15 / 48
3 あらあやし どこを向いても化けもの屋敷
3-1 異動
しおりを挟む
数日に一度、子供の声で尋ねられる。
「ここに住まないの?」
功巳にはこたえなくていい、と教わっていた。
だから百合はこたえないでいた。
その百合のとなりで、男――八咫が機嫌のよさそうな顔でこたえる。
「暮らさない。働きにきてるからな」
つまらなそうに鼻の鳴る音が聞こえ、その後子供の声による問いかけが重ねられることはない。
あれに百合がこたえていたら、またべつの返答をしていたら、いったいどうなるのだろう――そう考える百合の机の上、置かれた日めくりカレンダーは神無月の第二週となっている。
九月末にはデータ室に異動していた。
データ室は民家の一室をオフィスに使用している。最寄りのT駅から徒歩十五分ほどの距離にある大きな屋敷が、九泉香料データ室の所在地だ。
玄関を入ると、延々続く廊下がある。
終わりがうかがえず、まるでだまし絵のように果てのない廊下の左右には、模様の入っていないまっさらな襖が延々並んでいる。どの襖紙も張り立てのように清廉で、のりのにおいが漂ってきそうだった。
廊下を進むと、腰の高さほどの衝立がひとつの襖の前に置かれている。
そこがデータ室のオフィスだ。
襖を開くとなかは洋室で、ちいさなキッチンとトイレも備えつけられた、どこかのワンルームマンションのようなつくりになっている。百合のアパートよりも広い。
仕事机のほかに、空の棚と小振りなテーブルセットが用意されていた。これでベッドがあったら、十分暮らせるものだった。
毎日廊下に立てられた衝立の位置は変わり、しかし襖を開くと、いつもデータ室のオフィスが現れた。
ときおりオフィスの電話が鳴るが、先方は名乗らない。口頭でかならず数字を伝えてくるため、内線でその数字につなぐ。
電話で百合に求められるのは、交換手の役割だけだった。
冷茶を飲むときだけ上司の功巳は連絡を寄越し、顔を合わせることは滅多にない。ほとんどの時間を百合はオフィスでひとりで過ごしていた。
――ひとり。
持参の座布団にすわる背後の男をどうとらえたらいいのか、百合は迷っていた。
彼は神社で声をかけてきた男性と同一人物だった。そして物流部の応接室にいた男性とも。
そして――どう考えても、人間ではない。
姿を消したり、急に誰もいない空間から現れたりもする。
香水か、かすかな甘いかおりをまとっていて、彼の姿を見つけるより、かおりに気がつくことのほうが多かった。
意を決した百合があれこれ尋ねようとすると、八咫は姿を消してしまう。再度出没するときには、百合の決意はすでに萎えていて、なし崩しに流れていってしまうのだ。
支給されたパソコンのモニターで、起動しておいた通話アプリからピコピコと高い音が鳴った。
新規着信のメッセージがある。
音声通話ではなく、おもに文字を使ってのやり取りに使っていた。登録された相手は、功巳と清巳の二名である。
百合から発信することはほとんどなく、いまも功巳から『冷たいお茶ある?』と尋ねるメッセージが届いていた。
キッチンに備えつけの小型冷蔵庫には、つねに冷茶を用意しておくようにしていた。
ガラス製のポットとグラスをお盆に乗せ廊下に出ると、正座して頭を下げた和装の女性がかならずいる。
彼女の横には長手盆があり、そこに預ける物品を置くことになっていた。
「こちらのお茶を、功巳さんにお願いします」
功巳に渡すものは、飲みものだろうが書類だろうが、彼女――ねえやさんに預けるのだ。
「うけたまわりました」
はっきりした声でねえやさんはこたえる。
「ありがとうございます、それでは」
和装とはいえたすき掛けと前かけをしていること、きっちりと結い上げられた髪に乱れはなく、百合が知るねえやさんの情報はそれのみだ。
彼女の顔立ちを見たことはない。床に手を着いた彼女は、どれだけ待っても顔を上げない。
荷を預けて襖を閉じ、一度百合は即座に襖を開けたことがある。
それは異動したばかりのころで、功巳のいる場所を訊けないかと思ってのことだ――襖が閉じられたのは一瞬なのに、すでにねえやさんの姿はなくなっていた。
彼女もまた、青年とおなじ類いの存在なのだろう。
ここはそういう場所らしい。
功巳が冷茶を要求する頻度は高い。おなかを冷やし、壊してしまわないか心配になるが、それは百合が斟酌するところではなかった――あまりに飲み過ぎていると、いつまで経ってもねえやさんが現れなくなる。その場合はメッセージアプリで功巳にそれを伝え、終了となるのだ。
データ室に入るとたいていひとりきりで、静かな環境が維持される。だが廊下を歩いているときはなかなかにぎやかなものだった。
たくさんのひとが行き交う気配や、さわさわとした話し声が流れていくことがあった。それは町中の喧噪によく似ていて、違うのは百合の目に映るものがただの延々長い廊下、ということである。
驚くことが多い。
一番驚いたのは、この環境に百合があっさり慣れたことだ。
はやい段階でここは驚くことが起こる場所である、と認識したためか、百合はなにか起きても「ああこんなことも起こるのか」と思うようになっている。
どこかで功巳から説明があると思っていたが、その機会も訪れないままだ。
ネット経由でデータのやり取りをすれば、百合の仕事は滞りない。電話の数もさほど多くない。
百合は新たに冷茶を仕込み、座布団の上であぐらをかいている彼をちらりと見る。
異動してすぐに、功巳と彼と三人になったことがあった。
そのときに彼が八咫という名だと教わった。姿を消したりする特技のある同僚なのか、と冷や汗をかいたが、近くに出没しても八咫が働くことはない。
彼の席はオフィスになかった。
「ここに住まないの?」
功巳にはこたえなくていい、と教わっていた。
だから百合はこたえないでいた。
その百合のとなりで、男――八咫が機嫌のよさそうな顔でこたえる。
「暮らさない。働きにきてるからな」
つまらなそうに鼻の鳴る音が聞こえ、その後子供の声による問いかけが重ねられることはない。
あれに百合がこたえていたら、またべつの返答をしていたら、いったいどうなるのだろう――そう考える百合の机の上、置かれた日めくりカレンダーは神無月の第二週となっている。
九月末にはデータ室に異動していた。
データ室は民家の一室をオフィスに使用している。最寄りのT駅から徒歩十五分ほどの距離にある大きな屋敷が、九泉香料データ室の所在地だ。
玄関を入ると、延々続く廊下がある。
終わりがうかがえず、まるでだまし絵のように果てのない廊下の左右には、模様の入っていないまっさらな襖が延々並んでいる。どの襖紙も張り立てのように清廉で、のりのにおいが漂ってきそうだった。
廊下を進むと、腰の高さほどの衝立がひとつの襖の前に置かれている。
そこがデータ室のオフィスだ。
襖を開くとなかは洋室で、ちいさなキッチンとトイレも備えつけられた、どこかのワンルームマンションのようなつくりになっている。百合のアパートよりも広い。
仕事机のほかに、空の棚と小振りなテーブルセットが用意されていた。これでベッドがあったら、十分暮らせるものだった。
毎日廊下に立てられた衝立の位置は変わり、しかし襖を開くと、いつもデータ室のオフィスが現れた。
ときおりオフィスの電話が鳴るが、先方は名乗らない。口頭でかならず数字を伝えてくるため、内線でその数字につなぐ。
電話で百合に求められるのは、交換手の役割だけだった。
冷茶を飲むときだけ上司の功巳は連絡を寄越し、顔を合わせることは滅多にない。ほとんどの時間を百合はオフィスでひとりで過ごしていた。
――ひとり。
持参の座布団にすわる背後の男をどうとらえたらいいのか、百合は迷っていた。
彼は神社で声をかけてきた男性と同一人物だった。そして物流部の応接室にいた男性とも。
そして――どう考えても、人間ではない。
姿を消したり、急に誰もいない空間から現れたりもする。
香水か、かすかな甘いかおりをまとっていて、彼の姿を見つけるより、かおりに気がつくことのほうが多かった。
意を決した百合があれこれ尋ねようとすると、八咫は姿を消してしまう。再度出没するときには、百合の決意はすでに萎えていて、なし崩しに流れていってしまうのだ。
支給されたパソコンのモニターで、起動しておいた通話アプリからピコピコと高い音が鳴った。
新規着信のメッセージがある。
音声通話ではなく、おもに文字を使ってのやり取りに使っていた。登録された相手は、功巳と清巳の二名である。
百合から発信することはほとんどなく、いまも功巳から『冷たいお茶ある?』と尋ねるメッセージが届いていた。
キッチンに備えつけの小型冷蔵庫には、つねに冷茶を用意しておくようにしていた。
ガラス製のポットとグラスをお盆に乗せ廊下に出ると、正座して頭を下げた和装の女性がかならずいる。
彼女の横には長手盆があり、そこに預ける物品を置くことになっていた。
「こちらのお茶を、功巳さんにお願いします」
功巳に渡すものは、飲みものだろうが書類だろうが、彼女――ねえやさんに預けるのだ。
「うけたまわりました」
はっきりした声でねえやさんはこたえる。
「ありがとうございます、それでは」
和装とはいえたすき掛けと前かけをしていること、きっちりと結い上げられた髪に乱れはなく、百合が知るねえやさんの情報はそれのみだ。
彼女の顔立ちを見たことはない。床に手を着いた彼女は、どれだけ待っても顔を上げない。
荷を預けて襖を閉じ、一度百合は即座に襖を開けたことがある。
それは異動したばかりのころで、功巳のいる場所を訊けないかと思ってのことだ――襖が閉じられたのは一瞬なのに、すでにねえやさんの姿はなくなっていた。
彼女もまた、青年とおなじ類いの存在なのだろう。
ここはそういう場所らしい。
功巳が冷茶を要求する頻度は高い。おなかを冷やし、壊してしまわないか心配になるが、それは百合が斟酌するところではなかった――あまりに飲み過ぎていると、いつまで経ってもねえやさんが現れなくなる。その場合はメッセージアプリで功巳にそれを伝え、終了となるのだ。
データ室に入るとたいていひとりきりで、静かな環境が維持される。だが廊下を歩いているときはなかなかにぎやかなものだった。
たくさんのひとが行き交う気配や、さわさわとした話し声が流れていくことがあった。それは町中の喧噪によく似ていて、違うのは百合の目に映るものがただの延々長い廊下、ということである。
驚くことが多い。
一番驚いたのは、この環境に百合があっさり慣れたことだ。
はやい段階でここは驚くことが起こる場所である、と認識したためか、百合はなにか起きても「ああこんなことも起こるのか」と思うようになっている。
どこかで功巳から説明があると思っていたが、その機会も訪れないままだ。
ネット経由でデータのやり取りをすれば、百合の仕事は滞りない。電話の数もさほど多くない。
百合は新たに冷茶を仕込み、座布団の上であぐらをかいている彼をちらりと見る。
異動してすぐに、功巳と彼と三人になったことがあった。
そのときに彼が八咫という名だと教わった。姿を消したりする特技のある同僚なのか、と冷や汗をかいたが、近くに出没しても八咫が働くことはない。
彼の席はオフィスになかった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
12
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる