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4 息抜いて つまんだ駄菓子が呼ぶ懸念

4-7 貴重な品

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 頭蓋骨になっていたが、鹿野は死んでいなかったのだ。
 テーブルの下を通った鹿野は、百合のひざに戻ってきた。
 狩られそうになったとき、鹿野ははぐれた親を探していたのかもしれない。悲しそうにさまよう鹿野を想像し、胸が苦しくなってきた。
「じゃあ……鹿野さんを材料にしようってわけでは」
「材料にするのは、それの出す脂です」
「それじゃないです、鹿野さんです。それで、脂っていうと……麝香、みたいなものでしょうか」
 麝香――ムスクの通名があるその香料は、麝香鹿という角を持たない鹿から分泌されるものだ。
「ええ、鵺の肛門腺から材料が出るんですよ。すごいにおいが事務所でしてたでしょう? あれです。貴重な香料が漏れていて、いやぁ焦りました。鵺をビル内に確保するのが第一だったので、如月さんたちにはご迷惑をおかけしました。八咫さんが回収にきてくださって助かりましたよ」
 八咫はうなずき、鹿野の鼻先に指先を近づける。鹿野はそれに見向きもしなかった。
「貴重な品だ、あれを無駄にするわけにはいかない」
 においを思い出し、百合は身をふるわせた。
「貴重……ものすごいにおいでしたけど」
「においもすごいですが、薬にしたときのトリップの深さがとんでもないそうですよ。治験を募ると応募者が殺到しますし、鵺の薬には高値がつくのに、みなさんこぞって欲しがります。それこそ盗みや殺傷事件に発展するような」
 トリップという言葉が耳の残ったが、百合は口を引き結んでいた。
 百合はひざの上の鹿野をしっかりと抱きしめる。
「鹿野さん、危なそうなところには絶対にいったら駄目だよ。ね?」
 ゴロリという音を返事に、鹿野は身体を預けてきた。
「もうちょっと鹿野が大きくなったら、契約更新して香料提供してもらおう。いいなぁ鹿野、やったな鹿野、稼げるぞぉ」
「鹿野さんがいやがったら止めてください」
「仕事は仕事でしょ」
「いやがったら契約を止めてください」
「……如月さん、あっちの生きものに肩入れしないほうがいいよぉ」
「あっちで流通する商品をつくるなら、それも肩入れですよね」
 鹿野がゴロゴロとのどを鳴らす音が大きくなる。放電されては大変なので、百合はテーブルの影でしっぽのつけ根をトトト、と叩いてみる。するとわずかに音がちいさくなり、やわらかい感触の尾が手首に絡みついてきた。
「それで、その……冥府での薬っていうのは、つくる場所はあっちにあるんですか?」
 九泉香料の持つ工場や契約した職人などは、規模は大きくないが国内に点在している。こちらで流通する商品のような管理なのだろうか。
「あちらで薬をつくるのは、どうしても無理なんです。あやかしには製造時に出る煙でも影響を受ける方がいらっしゃいますし。人間ですと煙どころか薬が効きません」
「それじゃあ……こっちには一切流通しないんですね」
「過去の特例以外では、持ち出しもないはずです。いまはほぼ全部が冥府内で消費されています。在庫をつくらないようにもしてますから」
 椅子で背伸びをし、功巳は首を振った。
「……同業他社もいないのに、ボロ儲けもできないんだもんなぁ」
「なにかとお金がかかりますからね。こちらで暮らすには、存在しているだけでお金が必要になる。たとえば……急に大がかりな電気工事が必要になったりもするでしょう」
 鹿野が百合の胸に頭を押しつけてくる。矛先が自分に向いたと理解しているのだ。言葉がわかっているのだろう。
「ちなみに、製造工場はここにあります」
「……そうなんですか」
 襖は――部屋は無数にある。そのどこかに工房のようなものがあっても、なにもおかしくない。
 頭痛でもするのか、清巳がこめかみを揉んだ。
「功巳さんはほんっとうになにも教えてないんですね」
「えー、全部僕のせいじゃないでしょ? だってさぁ、いろいろ教えて辞められたらどうすんのさ!」
 功巳ははじかれたように反論するが、清巳には効き目がないようだ。
「もし辞められたら、それは功巳さんの責任です」
 功巳はいくつもある菓子盆を、清巳の前に並べていく。
「そういうことをすぐ……ああもう、如月さんさぁ、清巳がちゃんと教えたほうがいいっていい張ってるし、近いうちにあっちにちょっと散歩いこうか」
 菓子をひとつつまみ上げ、清巳は功巳を睨んだ。
「それは……」
 あちらには首の塊のようなものがいるのだろうか。鹿野のような存在ばかりではないだろう。
「ちょっとだけあっち見にいこうよ。僕たちも一緒にいるし」
「仕事とはいえ関わっていることですし、如月さんもきちんと知っておいたほうがいいと思うんです」
 いきたいかと訊かれれば、正直微妙なところだ。
 助け船を求めるように、百合は八咫の顔を見ていた。
「来週に俺は向こうに帰る。そのときについでにどうだ」
「ついでって……八咫さん、帰るんですか」
 八咫の口調は気軽なものだ――彼の暮らす場所なのだから、当たり前かもしれない。
「こちらには仕事できている。俺はあちらとこちらを往復しているんだ。百合は今日はそろそろ仕事上がりだろう? 来週頭に散歩にいくことにして、くわしくはまた」
「そうしよそうしよ! おなかすいたなぁ、清巳も如月さんもどっか食べいかない?」
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