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3 あらあやし どこを向いても化けもの屋敷

3-1 異動

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 数日に一度、子供の声で尋ねられる。
「ここに住まないの?」
 功巳にはこたえなくていい、と教わっていた。
 だから百合はこたえないでいた。
 その百合のとなりで、男――八咫やたが機嫌のよさそうな顔でこたえる。
「暮らさない。働きにきてるからな」
 つまらなそうに鼻の鳴る音が聞こえ、その後子供の声による問いかけが重ねられることはない。
 あれに百合がこたえていたら、またべつの返答をしていたら、いったいどうなるのだろう――そう考える百合の机の上、置かれた日めくりカレンダーは神無月の第二週となっている。
 九月末にはデータ室に異動していた。
 データ室は民家の一室をオフィスに使用している。最寄りのT駅から徒歩十五分ほどの距離にある大きな屋敷が、九泉香料データ室の所在地だ。
 玄関を入ると、延々続く廊下がある。
 終わりがうかがえず、まるでだまし絵のように果てのない廊下の左右には、模様の入っていないまっさらな襖が延々並んでいる。どの襖紙も張り立てのように清廉で、のりのにおいが漂ってきそうだった。
 廊下を進むと、腰の高さほどの衝立がひとつの襖の前に置かれている。
 そこがデータ室のオフィスだ。
 襖を開くとなかは洋室で、ちいさなキッチンとトイレも備えつけられた、どこかのワンルームマンションのようなつくりになっている。百合のアパートよりも広い。
 仕事机のほかに、空の棚と小振りなテーブルセットが用意されていた。これでベッドがあったら、十分暮らせるものだった。
 毎日廊下に立てられた衝立の位置は変わり、しかし襖を開くと、いつもデータ室のオフィスが現れた。
 ときおりオフィスの電話が鳴るが、先方は名乗らない。口頭でかならず数字を伝えてくるため、内線でその数字につなぐ。
 電話で百合に求められるのは、交換手の役割だけだった。
 冷茶を飲むときだけ上司の功巳は連絡を寄越し、顔を合わせることは滅多にない。ほとんどの時間を百合はオフィスでひとりで過ごしていた。
 ――ひとり。
 持参の座布団にすわる背後の男をどうとらえたらいいのか、百合は迷っていた。
 彼は神社で声をかけてきた男性と同一人物だった。そして物流部の応接室にいた男性とも。
 そして――どう考えても、人間ではない。
 姿を消したり、急に誰もいない空間から現れたりもする。
 香水か、かすかな甘いかおりをまとっていて、彼の姿を見つけるより、かおりに気がつくことのほうが多かった。
 意を決した百合があれこれ尋ねようとすると、八咫は姿を消してしまう。再度出没するときには、百合の決意はすでに萎えていて、なし崩しに流れていってしまうのだ。
 支給されたパソコンのモニターで、起動しておいた通話アプリからピコピコと高い音が鳴った。
 新規着信のメッセージがある。
 音声通話ではなく、おもに文字を使ってのやり取りに使っていた。登録された相手は、功巳と清巳の二名である。
 百合から発信することはほとんどなく、いまも功巳から『冷たいお茶ある?』と尋ねるメッセージが届いていた。
 キッチンに備えつけの小型冷蔵庫には、つねに冷茶を用意しておくようにしていた。
 ガラス製のポットとグラスをお盆に乗せ廊下に出ると、正座して頭を下げた和装の女性がかならずいる。
 彼女の横には長手盆があり、そこに預ける物品を置くことになっていた。
「こちらのお茶を、功巳さんにお願いします」
 功巳に渡すものは、飲みものだろうが書類だろうが、彼女――ねえやさんに預けるのだ。
「うけたまわりました」
 はっきりした声でねえやさんはこたえる。
「ありがとうございます、それでは」
 和装とはいえたすき掛けと前かけをしていること、きっちりと結い上げられた髪に乱れはなく、百合が知るねえやさんの情報はそれのみだ。
 彼女の顔立ちを見たことはない。床に手を着いた彼女は、どれだけ待っても顔を上げない。
 荷を預けて襖を閉じ、一度百合は即座に襖を開けたことがある。
 それは異動したばかりのころで、功巳のいる場所を訊けないかと思ってのことだ――襖が閉じられたのは一瞬なのに、すでにねえやさんの姿はなくなっていた。
 彼女もまた、青年とおなじ類いの存在なのだろう。
 ここはそういう場所らしい。
 功巳が冷茶を要求する頻度は高い。おなかを冷やし、壊してしまわないか心配になるが、それは百合が斟酌するところではなかった――あまりに飲み過ぎていると、いつまで経ってもねえやさんが現れなくなる。その場合はメッセージアプリで功巳にそれを伝え、終了となるのだ。
 データ室に入るとたいていひとりきりで、静かな環境が維持される。だが廊下を歩いているときはなかなかにぎやかなものだった。
 たくさんのひとが行き交う気配や、さわさわとした話し声が流れていくことがあった。それは町中の喧噪によく似ていて、違うのは百合の目に映るものがただの延々長い廊下、ということである。
 驚くことが多い。
 一番驚いたのは、この環境に百合があっさり慣れたことだ。
 はやい段階でここは驚くことが起こる場所である、と認識したためか、百合はなにか起きても「ああこんなことも起こるのか」と思うようになっている。
 どこかで功巳から説明があると思っていたが、その機会も訪れないままだ。
 ネット経由でデータのやり取りをすれば、百合の仕事は滞りない。電話の数もさほど多くない。
 百合は新たに冷茶を仕込み、座布団の上であぐらをかいている彼をちらりと見る。
 異動してすぐに、功巳と彼と三人になったことがあった。
 そのときに彼が八咫という名だと教わった。姿を消したりする特技のある同僚なのか、と冷や汗をかいたが、近くに出没しても八咫が働くことはない。
 彼の席はオフィスになかった。
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