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2 お引っ越し 今度の上司とあやしい背中
2-4 そこから漂う
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百合ののどは、かすれた声を絞り出していた。
「うん、験担ぎみたいなもんだよ、かおりって魔除けにしたりもすることあるんだよ。そういうの興味ある? 神無月って神さまたちが……なんていうか、実家に帰省しちゃうんのね、全員。そうなるとさ、御利益をくれる神さまもいないし、それこそ守ってくれる神さまもいないってことになる。そんなところに異動っていうのもねぇ」
男がカレンダーから手を離した。その手は健康的に日焼けしている。
はらりと九月のページが落ちていく。
百合は九重の男性たちを横目にした。
彼らはカレンダーのほうを向いているが、これといっておかしなものに対峙している態度ではなかった。
――見えていない?
「まあ、僕のほうはいつからでもいいから、清巳で調整してくれる? 如月さんの都合もあるでしょうし」
「わかりました。これからひとが増えるんですから、しっかりしてくださいね」
はいはい、と気のない返事をし、功巳は腰を上げた。
そちらに気を取られた一瞬に、背広の男性は消え失せている。
目の錯覚か。
錯覚であってほしい。
百合の胸は、きつく押さえつけられたように苦しくなっていた。呼吸が苦しい。見えないけれど、まだどこかにいるのではないか。
立ち上がらなければ――功巳や清巳に続いて百合も腰を上げようとするが、足に力が入らない。無理に力をこめてみると、立ち上がったときに膝がふらついた。
「如月さん?」
横から手を貸そうとする清巳に首を振る。そういえば昨日は早退もしている、あまり体調が優れないままだと取られることは避けたかった。
「あの、平気です」
「そうです、平気です」
力強い声で清巳はそう返し、微笑むと席を立って応接室を出ていく。
「……なにが?」
取り残されたようになったひとりの空間で、百合のつぶやきは消え入りそうなものだった。
「なぁに、ここの事務所ちょっと空気悪いね、空気清浄機かなんか買えば?」
事務所で功巳がぼやくのが聞こえてくる。
「空気が悪いっていうか、くさいね。これひどいなぁ」
聞こえた言葉に、百合の足が止まる。
異臭を指摘された空間に踏みこむのは、百合には勇気が必要なことだった。どこかで自分と関連づけられたりしないか――だがこの応接室にもういたくない。
「平気平気、いきなさい」
低い声が聞こえた。
それは背後からかかり、百合は悲鳴を飲みこんだ。
恐怖に駆られすぎて動けない。
「すまない、急に後ろから声をかけてはいけなかったな。また驚かせた――だがそのついでだ」
それは大きな手のひらだった。
「見えたほうが、納得できるだろう。災難だったな、今回は」
硬直した百合の目元に、甘いかおりとともに、後方から大きな手のひらが覆い被さってきた。
ふたつの目が隠される瞬間に、百合はその手がまるで血で濡れているようだ、と背中を粟立てていた。
目元ではなく、瞳そのものに濡れた感触があった。血が目に入りこむ――それこそ悲鳴を上げるために息を吸いこむと、するりと手のひらが離れていった。
眼球にも目元にも濡れた感触はない。今度はその大きな手のひらは、百合の背中を押してきた。
抵抗をせず、百合は一歩前に出ていた。
「安心しろ、俺が片づけていく」
「……っ、だ……」
誰何する言葉もろくに口から出せないが、百合は勢いをつけて振り返る。
――誰もいない。
しかしひとの気配のようなものがある。そう感じ、百合は小走りに事務所に戻った。誰かがいる場所にいたい。
「ほかの階からも、においが出てるって報告があるんですよ。うちは事務所だけなんですよね」
清巳の穏やかな声が聞こえる。
「じゃあちょうどいいね、お香焚いて紛らわしちゃえ」
「最近下に入ってる会社が調査入れてますよ。今日もなにかしてるんじゃないですかね」
ひとの姿と声があるだけで安心できる。現れた百合に、芝田がうろんな目を向けてくる。小境はまだ戻っていないようで、どこにも姿はなかった。
「如月さん、大丈夫でしたか?」
「えっ」
なんの話か。
においのことか、たったいま背後でドアのしまる音のした――応接室にいた男のことか。
「このへん、においがちょっとひどいですね。如月さんの席のあたりが一番ひどいかな」
百合の席の周辺を、清巳と功巳がうろうろしはじめた。
「ほんとだね。清巳、あんたこれほっといたのか」
「においに強弱があって、ここまでひどいとは思ってませんでしたよ」
席に近づく気になれず、しかし応接室のドアの前にもいたくない。
百合はそっと芝田のほうに近づいた。
室内には例の悪臭が漂っている。いつも自分から漂っていると考えていたものだ。
いま、自分からはなにもにおっていない。
百合にはその自信があり、一瞥してきた芝田のとなりに立った。
「これじゃ如月さんがかわいそうだ。席移せないの?」
「移す場所が……ああ、これはひどいなぁ」
功巳が応接室に戻り、灰皿を抱えて戻ってくる。
「ここで焚いてみていい?」
「においが混ざりませんか? 窓も開けてますから、せっかく焚いてもどこかに……」
清巳の言葉は聞き流し、さっさと功巳はお香に火をつけている。
先ほどとおなじく甘いかおりが立ち上るものの、風に吹かれて消えていく。
「……あのひと、今度のところの? よさそうなひと?」
となりの芝田が話しかけてくる。
「はい、データ室の九重功巳さんです。もしかすると私の異動、はやくなるかもしれなくて」
「……そうなんだ?」
芝田はまだどこか探るような目の色をしていて、それもしかたない、と百合は内心苦笑いをしていた。
百合としても、この状況がなんなのかわかっていない。
「うん、験担ぎみたいなもんだよ、かおりって魔除けにしたりもすることあるんだよ。そういうの興味ある? 神無月って神さまたちが……なんていうか、実家に帰省しちゃうんのね、全員。そうなるとさ、御利益をくれる神さまもいないし、それこそ守ってくれる神さまもいないってことになる。そんなところに異動っていうのもねぇ」
男がカレンダーから手を離した。その手は健康的に日焼けしている。
はらりと九月のページが落ちていく。
百合は九重の男性たちを横目にした。
彼らはカレンダーのほうを向いているが、これといっておかしなものに対峙している態度ではなかった。
――見えていない?
「まあ、僕のほうはいつからでもいいから、清巳で調整してくれる? 如月さんの都合もあるでしょうし」
「わかりました。これからひとが増えるんですから、しっかりしてくださいね」
はいはい、と気のない返事をし、功巳は腰を上げた。
そちらに気を取られた一瞬に、背広の男性は消え失せている。
目の錯覚か。
錯覚であってほしい。
百合の胸は、きつく押さえつけられたように苦しくなっていた。呼吸が苦しい。見えないけれど、まだどこかにいるのではないか。
立ち上がらなければ――功巳や清巳に続いて百合も腰を上げようとするが、足に力が入らない。無理に力をこめてみると、立ち上がったときに膝がふらついた。
「如月さん?」
横から手を貸そうとする清巳に首を振る。そういえば昨日は早退もしている、あまり体調が優れないままだと取られることは避けたかった。
「あの、平気です」
「そうです、平気です」
力強い声で清巳はそう返し、微笑むと席を立って応接室を出ていく。
「……なにが?」
取り残されたようになったひとりの空間で、百合のつぶやきは消え入りそうなものだった。
「なぁに、ここの事務所ちょっと空気悪いね、空気清浄機かなんか買えば?」
事務所で功巳がぼやくのが聞こえてくる。
「空気が悪いっていうか、くさいね。これひどいなぁ」
聞こえた言葉に、百合の足が止まる。
異臭を指摘された空間に踏みこむのは、百合には勇気が必要なことだった。どこかで自分と関連づけられたりしないか――だがこの応接室にもういたくない。
「平気平気、いきなさい」
低い声が聞こえた。
それは背後からかかり、百合は悲鳴を飲みこんだ。
恐怖に駆られすぎて動けない。
「すまない、急に後ろから声をかけてはいけなかったな。また驚かせた――だがそのついでだ」
それは大きな手のひらだった。
「見えたほうが、納得できるだろう。災難だったな、今回は」
硬直した百合の目元に、甘いかおりとともに、後方から大きな手のひらが覆い被さってきた。
ふたつの目が隠される瞬間に、百合はその手がまるで血で濡れているようだ、と背中を粟立てていた。
目元ではなく、瞳そのものに濡れた感触があった。血が目に入りこむ――それこそ悲鳴を上げるために息を吸いこむと、するりと手のひらが離れていった。
眼球にも目元にも濡れた感触はない。今度はその大きな手のひらは、百合の背中を押してきた。
抵抗をせず、百合は一歩前に出ていた。
「安心しろ、俺が片づけていく」
「……っ、だ……」
誰何する言葉もろくに口から出せないが、百合は勢いをつけて振り返る。
――誰もいない。
しかしひとの気配のようなものがある。そう感じ、百合は小走りに事務所に戻った。誰かがいる場所にいたい。
「ほかの階からも、においが出てるって報告があるんですよ。うちは事務所だけなんですよね」
清巳の穏やかな声が聞こえる。
「じゃあちょうどいいね、お香焚いて紛らわしちゃえ」
「最近下に入ってる会社が調査入れてますよ。今日もなにかしてるんじゃないですかね」
ひとの姿と声があるだけで安心できる。現れた百合に、芝田がうろんな目を向けてくる。小境はまだ戻っていないようで、どこにも姿はなかった。
「如月さん、大丈夫でしたか?」
「えっ」
なんの話か。
においのことか、たったいま背後でドアのしまる音のした――応接室にいた男のことか。
「このへん、においがちょっとひどいですね。如月さんの席のあたりが一番ひどいかな」
百合の席の周辺を、清巳と功巳がうろうろしはじめた。
「ほんとだね。清巳、あんたこれほっといたのか」
「においに強弱があって、ここまでひどいとは思ってませんでしたよ」
席に近づく気になれず、しかし応接室のドアの前にもいたくない。
百合はそっと芝田のほうに近づいた。
室内には例の悪臭が漂っている。いつも自分から漂っていると考えていたものだ。
いま、自分からはなにもにおっていない。
百合にはその自信があり、一瞥してきた芝田のとなりに立った。
「これじゃ如月さんがかわいそうだ。席移せないの?」
「移す場所が……ああ、これはひどいなぁ」
功巳が応接室に戻り、灰皿を抱えて戻ってくる。
「ここで焚いてみていい?」
「においが混ざりませんか? 窓も開けてますから、せっかく焚いてもどこかに……」
清巳の言葉は聞き流し、さっさと功巳はお香に火をつけている。
先ほどとおなじく甘いかおりが立ち上るものの、風に吹かれて消えていく。
「……あのひと、今度のところの? よさそうなひと?」
となりの芝田が話しかけてくる。
「はい、データ室の九重功巳さんです。もしかすると私の異動、はやくなるかもしれなくて」
「……そうなんだ?」
芝田はまだどこか探るような目の色をしていて、それもしかたない、と百合は内心苦笑いをしていた。
百合としても、この状況がなんなのかわかっていない。
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