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2 お引っ越し 今度の上司とあやしい背中

2-7 迷ってやっと

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 週中の水曜日であり、まだ同僚を昼食に誘う機会はある。
 あちらの所在地の地図など、出かける用意をしていると芝田と小境が出勤してきた。
 百合が出かけると知って、小境が尋ねてきた。
「戻り何時なんですか?」
「それが見えなくて……」
「えー、残念! お昼一緒しようと思ってたのに!」
 その言葉に救われた気がして、百合はちょっとだけ涙腺が緩んでいた。もういやなにおいのことは過去になっている。
 事務所を出た百合は、功巳への手土産に地元の冷菓を持っていくことにした。功巳は冷たいものが好物という、清巳の意見を参考にしている。
 行動範囲の反対側――K駅の区画整理があったほうに足を向けた。人気のある菓子店が数軒あるのだ。
 駅前のロータリーは広く、複数のバスが発着するためか人出が多い。午前中のはやい時間に散策する機会はめったになく、勤めてからははじめてのことだ。
 ロータリーを前に、百合はあたりを見回した。なんだか落ち着かない。
 ――昔の光景はどこにもない。
 様変わりしたそこは、もうべつの土地といってもよかった。
 百合はそのことにほっとする。
 昔、小学校低学年だったころに、百合はここで事故に遭っていた。
 あれは運の悪い事故だった。
 それは区画整理の手が入りはじめた時期で、駅前だというのにまだあたりはごみごみしていた。昔からあるビルや飲食店が、所狭しと軒を連ねていた。
 その日は入院した親戚を見舞うために学校を休み、母と手をつないで歩き、余所見をした一瞬に車が突っこんできていた。
 百合は重傷で、母は骨折していた。
 唯一運がよかったのは、余所見をしたために百合が車の迫る姿を見ないですんだことだ。
 開店準備中のたい焼き屋があって、帰りに買ってもらおう、と思ったところで百合の意識は終わっていた。
 意識が戻ったときには十日が経過していて、親戚を見舞うはずが百合が入院していたのだ。
 その後は滞りなく退院し、となりの市に引っ越しとなった。
 車が怖くなることもなく、後遺症もなく、退院すると山ほどたい焼きを買ってもらえた。
 やがて九泉香料に勤めはじめ、ひらか町にひとりで引っ越してきてから、百合は自分の傾向に気がついていた。
 ――百合はずっと、駅のこちらがわを避けて生活していた。
 こちらがわに足を運ばなくとも買いものに困らず、あえてそのことについて考えたりしなかった。
 だがいざ目の前にすると、いやに身構えてしまうのが現状だ。はやくなった心拍数が気持ち悪く、背中がぞわぞわしている。
 理由はすぐ思いつく。
 事故に遭った場所だからだ。
 そうだと意識していなくとも、百合にとって怖い――忌まわしい場所になってしまっていたらしい。
 区画整理で見た目だけでも一新されたのは、とてもありがたいことだった。
 事故に遭ったあたりを避け、迂回して一件の洋菓子店に入った。
 手土産の代金は経費で落ちるとのことで、遠慮なく百合は値の張るものを選んで購入した。
 電車に乗り、何度も印刷した地図を確認する。
 乗車時間は短く、百合は到着したT駅からはじめての道を歩きはじめた。
 これから通勤のために歩くルートである、百合はできるだけ楽しそうなものを探していた。
 好みの雑貨屋の前で足を止めたいのを我慢し、大盛り無料との貼り紙のある中華料理店を通りすぎる。そこはモーニングもやっているようだった。
 地図を手にしていたが、百合はなかなか目的地にたどり着くことができないでいる。物流部の入った雑居ビルのような場所を想像していたのだが、一向に見つからない。
 往来の電信柱や家屋にしめされた番地を頼りに、延々歩き続ける。
 時間ばかりが過ぎていき、百合は焦りはじめていた。お使いもろくにできずに迷子になっているのは、楽しい時間ではない。
 車がすれ違うのも厳しいだろう通りをくり返し往復していると、民家の軒先から声がかかった。
「ちょっとあなた、さっきからうろうろしてるけど大丈夫?」
 声をかけてきたのは、眠そうな猫を抱いたご婦人だった。
「いえ、だ……大丈夫じゃないんです、迷ってしまっていて」
 渡りに船、とばかりに百合はご婦人に駆け寄る。
「迷ったの? 若いひとってそういうとき、スマホ使うものじゃないの?」
「スマホは操作がよくわからなくて……地図を持ってきたんですけど、わかりますか?」
 印刷してきた地図を差し出すと、ぱっと目を落としただけでご婦人はうなずいた。
「すぐそこじゃないの」
「ほ、ほんとですか!」
 わかっていないだけで、百合は目の前を通り過ぎていたらしい。
 道まで出てきてくれたご婦人と、四つ辻のところまで歩いていく。
「そこよ、ほら、いま郵便配達のバイクがいるでしょ」
 ご婦人が指さし、抱かれた猫がしゃがれた声で鳴く。
 確かに郵便配達のバイクが停まっていた。配達を終えたらしい配達人が現れて、バイクにまたがると去っていく。
「大きすぎて、逆に目に入らなかったんじゃない? じゃ、気をつけてね」
「はい……あ、ありがとうございます……」
 背中で去っていくご婦人の足音を聞く百合は、目的地だと教わったそこに近づいていった。
 高い門扉と塀に敷地を守られた、大きな屋敷。
 手入れのされた樹木がのぞいていて、道からは建物の屋根くらいしか見ることができない状態だった。
「……会社?」
 門の前に立った。
 なにかの間違いでは、と百合は戸惑っていて、表札を探すがどこにも見当たらない。
 百合はカバンからスマホを取り出した。操作方法は心許ないが、きちんと使えば目的地まで誘導してくれる――らしい。
 だが百合がスマホを起動したところで、先に門が開いていった。
「時間がかかったな、清巳はすぐに着くと話していたが」
 にぎっていたスマホを取り落としたが、それをすかさず空中で拾い上げてくれた。
「入れ、功巳が待ってる」
 ――神社と応接間で見かけた青年だ。
 声がかかる前からわかっていた。
 甘いかおりが漂ってきたのだ。
「なんだ、化けものでも見るような目をして」
 楽しそうに笑っている。
 ひとの悪そうなその表情を前に、百合は返事が出てこなくなっていた。
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