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2 お引っ越し 今度の上司とあやしい背中
2-5 知った顔
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ずっと自分と関連づけていたにおいに、九重のふたりが対峙している。窓を開けて風を入れたところで、いまも完全に消えないでいる。
「とくに引き継ぎで大変なものはないと思いますので……」
ぱん、と功巳が手を打った。
「如月さん、こっちからあっちの応接室に移るんじゃだめなの? パソコン持って」
「……え?」
ぞっとして舌が凝ったようになった。
――あそこに移るのは遠慮したい。
横目で見た応接室のドアの前に、背広を着た若い男が立っていた。
「あ」
呆けた声が漏れる。
――見たことのある男だ。
昨日神社にいた、声をかけてきた袴履きの男である。鼻腔にかおりがよみがえる。神社と応接室とで嗅いだ――甘く清涼感のあるかおり。
大股に、だがゆっくりと歩んだ彼は、百合の席に近づいていく。
立ち塞がっていた清巳が動き、窓の外をのぞいた。功巳が置いてあった灰皿を抱え、ハンカチを出して席を拭く。
「なるほど、これは難儀だ」
そういって、彼はなにかをはじめようとしていた。
となりの芝田を見るが、彼女は清巳たちに目を向けており、青年に気がついているようではなかった。その様子にぞっとする。ただ彼に目を向けていない、そういう態度ではない。
背広のふところからなにかを取り出し、それを宙にまいている。それがなにかわからない。百合の目はわずかな残像だけをとらえた。細長く軽いもののようだが、正体をつかめない。
そのとき開け放してある窓から、強い風が吹きこんできた。
「やだ、飛んじゃう!」
声に先んじて、たくさんの書類が舞い上がっていく。
「ま、待って!」
自分の机に広げていた書類を押さえるため、悲鳴を上げた芝田が身を投げ出していった。そこに百合も加わり、書類が飛ばないようにする。机の上に残った書類を両手でおさえた。
芝田の机は、百合の机の真向かいだ。
すぐそこに青年がいる。
納得できることもあった――このひとはこの世のものではなく、だからこんなにきれいな顔をしている。
「まいったなぁ、ああ、汚れちゃってる……やだぁ、踏んじゃったじゃん」
風は止んだが、散らばった書類を拾うため芝田は身を屈めていた。
百合は彼から目が離せなかった。
彼の周囲に、透けた黒いガラス片に見えるものが無数に浮いている。
百合と視線を合わせた彼は、口元に指を立てた。声を出すな、とそういう仕草だが、目元は楽しげに輝いている。
上着をめくり、彼は裏地を見せるようにした――そこにはなにもなかった。
裏地が見えない。
強いていうなら、空虚がそこにある。
黒いガラス片は背広の内側に吸いこまれ、消えていく。
短い時間の出来事だ。
床に散らばった書類を集めた芝田が、机の上にそれを乗せた。百合は机の上で乱れていた書類を集め、芝谷に手渡す。
「びっくりした……如月さんありがと」
「ま、窓閉めましょうか。こんなのはじめてですね」
声が震えないよう苦心する百合に向け、一瞥した彼は上着をひらひらと動かした。
のぞかせた内側、そこには朱色の裏地が張られ、ガラス片は一切見当たらない。
窓を閉める清巳に、青年が黙礼をする。
「ほかに飛んでるものないですか? ほんとびっくりしたぁ」
首を巡らせる芝田には、やはり彼の姿は見えていないようだった。しかし清巳と功巳は違うようだ。視線の動きなどで、それを察することができた。
それがどういうことか、と考え結論を出すより先に、青年が口を開く。
「平気だよ」
青年の低い声は、耳になじむ麗しいものだった。
彼の姿どころか、その声に芝田は気がついていないようだ。彼女はまとめた書類の順番を直すことに忙しい。
「もう平気だ」
清巳と功巳がかすかにうなずく。
「神無月の前に移るのは名案だ。茶々を入れたがる連中もおとなしいだろう」
今度は清巳と功巳は反応しなかった。
百合にはわかっていた――早々に功巳のいる部署に移り、そこで毎日冷茶を煎れるのだろう。
「とくに引き継ぎで大変なものはないと思いますので……」
ぱん、と功巳が手を打った。
「如月さん、こっちからあっちの応接室に移るんじゃだめなの? パソコン持って」
「……え?」
ぞっとして舌が凝ったようになった。
――あそこに移るのは遠慮したい。
横目で見た応接室のドアの前に、背広を着た若い男が立っていた。
「あ」
呆けた声が漏れる。
――見たことのある男だ。
昨日神社にいた、声をかけてきた袴履きの男である。鼻腔にかおりがよみがえる。神社と応接室とで嗅いだ――甘く清涼感のあるかおり。
大股に、だがゆっくりと歩んだ彼は、百合の席に近づいていく。
立ち塞がっていた清巳が動き、窓の外をのぞいた。功巳が置いてあった灰皿を抱え、ハンカチを出して席を拭く。
「なるほど、これは難儀だ」
そういって、彼はなにかをはじめようとしていた。
となりの芝田を見るが、彼女は清巳たちに目を向けており、青年に気がついているようではなかった。その様子にぞっとする。ただ彼に目を向けていない、そういう態度ではない。
背広のふところからなにかを取り出し、それを宙にまいている。それがなにかわからない。百合の目はわずかな残像だけをとらえた。細長く軽いもののようだが、正体をつかめない。
そのとき開け放してある窓から、強い風が吹きこんできた。
「やだ、飛んじゃう!」
声に先んじて、たくさんの書類が舞い上がっていく。
「ま、待って!」
自分の机に広げていた書類を押さえるため、悲鳴を上げた芝田が身を投げ出していった。そこに百合も加わり、書類が飛ばないようにする。机の上に残った書類を両手でおさえた。
芝田の机は、百合の机の真向かいだ。
すぐそこに青年がいる。
納得できることもあった――このひとはこの世のものではなく、だからこんなにきれいな顔をしている。
「まいったなぁ、ああ、汚れちゃってる……やだぁ、踏んじゃったじゃん」
風は止んだが、散らばった書類を拾うため芝田は身を屈めていた。
百合は彼から目が離せなかった。
彼の周囲に、透けた黒いガラス片に見えるものが無数に浮いている。
百合と視線を合わせた彼は、口元に指を立てた。声を出すな、とそういう仕草だが、目元は楽しげに輝いている。
上着をめくり、彼は裏地を見せるようにした――そこにはなにもなかった。
裏地が見えない。
強いていうなら、空虚がそこにある。
黒いガラス片は背広の内側に吸いこまれ、消えていく。
短い時間の出来事だ。
床に散らばった書類を集めた芝田が、机の上にそれを乗せた。百合は机の上で乱れていた書類を集め、芝谷に手渡す。
「びっくりした……如月さんありがと」
「ま、窓閉めましょうか。こんなのはじめてですね」
声が震えないよう苦心する百合に向け、一瞥した彼は上着をひらひらと動かした。
のぞかせた内側、そこには朱色の裏地が張られ、ガラス片は一切見当たらない。
窓を閉める清巳に、青年が黙礼をする。
「ほかに飛んでるものないですか? ほんとびっくりしたぁ」
首を巡らせる芝田には、やはり彼の姿は見えていないようだった。しかし清巳と功巳は違うようだ。視線の動きなどで、それを察することができた。
それがどういうことか、と考え結論を出すより先に、青年が口を開く。
「平気だよ」
青年の低い声は、耳になじむ麗しいものだった。
彼の姿どころか、その声に芝田は気がついていないようだ。彼女はまとめた書類の順番を直すことに忙しい。
「もう平気だ」
清巳と功巳がかすかにうなずく。
「神無月の前に移るのは名案だ。茶々を入れたがる連中もおとなしいだろう」
今度は清巳と功巳は反応しなかった。
百合にはわかっていた――早々に功巳のいる部署に移り、そこで毎日冷茶を煎れるのだろう。
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