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2 お引っ越し 今度の上司とあやしい背中
2-6 翌日
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驚いたことに、においがきれいさっぱり消え去っていた。
「ここ最近、事務所で異臭がすることがあったんですが、みなさん気がついてましたか?」
功巳が事務所をあとにし、営業部から小境が戻ると、清巳は自分の席に着いた。いまさら? と芝田のちいさなつぶやきが聞こえる。
「功巳さんを送って下に降りたとき、そっちのフロアのひとと話したんですが、配管の故障が見つかって修理がすんだそうです」
「配管……?」
「配管がおかしくなると、あれだけにおうみたいですね」
ビルの配管の都合で、百合の席周辺がにおうという異常が起こった――ということらしい。
「私が事務所にいるときはさほどにおってなくて、正直気にしていなかったんです。ですが、けっこうなことになってたみたいですね」
なんだか釈然としないものがあるが、無事においが消えたなら、もうそれでいいのではないか。
芝田と小境が気まずそうにしているのを見て、百合はもう満足していた。溜飲が下がったのだ――ふたりからいやな視線を投げられたり、ひそひそと囁き交わす声が聞こえることはもうないだろう。
異動まで残り時間はすくなそうだ、百合は精一杯の笑顔をふたりに向けた。
「におい、ちょっと困ってたんですよ。配管直ってよかったですよね」
「……う、ん」
「あのさ、あたしたち……」
百合はさえぎるように口を開く。
「私異動ですけど、おふたりともここで仕事するんですし、におってたら大変ですから」
百合はひたすらにこにこしていた。それ以外、どうしたらいいのか思いつかなかった。
「あの……ごめんね……」
「如月さんほんと……ごめんなさい」
「……はい、大丈夫です」
このままふたりがなにも気にせずにいてくれたらいい、そう思うくらい、百合は内心ほっとしていた。
神社で声をかけてきた彼のことも、黒いガラス片のこともわからないでいるが、悪臭が消えたことは確実なのだ。
あの異臭は自分が原因ではなかった――そのことがとても大きい。
くわしい配管の異常について清巳から語られることはなかったものの、悪臭が消えてしまうと、それこそもう説明などいらないと思えてしまう。
――もう気に病まずにいていい。
上機嫌で同僚たちと定時退社し、彼女たちを送るように駅まで歩いた。駅近郊で食材の買い出しをしたため、ひさしぶりに駄菓子買わずに帰宅となった。
おばさんに会えなかったことを残念に思いながらも、百合は翌日の昼食は芝田たちを誘ってみようと決めていた。
異動すれば、会う機会は激減するのだ。
九泉香料では季節ごとに食事会が催される。
社員全員が参加する方針となっていたが、近年理由あって不参加者となったものには、食事会の代わりに高級店のギフトカタログが配れるようになった。
ギフトカタログの人気は大きく、結果としてあえて予定を入れて食事会を断るものが増えたのだ――そのなかに、芝田と小境が入っていた。
ほんとうに会うことはなくなりそうだ。
お昼休み早々に動けば、会社周辺にある人気店の席も確保できる。
翌日、どこの店がいいか迷いながら出勤し、事務所に入るとそこには清巳の姿があった。
「おはようございます、九重さ……清巳さん、はやいですね」
ほかの子が気にするといけないから、遅めに出勤している――以前彼の口から聞いたことがあった。
「如月さん、おはようございます。申しわけないんですが、ちょっとお使いをお願いしたくて」
「お使いですか?」
朝イチから、というのも珍しい。
まだ百合は上着も脱いでいなければ、カバンを肩から下ろしてもいない。
「昨日功巳さんが忘れものをしてしまって……これ、届けてもらえませんか」
片手に収まるくらいの木箱が差し出され、百合は木箱と清巳の顔とを交互に見た。
「これは……」
「かおりの調合に使うものです。本来はこれも持って帰るはずだったんですが、忘れてしまって」
それは清巳が渡しそびれたのか、功巳が持って帰るのを忘れたのか。
確認することはなく、百合はうなずいて木箱を手に取った。
驚いたことに、においがきれいさっぱり消え去っていた。
「ここ最近、事務所で異臭がすることがあったんですが、みなさん気がついてましたか?」
功巳が事務所をあとにし、営業部から小境が戻ると、清巳は自分の席に着いた。いまさら? と芝田のちいさなつぶやきが聞こえる。
「功巳さんを送って下に降りたとき、そっちのフロアのひとと話したんですが、配管の故障が見つかって修理がすんだそうです」
「配管……?」
「配管がおかしくなると、あれだけにおうみたいですね」
ビルの配管の都合で、百合の席周辺がにおうという異常が起こった――ということらしい。
「私が事務所にいるときはさほどにおってなくて、正直気にしていなかったんです。ですが、けっこうなことになってたみたいですね」
なんだか釈然としないものがあるが、無事においが消えたなら、もうそれでいいのではないか。
芝田と小境が気まずそうにしているのを見て、百合はもう満足していた。溜飲が下がったのだ――ふたりからいやな視線を投げられたり、ひそひそと囁き交わす声が聞こえることはもうないだろう。
異動まで残り時間はすくなそうだ、百合は精一杯の笑顔をふたりに向けた。
「におい、ちょっと困ってたんですよ。配管直ってよかったですよね」
「……う、ん」
「あのさ、あたしたち……」
百合はさえぎるように口を開く。
「私異動ですけど、おふたりともここで仕事するんですし、におってたら大変ですから」
百合はひたすらにこにこしていた。それ以外、どうしたらいいのか思いつかなかった。
「あの……ごめんね……」
「如月さんほんと……ごめんなさい」
「……はい、大丈夫です」
このままふたりがなにも気にせずにいてくれたらいい、そう思うくらい、百合は内心ほっとしていた。
神社で声をかけてきた彼のことも、黒いガラス片のこともわからないでいるが、悪臭が消えたことは確実なのだ。
あの異臭は自分が原因ではなかった――そのことがとても大きい。
くわしい配管の異常について清巳から語られることはなかったものの、悪臭が消えてしまうと、それこそもう説明などいらないと思えてしまう。
――もう気に病まずにいていい。
上機嫌で同僚たちと定時退社し、彼女たちを送るように駅まで歩いた。駅近郊で食材の買い出しをしたため、ひさしぶりに駄菓子買わずに帰宅となった。
おばさんに会えなかったことを残念に思いながらも、百合は翌日の昼食は芝田たちを誘ってみようと決めていた。
異動すれば、会う機会は激減するのだ。
九泉香料では季節ごとに食事会が催される。
社員全員が参加する方針となっていたが、近年理由あって不参加者となったものには、食事会の代わりに高級店のギフトカタログが配れるようになった。
ギフトカタログの人気は大きく、結果としてあえて予定を入れて食事会を断るものが増えたのだ――そのなかに、芝田と小境が入っていた。
ほんとうに会うことはなくなりそうだ。
お昼休み早々に動けば、会社周辺にある人気店の席も確保できる。
翌日、どこの店がいいか迷いながら出勤し、事務所に入るとそこには清巳の姿があった。
「おはようございます、九重さ……清巳さん、はやいですね」
ほかの子が気にするといけないから、遅めに出勤している――以前彼の口から聞いたことがあった。
「如月さん、おはようございます。申しわけないんですが、ちょっとお使いをお願いしたくて」
「お使いですか?」
朝イチから、というのも珍しい。
まだ百合は上着も脱いでいなければ、カバンを肩から下ろしてもいない。
「昨日功巳さんが忘れものをしてしまって……これ、届けてもらえませんか」
片手に収まるくらいの木箱が差し出され、百合は木箱と清巳の顔とを交互に見た。
「これは……」
「かおりの調合に使うものです。本来はこれも持って帰るはずだったんですが、忘れてしまって」
それは清巳が渡しそびれたのか、功巳が持って帰るのを忘れたのか。
確認することはなく、百合はうなずいて木箱を手に取った。
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