かぐわしいかな、黄泉路の薫香 ~どうにか仕事に慣れたけど どうかしてると思います!

日野

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2 お引っ越し 今度の上司とあやしい背中

2-1 その朝が

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 朝から窓は開いていて、事務所の空気は清々しいものだった。
「昨日は急に早退してすみませんでした」
 すでに事務所に入っていた芝田に頭を下げたが、彼女は百合と目を合わせなかった。
「無理しないでください」
「はい、ありがとうございます」
 もう一度頭を下げた百合の鼻は、いやなにおいを嗅ぎ取っていた。
 昨日から百合はずっと気をつけて過ごしていた。
 自分からなにかにおっていないか用心し、むしろシャワーはやたらに浴びることをせず、出勤前まで避けていた。
 自室で過ごす間、汗や衣料用洗剤の甘いかおりは漂うものの、それ以外のものはなかった。手近なビニール袋を周囲の空気でふくらませ、そのにおいを嗅ぐような真似までしたが、とくになにも感じ取れなかった。
 シャワーを浴びていなくても、社内で感じるようなにおいを一度も嗅がなかった。
 これまでは我に返るときのように、急ににおいに気がつくことが多かった。
 においを感じるようになった初夏から最近まで、会社から帰宅するなりすぐにシャワーを使っていた。だから自室では異臭を感じることはすくなかった――感じたこともあったが、においの根源を追うことのできないかすかなものばかり。
 あれは実際ににおっていたというより、気にしすぎた百合がにおいを思い出していたものかもしれない。
 会社にいるときににおいが漂う、というのは、あながち間違いではないようだ。
 芝田は早々に百合から距離を取っており、出勤してきた小境とともにどこかに消えている。
 給湯室だろうか。ふたりが自分のことでなにか話すのではないか――胸が重くなっていくが、百合は気を取り直して自分の机に腰を下ろした。
 ノートパソコンを開くと、キーボードの上にメモがあった。
 丁寧な文字の末尾に、九重の判子が押してある。
 ――『体調を崩されたようでしたが、どうか無理はしないでください。本日データ室の担当者が挨拶にきます。もし出勤していたら、お手数ですが冷茶を用意しておいてください。猫舌の方です』。
 データ室、とあって百合は腰を上げた。
 百合の移動先である。そこの室長も清巳同様に九重という姓で、下の名は知らなかった。
 給湯室に向かうと、そこは無人だった。冷茶の支度をする背中で、百合は幾人かの話し声を聞いた。
 手洗いのほうから聞こえる声は芝田と小境のものだろう。
 ほかの声ははじめて聞くものだ。おなじフロアにはほかの会社は入っていない。よその階の社員が手洗いを借りにくることはあるが、それとも違うようだ――耳だけで声を追った。
 百合はそれらが九泉香料のドアを開け、入っていったように感じていた。
「……ひとりじゃない?」
 声が複数のものだったことで、手元の冷茶が足りなくなる可能性に百合は思い当たっていた。室長以外にもデータ室のメンバーがくるのかもしれない。
 腕時計のアラームが短く鳴る。
「足りないときは、まあそのときで」
 冷蔵庫に冷茶をしまい、戻った事務所にはすでに来客の姿があった。
 資料室へのドアの横、応接室のドアがある。
 そこにほそい身体つきをした、グレーの背広に鳥打ち帽という出で立ちの初老の男が入っていくところだった。
 ばたりと閉められたドアの先は、観葉植物と応接セットだけの部屋だ。
 百合から異臭がするまでは、そこで昼時に全員で弁当を食べることもあった。残念ながらもうはそれはない。応接室の窓ははめ殺しで開かないようになっているため、換気もままならないのだ。
 給湯室で百合は、たくさんのひとがぞろぞろと移動しているような気配や声を聞いていた。
 だが見かけたのはひとり、九重室長とあわせてもふたりだ。
 これまで意識したことはなかったが、ビルの廊下は音が響くようだった。ひとの往来がわかるのは防犯からすれば便利か――そんなことを考えていると、芝田と小境が事務所に戻ってきた。
「……九重さんは?」
 尋ねてきた小境は、言葉を発する前に口で大きく息を吸っていた。そんなことをさせて申しわけないという気持ちと、悪臭がするのはここでだけなのにという気持ちが、同時に胸にわいた。両方とも素直な気持ちだ。
「お客さまと応接室に」
 こたえるなり始業のベルが鳴り、応接室の扉が開いた。
 顔を見せた九重室長は、手に大きく分厚い封筒を持っていた。
「おはようございます。今日はデータ室の九重功巳ここのえいさみさんがいらしてます」
 朝礼がはじまった。いつも朝の挨拶と軽くその日の予定報告がある。
「みんなの耳には入ってると思いますが、来月に如月さんがデータ室に異動になります。それとべつに、じつは年内に三階にある営業部に合併しないかって話もあって」
「じゃあこっちがあっちに、引っ越しですか?」
 芝田の声に九重はうなずいた。
「そうだね。あっちの九重も乗り気になってますから、はやくて年内、おそくて年明けですかね」
 あっち――営業部の九重は女性である。九重巳登里ここのえみどり、新年会などで顔を合わせるていどのやり取りだが、人当たりのいい四十路くらいのひとだった。
「みんな九重さんだし、呼び方困りそう」
 小境がいうと、芝田が指を階下に向けた。
「あっち、下の名前で呼んでるんですよ、九重さんがどの部署にもいるから」
「そうなんだ。それじゃ名前で呼んでも……」
 話の矛先が自分に向き、九重は一目で了解とわかる笑みを浮かべた。
「私はかまいませんよ、清巳で呼んでいただいても。それで小境さん、これ三階に持っていってもらっていいですか。お使いをお願いします、巳登里さんに直接渡してください」
「わかりました」
「では本日もよろしくお願いします」
 低い声とともに九重――清巳が礼をし、業務が開始となった。
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