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4 息抜いて つまんだ駄菓子が呼ぶ懸念

4-9 駄菓子

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 彼が持つ、目を逸らせなくなるほどの美しい顔――それにも慣れてしまったようだ。周囲のひとが向けるような驚きは、いまは持たなくなっている。
 下車するまでほとんど会話はなく、駅を出ると手を振ってわかれた。
 八咫が話していた神社は、一昨日停電に見舞われたエリアにある。
 駅前の小型モールに入っているお茶屋に立ち寄っていたが、百合はそちらに足を向けるつもりでいた。
 会社で飲んだ玉露ほどではないが、奮発していい茶葉を買った。ねえやさんの包んでくれたお菓子は、明日にでもそのお茶で楽しむつもりだった。きっと翌日翌々日は、筋肉痛で家から出たくなくなっているだろう。
 買いものをすませた百合は、疲れた足に鞭打って歩きはじめる。
 焼き肉弁当を夕飯に確保してあるが、今日こそは、と駄菓子の自動販売機を目指していた。
 夕飯前の軽いおやつによさそうだし、物流部にいたころに習慣化してしまったせいか、一度食べ損ねると悔しくてならなかった。
 線路で分断されたエリアを移り、道の先々を気にしながら歩くが、今日はどこまでも街灯が灯っている。
「連続で停電はしないよね」
 あたりが無人なためか、つい声に出してしまう。
 靴音が響く暗い道にあって、自動販売機が集まった喫煙所はほっとする光景だった。
 灯りがあることがうれしい。
 そこは異動するまでの間、ずっと百合の憩いの場だったのだ。
 百合の足ははやくなったが、昼間に全力疾走をしたためやけに重だるく、すぐに減速していた。
 到着した休憩所、そこにある街灯と自動販売機の光のなか、蛾がパタパタと羽を動かしている。目を凝らすが羽に模様は見出せず、光が強いため真っ黒い大きな羽虫のように見えてきた。
「寒いのに元気だなぁ」
 これまでこの時期に蛾を見ただろうか――内心首をかひねり、百合は裏手にまわる。
 いつもとおなじく、駄菓子の自動販売機がそこにあった。
 おもての自動販売機よりも光量が低いなか、前にはなかった麩菓子がラインナップに加わっていた。百合はそれを選んだ。
 喫煙所に戻ってさっそく袋を開けた。手のひらくらいの長さの麩菓子が二本入っていた。
 それをかじろうとすると、道の先に知った顔がある。
「おばさん」
 麩菓子をくわえ手を振ると、おばさんは楽しそうな顔をした。
「お姉さん、こんな時間になにしてるの」
 いつもとおなじ格好で、ひょこひょことおばさんは歩いてくる。
「仕事帰りです。お昼ちょっと食べられなかったから、つまみ食いしに」
「そうなの? 災難だったねぇ。最近見かけなかったから、どうしたのかと思ってたのよ――ああ、やっぱり思い出せそうで思い出せないわぁ」
 おばさんはこめかみを揉み、百合は笑っていた。無理に百合の名前を思いだそうとしなくてもいいのに。
「それが私、異動になったんです」
 おばさんは意味がわからない、という顔をした。
「会社の部署が変わって……T駅まで通ってます」
「T駅」
 ああ、という顔をする。おばさんは考えていることがわりと顔に出て、向き合っていて楽しかった。
「この間寄ろうとしたら停電で……大丈夫でしたか?」
「えっ、停電なんてあった?」
「ありましたよ、一昨日。いまくらいの時間で」
「あったかしらねぇ」
 百合にしたら十分戸惑うくらいの時間だったが、案外停電していた時間は短かったのかもしれない。
 夜の静けさのなか、わりと近いところで焼き芋の移動販売車のアナウンスが聞こえてきた。
「もう焼き芋売ってるんだ! 焼き芋、自分へのご褒美なんかにちょうどいいですよね」
 足がガクガクするほど走ったのだ、ご褒美は山ほどほしい。
「焼き芋?」
「ほら、あっちに移動してます……お弁当あるけど焼き芋も食べたいなぁ」
 麩菓子をにぎって焼き芋の話をするからか、おばさんは手を叩いて笑う。
「食欲があるのはいいことじゃない、いっておいでよ」
「はい! あ、また仕事帰りに寄ります! ごちそうさまでした」
 道に出て振り返ると、すでにおばさんの姿は見つけられない。自動販売機の影にでも入ったのか。この時間におもてに出てきたなら、なにか用事があっただろう。その邪魔をしていなければいいのだが。
 焼き芋の移動販売車を探そうとするものの、左のほうから聞こえたはずの音が、道を変えると右から聞こえたりする。反響しているのか、音の出所をつかむのに百合は四苦八苦し、ひざが震えてきた。
 道のなかばで、百合は片手に持ったままだった、かじりかけの麩菓子を口に運ぶ。水分が欲しくなり、お茶を買っておけばよかったと後悔していた。手つかずの麩菓子がもう一本、袋のなかで待機している。
 トコトコと焼き芋の移動販売車を求めるうちに、百合は暗いながらも見たことのある道に出ていた。
 神社につながる道だ。
「あ、八咫さん」
 用事がすんだのか、神社の石段を八咫が降りてくるところだった。
「どうした、帰ったはずでは」
「ちょっと寄り道を……いま焼き芋屋さんを探してたんですけど、見つけられなくて」
 百合と八咫の背後、移動販売車のスピーカーの音は遠ざかっていく。足がだるくて、もう追いかける気になれない。
「……それは?」
 眉を寄せ眉間にしわを入れ、八咫は百合の手元をにらんできた。
「麩菓子です。駄菓子ってお好きですか?」
 もう一本あることだし、そちらを渡そうとする。
「そうじゃなくて――」
 袋ごと見せると、受け取った八咫はパッケージをまじまじと見ている。
「……どこで」
「あっちのほうです。自動販売機がたくさんあるところがあって、そこの裏に駄菓子の……」
「食ったのか!」
 詰問口調に、百合は言葉を切った。
「これをどうして――いまか? 飲みこんだか?」
 顔色を変えた様子に、百合は驚いて口元をおさえた。
「ど、どうしたんですか? ふつうの駄菓子ですよ」
「吐け」
 麩菓子を持った手で、八咫は肩をつかんできた。耳に近い場所で、百合はくしゃりと麩菓子の潰れる軽い音を聞いた。
「ぜんぶ吐き出せ!」
「ま、待って――痛いです! は、吐くなんて……べつに傷んでなかったです、駄菓子って常温でも大丈夫だと……」
「そういう問題か! 水を――上の、神社の水を飲んで吐け!」
「吐くなんて無理です、そんな」
「大丈夫だ安心しろ、殴ってでも吐かせる!」
 口に指を入れてこようとする八咫から、百合は必死に身をよじる。
「い……いやですって!」
 なにか怒っているのかと思ったが、八咫は焦っているようだった。
「いままでだって、あそこのお菓子でおなか壊したことないですし、八咫さんどうしたんですか? 落ち着いてください!」
 八咫の手を振り払った拍子に、潰れた麩菓子が地面に落ちる。
 それを八咫は拾おうとせず、蒼白な面持ちで百合を見つめていた。彼がそんな態度を取る意味がわからない。
「や……八咫さん?」
「……いつから」
 八咫の目が百合の手元に落ちる。
 百合もまた目をやった。
 駄菓子のパッケージがあったはずが、百合の手はなにも持っていなかった。
「あれっ?」
「百合、いつからあそこの食いものを――何度……」
 彼の深刻そうな声に、百合は助けを求めるようにあたりを見回した。
 そこには誰もおらず、暗闇が周囲に立ちこめているばかりだった。
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