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4 息抜いて つまんだ駄菓子が呼ぶ懸念

4-3 窮地

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 目覚めたとき、悲鳴はこぼさなかった。
 声を上げる代わりに、百合は歯を食い縛ったのだ。
 百合の身体は廊下を進んでいた――ただし、自分の足で歩いているわけではない。なにかに乗せられ、高い位置を運ばれている。
 ざわざわとした気配のなかに百合はいた。
 乗せられている黒いものに絨毯を連想させられた。しかし百合の知る絨毯と違っていた。
 表面に小指の先ほどのサイズの、軟体動物の足に似通ったものが隙間なく生えている。触手を連想させる細かい動きでめいめいがこすれ合い、さわさわとさざめいているのだった。それが蠢いてさえいなければ、かたちだけはのび放題の黒い芝生のようだ。
「……っぅ」
 怖気が走り、百合は息を飲んだ。
 察するのははやい。
 ――あの首の塊の上に自分は乗っている。
 この黒い絨毯は、天井近くに雲のように浮いていた首たちが背にしていたものだ。はじめて見たときは黒い布のようだったが、実際はうねうねと動く触手に覆われていた。
 それらの姿を確認できないものの、百合は首たちの背に乗せられているらしかった。
 ほすほすとかすかな音が重なっていた。微動する黒い絨毯に顔をつけるのは耐えがたく、ほかにできることのない百合は、歯を食い縛りながら音を聞く状態になっている。
 やがてほすほすというそれが、いくつもの呼吸音だと悟る。
 あの大小様々の首はそれぞれが呼吸しているのか、ひとりごとめいたつぶやきも拾ってしまった――一度意識すると、その音が耳について離れなくなる。
 百合が目覚めたことを知ってか知らずか、廊下を進む速度は一定に保たれたままだ。
 あたりをそっとうかがう間に、百合は自分のスカートがめくれ上がっていることに気がついていた。太腿があらわになっている。
 どうやってこれに乗せられたかわからないが、そのときにでもめくれてしまったのか。
「ぅ……」
 羞恥心もあって、それだけは我慢がならなかった。身体を起こしスカートを直したら、さすがに意識があることが知られてしまいそうだ。
 ――悟られたらどうなるのか。
 ――いまどこに連れていかれそうになっているのか。
 身体が横倒しになっていた百合は、腕と脇腹に無理な力を入れて身体を浮かせた。様子を見ようとするが、百合にとっては無理な体勢でしかない。
 腕がぷるぷるとふるえ出した状態をこらえ、百合はわずかに上げた頭で周囲を確認した。
 宙を進む黒い絨毯に乗せられていた百合の視界の多くは、一定の速度で流れていく天井の木目だ。残りは下方に延々と続く白い襖と壁であり、現在位置は玄関からのびる廊下で間違いないはず、とすがるような気持ちになった。
 向かっている先が玄関なのか、屋敷の奥なのか。
 そこが知りたいところだ。
 思い切って飛び降り、ひた走ったら外に出られるかもしれない――その方向さえ間違えなければ。
 百合はそこまで考えたところで、血の毛が引いていった。
 ――玄関から出たところで、首たちはどこかにいってくれるのだろうか。
 そのこたえも出ず、百合だけでは対処できそうになかった。
 功巳はどこで食事をしているのだろう。彼が戻るまでなんとか逃げていられたら、事態は丸くおさまるのではないか。彼自身ここで暮らしているというし――このおかしな環境には、彼のほうが対処慣れしているはずだ。
 血の気が引いた上に、冷や汗まで出てきた。
 せめてスカートだけでも直したい。だがそこまで腕をのばすには、もっと身体を動かさなければならなかった。
 ゆっくり腕の力を抜いて、ふたたび黒い絨毯に身体を預けていく。ざわざわと表面は蠢き、ぞっとする感触と眺めが間近になった。
 百合はどう行動するか、決めかねている。
 視界のはしを流れる風景は単調なものながら、襖が真っ白なものではなくなっていた。
 襖紙に模様が入っている。
 金や赤を使われた雅やかな彩りが、後方へと消えていく。
 百合はべつの種類の怖さに捕らわれはじめていた。
 ――これまでとべつの場所に立ち入っているのではないか。
 たんに内装の質が上がっているということなのか、その襖の先には内装の質を上げなくてはならないようななにかがいるのか。
 ――のんびりした百合に忠告だ。
 八咫の声が脳裏でよみがえった。
 ――ここにきたら、この部屋以外はうろつくな。
 あれは忠告だった。
 そして百合はいま、その忠告に逆らった状態になっている。
 廊下を進めば進むほど、屋敷にいるなにかの質は変わっていくのだろうか。
 行動できずただ横たわっているからか、こたえの出ないことを考え続け、百合はひとりでに怖くなっていく。
 どうにかしなければ――そう思っても、天井近くを運ばれる百合は歯を食い縛り続けるのみだ。
 そのとき、ぽん、と軽いものが身体に乗ってきて、百合は悲鳴を上げそうになった。
「うぇ……」
 心臓がこれまでに経験したことがないくらい、激しく打っている。それでも百合がここにきて安堵を覚えることができたのは、それの正体が鹿野だったからだ。
 いつもとおなじ、ひとなつっこく見える丸い目で百合を見つめている。
 鹿野は百合の腰に乗り、踏みしめ、尻を落ち着け、気楽な姿で毛繕いをはじめた。
 話しかけたいが、首の塊に気づかれたくない。このままどこかに連れていかれても、鹿野がいてくれたら無事戻ることができるだろうか。鹿野だけでも逃げてもらったほうがいいのか。
 鹿野が現れたことで、百合は行動するべく身構えはじめた。
 ――自分ひとりではないのだ。
 百合が声を出さず口をぱくつかせると、毛繕いの間に鹿野が目を向けてきた。ゴロゴロと鳴りはじめたのどの音が、やけに大きく聞こえてくる。
「ぅ……う」
 に、げ、た、い――それをくちびるだけの動きで伝えたかった。鹿野は一度百合の顔に近づき、頬に頬をこすりつけてくる、
 と、鹿野は百合の身体を戻りはじめた。
 百合の身体を下り、めくれたスカートのところで鹿野は歩みを止める。
 見えるのは鹿野の後ろ姿だ。
 なにをするつもりか。
 肩のあたりになんとか力をこめ、百合はそっと首を持ち上げる。長く続けるのが苦しい姿勢のなか、百合は鹿野のしっぽからパチリと電気が走るような音を聞いた。火花まで見えた。
「し……!」
 鹿野の長いしっぽが振りまわされ、それが黒い絨毯を打つ――百合は悲鳴を飲みこんで見つめていた。
 衝撃が流れていく。
 鹿野に電気で打たれ、黒い絨毯越しに首たちが一斉に悲鳴を上げるのを聞いた。ごおごおという、嵐の音に似たものだ。
 それは好機でもなんでもない。
 もうじっと様子をうかがっている場合ではなかった。
 鹿野はさっさと廊下に飛び降りていき、百合も続く。
 勇気ある行動ではなく、ひたすら無我夢中になっていた。
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