
 確かにそこにいた。
 功巳の身に着けたグレーの背広と違い、紺の背広だった。襟足にかかる髪の色味も覚えているのだ。
 鼻先をうっすらとしたかおりが通り抜ける。
 かすめるようなそれは、清涼感のある甘いかおりだ。出所を探したくなったが、来客の前でそれは失礼だろう。
 応接室のドアが叩かれ、九重清巳が入ってくる。
「お待たせしました。如月さん、どうぞかけて――功巳さん、こちらが如月百合さん。来月からそちらに」
「ああ、ありがとう」
 代わりに、窓を背後にしたソファに、鳥打ち帽を被った男――九重功巳がすわっていた。
「冷茶をリクエストしたんだけど、手間だったでしょ。ごめんね」
 百合のほうに手を差し伸べてくる。あわてて百合はテーブルに冷茶のグラスとポットを用意した。
 窓に目を配り、百合はさっそくグラスに口をつける功巳に尋ねる。
「あの、お連れの方は……グラスをお持ちします」
 床にしゃがめば、ソファの後ろに隠れられないこともない。
 百合はいやな汗をかいていた。
 ――しゃがんで隠れる意味が、まったく思いつかなかった。
「今日は僕ひとりですよ。これあなたが煎れたんですか? おいしいねぇ、いいじゃない」
 うれしそうにグラスをかたむける功巳の後方を、百合はどうしてもうかがわずにいられない。
 確かにそこにいた。
 老人の身に着けたグレーの背広と違い、紺の背広だった。襟足にかかる髪の色味も覚えているのだ。
 応接室のドアが叩かれ、九重清巳が入ってくる。
「お待たせしました。如月さん、どうぞかけて――功巳さん、こちらが如月百合さん。来月からそちらに」
「はいはい。僕は出勤を三十分遅くしてるから、その間に冷たいお茶お願いしますね。だからねぇ、今日はいつもよりはやく動いてるんですよ、昔から清巳は早起きが得意だけど、僕はあんまり得意じゃなくって」
「功巳さん、無駄話はいいです。資料もなにも持ってきてないんですか?」
 百合は清巳に続き、彼のとなりに腰を下ろす。
 向かいの席にすわる功巳に対し、彼が責めるような声を発したことに驚いていた。清巳がそのような声を出すのを聴くのははじめてなのだ。
「どうせ異動したらこっちで働くんだし、そのとき覚えていけばいいでしょ。いまから気を揉んだりしたら面倒だよ」
「なにいってるんです、事前情報なしじゃ不安なこともあるでしょう」
 そうか、百合は思い当たった。この苛立ちを孕んだ声は、同僚というよりも、親戚のおじさんに向けられるものなのだ。
 ただ顔を出しにきただけらしい功巳は、終始にこにこ顔だった。ポットに入っていた冷茶を空にしていく。
「如月さんにお願いする仕事は、こちらと大差ないと思ってください。電話対応とか接客とか。いきなり無理をお願いすることはないです。なにかあるときはかならず説明します。そうですよね?」
「うん、そうだね。大丈夫だよ」
 はっきりしない清巳の説明のなか、功巳はただうなずいている。
「なにか訊いておきたいことがあれば。会社のまわりね、最近新しくご飯食べられる店できてるから、お昼は外食でもお弁当でも好きなほうで」
「あ、はい……データ室だそうですが、いまあるデータセンターのサポートのような場所ですか?」
 グラスに残った冷茶を飲み干す功巳に代わり、清巳がため息をついてから口を開いた。
「顧客とのものではなく、製造のほうに絡んでいく部署です。そうですよね、功巳さん」
「うん、そうだね」
「いままで小規模展開だったものを、ちょっと手広く扱おうっていう話が出て、その準備をしている段階なんです。が、準備をするのはこの功巳さんなので、如月さんはその手伝いで――わかってますね、功巳さん」
「……べつにね、僕じゃなくて如月さんができるなら、それでいいと思うよ」
「うちは残業なしがモットーですよ」
「ううん……残業して稼ぎたいってこともあるんじゃない? 巳登里のとこに、そういう若い子いるでしょ」
「経営者がちゃんと分配すれば、残業なしでも稼げます。功巳さんはもっと働いてください」
 清巳の目元が険しくなっていく。
 百合はおずおずと手を上げた。
「あ、あの、今度異動するところは……従業員は何人くらいいらっしゃるんですか」
「僕と如月さんのふたりだよ」
「え……」
「僕が自分で冷たいお茶煎れようとすると、どうしてか濁るんだよねぇ。こういう透明の、全然つくれないんだ」
 空のグラスのふちをなぞり、功巳は目尻を下げる。
「真冬でも冷たいお茶でいいからね、部屋は暖房つけるんだし」
「……功巳さん、仕事の話を」
「だって電話の引き継ぎしてもらったり、資料つくってもらうのはこことおなじじゃない? 忙しくなったらひとだって増やすだろうし、まあ気負わないでちょうだい」
 仕事への気構えができることはなく、ぼんやりとこのひとと一緒の事務所か、と百合は空のグラスとポットに目をやる。
 確実なこととして、異動したら百合は毎朝冷茶を用意するのだろう。場合によっては、一日に数回かもしれない。
 息をつき、はたと気がつく。
 自分からなんのにおいも漂っていなかった。
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