8 / 48
2 お引っ越し 今度の上司とあやしい背中
2-1 その朝が
しおりを挟む
朝から窓は開いていて、事務所の空気は清々しいものだった。
「昨日は急に早退してすみませんでした」
すでに事務所に入っていた芝田に頭を下げたが、彼女は百合と目を合わせなかった。
「無理しないでください」
「はい、ありがとうございます」
もう一度頭を下げた百合の鼻は、いやなにおいを嗅ぎ取っていた。
昨日から百合はずっと気をつけて過ごしていた。
自分からなにかにおっていないか用心し、むしろシャワーはやたらに浴びることをせず、出勤前まで避けていた。
自室で過ごす間、汗や衣料用洗剤の甘いかおりは漂うものの、それ以外のものはなかった。手近なビニール袋を周囲の空気でふくらませ、そのにおいを嗅ぐような真似までしたが、とくになにも感じ取れなかった。
シャワーを浴びていなくても、社内で感じるようなにおいを一度も嗅がなかった。
これまでは我に返るときのように、急ににおいに気がつくことが多かった。
においを感じるようになった初夏から最近まで、会社から帰宅するなりすぐにシャワーを使っていた。だから自室では異臭を感じることはすくなかった――感じたこともあったが、においの根源を追うことのできないかすかなものばかり。
あれは実際ににおっていたというより、気にしすぎた百合がにおいを思い出していたものかもしれない。
会社にいるときににおいが漂う、というのは、あながち間違いではないようだ。
芝田は早々に百合から距離を取っており、出勤してきた小境とともにどこかに消えている。
給湯室だろうか。ふたりが自分のことでなにか話すのではないか――胸が重くなっていくが、百合は気を取り直して自分の机に腰を下ろした。
ノートパソコンを開くと、キーボードの上にメモがあった。
丁寧な文字の末尾に、九重の判子が押してある。
――『体調を崩されたようでしたが、どうか無理はしないでください。本日データ室の担当者が挨拶にきます。もし出勤していたら、お手数ですが冷茶を用意しておいてください。猫舌の方です』。
データ室、とあって百合は腰を上げた。
百合の移動先である。そこの室長も清巳同様に九重という姓で、下の名は知らなかった。
給湯室に向かうと、そこは無人だった。冷茶の支度をする背中で、百合は幾人かの話し声を聞いた。
手洗いのほうから聞こえる声は芝田と小境のものだろう。
ほかの声ははじめて聞くものだ。おなじフロアにはほかの会社は入っていない。よその階の社員が手洗いを借りにくることはあるが、それとも違うようだ――耳だけで声を追った。
百合はそれらが九泉香料のドアを開け、入っていったように感じていた。
「……ひとりじゃない?」
声が複数のものだったことで、手元の冷茶が足りなくなる可能性に百合は思い当たっていた。室長以外にもデータ室のメンバーがくるのかもしれない。
腕時計のアラームが短く鳴る。
「足りないときは、まあそのときで」
冷蔵庫に冷茶をしまい、戻った事務所にはすでに来客の姿があった。
資料室へのドアの横、応接室のドアがある。
そこにほそい身体つきをした、グレーの背広に鳥打ち帽という出で立ちの初老の男が入っていくところだった。
ばたりと閉められたドアの先は、観葉植物と応接セットだけの部屋だ。
百合から異臭がするまでは、そこで昼時に全員で弁当を食べることもあった。残念ながらもうはそれはない。応接室の窓ははめ殺しで開かないようになっているため、換気もままならないのだ。
給湯室で百合は、たくさんのひとがぞろぞろと移動しているような気配や声を聞いていた。
だが見かけたのはひとり、九重室長とあわせてもふたりだ。
これまで意識したことはなかったが、ビルの廊下は音が響くようだった。ひとの往来がわかるのは防犯からすれば便利か――そんなことを考えていると、芝田と小境が事務所に戻ってきた。
「……九重さんは?」
尋ねてきた小境は、言葉を発する前に口で大きく息を吸っていた。そんなことをさせて申しわけないという気持ちと、悪臭がするのはここでだけなのにという気持ちが、同時に胸にわいた。両方とも素直な気持ちだ。
「お客さまと応接室に」
こたえるなり始業のベルが鳴り、応接室の扉が開いた。
顔を見せた九重室長は、手に大きく分厚い封筒を持っていた。
「おはようございます。今日はデータ室の九重功巳さんがいらしてます」
朝礼がはじまった。いつも朝の挨拶と軽くその日の予定報告がある。
「みんなの耳には入ってると思いますが、来月に如月さんがデータ室に異動になります。それとべつに、じつは年内に三階にある営業部に合併しないかって話もあって」
「じゃあこっちがあっちに、引っ越しですか?」
芝田の声に九重はうなずいた。
「そうだね。あっちの九重も乗り気になってますから、はやくて年内、おそくて年明けですかね」
あっち――営業部の九重は女性である。九重巳登里、新年会などで顔を合わせるていどのやり取りだが、人当たりのいい四十路くらいのひとだった。
「みんな九重さんだし、呼び方困りそう」
小境がいうと、芝田が指を階下に向けた。
「あっち、下の名前で呼んでるんですよ、九重さんがどの部署にもいるから」
「そうなんだ。それじゃ名前で呼んでも……」
話の矛先が自分に向き、九重は一目で了解とわかる笑みを浮かべた。
「私はかまいませんよ、清巳で呼んでいただいても。それで小境さん、これ三階に持っていってもらっていいですか。お使いをお願いします、巳登里さんに直接渡してください」
「わかりました」
「では本日もよろしくお願いします」
低い声とともに九重――清巳が礼をし、業務が開始となった。
「昨日は急に早退してすみませんでした」
すでに事務所に入っていた芝田に頭を下げたが、彼女は百合と目を合わせなかった。
「無理しないでください」
「はい、ありがとうございます」
もう一度頭を下げた百合の鼻は、いやなにおいを嗅ぎ取っていた。
昨日から百合はずっと気をつけて過ごしていた。
自分からなにかにおっていないか用心し、むしろシャワーはやたらに浴びることをせず、出勤前まで避けていた。
自室で過ごす間、汗や衣料用洗剤の甘いかおりは漂うものの、それ以外のものはなかった。手近なビニール袋を周囲の空気でふくらませ、そのにおいを嗅ぐような真似までしたが、とくになにも感じ取れなかった。
シャワーを浴びていなくても、社内で感じるようなにおいを一度も嗅がなかった。
これまでは我に返るときのように、急ににおいに気がつくことが多かった。
においを感じるようになった初夏から最近まで、会社から帰宅するなりすぐにシャワーを使っていた。だから自室では異臭を感じることはすくなかった――感じたこともあったが、においの根源を追うことのできないかすかなものばかり。
あれは実際ににおっていたというより、気にしすぎた百合がにおいを思い出していたものかもしれない。
会社にいるときににおいが漂う、というのは、あながち間違いではないようだ。
芝田は早々に百合から距離を取っており、出勤してきた小境とともにどこかに消えている。
給湯室だろうか。ふたりが自分のことでなにか話すのではないか――胸が重くなっていくが、百合は気を取り直して自分の机に腰を下ろした。
ノートパソコンを開くと、キーボードの上にメモがあった。
丁寧な文字の末尾に、九重の判子が押してある。
――『体調を崩されたようでしたが、どうか無理はしないでください。本日データ室の担当者が挨拶にきます。もし出勤していたら、お手数ですが冷茶を用意しておいてください。猫舌の方です』。
データ室、とあって百合は腰を上げた。
百合の移動先である。そこの室長も清巳同様に九重という姓で、下の名は知らなかった。
給湯室に向かうと、そこは無人だった。冷茶の支度をする背中で、百合は幾人かの話し声を聞いた。
手洗いのほうから聞こえる声は芝田と小境のものだろう。
ほかの声ははじめて聞くものだ。おなじフロアにはほかの会社は入っていない。よその階の社員が手洗いを借りにくることはあるが、それとも違うようだ――耳だけで声を追った。
百合はそれらが九泉香料のドアを開け、入っていったように感じていた。
「……ひとりじゃない?」
声が複数のものだったことで、手元の冷茶が足りなくなる可能性に百合は思い当たっていた。室長以外にもデータ室のメンバーがくるのかもしれない。
腕時計のアラームが短く鳴る。
「足りないときは、まあそのときで」
冷蔵庫に冷茶をしまい、戻った事務所にはすでに来客の姿があった。
資料室へのドアの横、応接室のドアがある。
そこにほそい身体つきをした、グレーの背広に鳥打ち帽という出で立ちの初老の男が入っていくところだった。
ばたりと閉められたドアの先は、観葉植物と応接セットだけの部屋だ。
百合から異臭がするまでは、そこで昼時に全員で弁当を食べることもあった。残念ながらもうはそれはない。応接室の窓ははめ殺しで開かないようになっているため、換気もままならないのだ。
給湯室で百合は、たくさんのひとがぞろぞろと移動しているような気配や声を聞いていた。
だが見かけたのはひとり、九重室長とあわせてもふたりだ。
これまで意識したことはなかったが、ビルの廊下は音が響くようだった。ひとの往来がわかるのは防犯からすれば便利か――そんなことを考えていると、芝田と小境が事務所に戻ってきた。
「……九重さんは?」
尋ねてきた小境は、言葉を発する前に口で大きく息を吸っていた。そんなことをさせて申しわけないという気持ちと、悪臭がするのはここでだけなのにという気持ちが、同時に胸にわいた。両方とも素直な気持ちだ。
「お客さまと応接室に」
こたえるなり始業のベルが鳴り、応接室の扉が開いた。
顔を見せた九重室長は、手に大きく分厚い封筒を持っていた。
「おはようございます。今日はデータ室の九重功巳さんがいらしてます」
朝礼がはじまった。いつも朝の挨拶と軽くその日の予定報告がある。
「みんなの耳には入ってると思いますが、来月に如月さんがデータ室に異動になります。それとべつに、じつは年内に三階にある営業部に合併しないかって話もあって」
「じゃあこっちがあっちに、引っ越しですか?」
芝田の声に九重はうなずいた。
「そうだね。あっちの九重も乗り気になってますから、はやくて年内、おそくて年明けですかね」
あっち――営業部の九重は女性である。九重巳登里、新年会などで顔を合わせるていどのやり取りだが、人当たりのいい四十路くらいのひとだった。
「みんな九重さんだし、呼び方困りそう」
小境がいうと、芝田が指を階下に向けた。
「あっち、下の名前で呼んでるんですよ、九重さんがどの部署にもいるから」
「そうなんだ。それじゃ名前で呼んでも……」
話の矛先が自分に向き、九重は一目で了解とわかる笑みを浮かべた。
「私はかまいませんよ、清巳で呼んでいただいても。それで小境さん、これ三階に持っていってもらっていいですか。お使いをお願いします、巳登里さんに直接渡してください」
「わかりました」
「では本日もよろしくお願いします」
低い声とともに九重――清巳が礼をし、業務が開始となった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
異世界にやってきたら氷の宰相様が毎日お手製の弁当を持たせてくれる
七瀬京
BL
異世界に召喚された大学生ルイは、この世界を救う「巫覡」として、力を失った宝珠を癒やす役目を与えられる。
だが、異界の食べ物を受けつけない身体に苦しみ、倒れてしまう。
そんな彼を救ったのは、“氷の宰相”と呼ばれる美貌の男・ルースア。
唯一ルイが食べられるのは、彼の手で作られた料理だけ――。
優しさに触れるたび、ルイの胸に芽生える感情は“感謝”か、それとも“恋”か。
穏やかな日々の中で、ふたりの距離は静かに溶け合っていく。
――心と身体を癒やす、年の差主従ファンタジーBL。
人質5歳の生存戦略! ―悪役王子はなんとか死ぬ気で生き延びたい!冤罪処刑はほんとムリぃ!―
ほしみ
ファンタジー
「え! ぼく、死ぬの!?」
前世、15歳で人生を終えたぼく。
目が覚めたら異世界の、5歳の王子様!
けど、人質として大国に送られた危ない身分。
そして、夢で思い出してしまった最悪な事実。
「ぼく、このお話知ってる!!」
生まれ変わった先は、小説の中の悪役王子様!?
このままだと、10年後に無実の罪であっさり処刑されちゃう!!
「むりむりむりむり、ぜったいにムリ!!」
生き延びるには、なんとか好感度を稼ぐしかない。
とにかく周りに気を使いまくって!
王子様たちは全力尊重!
侍女さんたちには迷惑かけない!
ひたすら頑張れ、ぼく!
――猶予は後10年。
原作のお話は知ってる――でも、5歳の頭と体じゃうまくいかない!
お菓子に惑わされて、勘違いで空回りして、毎回ドタバタのアタフタのアワアワ。
それでも、ぼくは諦めない。
だって、絶対の絶対に死にたくないからっ!
原作とはちょっと違う王子様たち、なんかびっくりな王様。
健気に奮闘する(ポンコツ)王子と、見守る人たち。
どうにか生き延びたい5才の、ほのぼのコミカル可愛いふわふわ物語。
(全年齢/ほのぼの/男性キャラ中心/嫌なキャラなし/1エピソード完結型/ほぼ毎日更新中)
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる