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6 枯れ屋敷 主たる名医が求めるものを
6-5 母は強し
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「機嫌が直るまで、おまえらはここで下を向いてじっとしているか? 八咫なら飢え死にはないだろうが、ほかはどうだろうなぁ。飢えて渇いて、さぞかし辛かろうなぁ」
牛の話していたことだ――許しがなければ、水堀はたやすく通過できない。
それには国刺当主の許しがなければならないのだろう。
八咫の周囲で黒い火花の音が幾重にもなり、迂闊に手をのばせば怪我をしてしまいそうなほどになっている。
そこには鹿野の火花が加わっていた。
鵺の全身の毛が帯電によって白く逆立っていく姿に、国刺当主は手を打って笑った。
「おお、鵺の雷鳴か、ずいぶんと恐ろしいことだな。だがそんなちびすけの雷など、なにかの役に立つのかな?」
揶揄する声に、鹿野が前傾姿勢を取った。
「ちびじゃないぞ!」
はじめて聞く、おさない声がした。
車を引いた牛もしゃべるのだ――鹿野が言葉を操ったところで、なにもおかしくない。
「ううんっ」
鹿野がもどかしげに身をよじる。その身体から火花と光がほとばしり、地から天へと稲光が奔っていった。
音はなく、だが衝撃が起きていた。
座敷のみならず、空間をふるわせて――消えていく。
「……残念だ、なにも起こらなかった」
さらに手を打って国刺当主がいい終わったとたんに、それは起こった。
大瀑布もかくや、という大音声が周囲を取り囲んだ――百合は耳を押さえ身を縮めていた。
障子が開け放たれていたため、一目瞭然だった。
――大量の水が落下してきたのだ。
「水塀が!」
屋敷のそこかしこから、女中たちの悲鳴と走りまわる音が聞こえてきた。
国刺当主の許しがなければくぐれず、屋敷と外界とを隔てるはずの水塀が崩壊したのだ。
百合は目を閉じたりはしなかった――驚愕のあまり、目を見開いていた。
鹿野の背後に落ちてきたのは、水ばかりではない。
屋敷を囲む枯れ枝の内側に、水もろとも落ちてきた巨大な黒い塊があった。
それはぞわりと蠢く。
とても大きい。まるでなにかの繭のような姿だったが、にぎっていたこぶしを開くようにして、抱えたなにかを解放しようとしていた。
「あ、あれ……」
怖気が走り、百合は顔を手で覆っていた。指の隙間からうかがっても見えるものは一緒で、開いた繭の内側には無数の首が生えていた。
その首たちは苦しげに顔を歪めている。
屋敷を徘徊していた、百合を一度連れ去ろうとしたあやかしだ。
起きたのは水塀の破壊だけではなかった。
あやかしの繭に包まれていたのは、巨大な獣である。
百合が巨大だと感じた牛よりさらに大きく、前肢や後ろ肢は柱ほども太い。犬か猫か鼠か、判断のできない姿を持っている。その足に踏みしめられた黒い絨毯は、なぜだかじわじわと縮んでいっていた。
「鹿野さん、あれは……」
似ている――百合はそばにいた鹿野を抱きしめた。
「百合、びびんなくていいからな!」
励ましてくれる、そのちいさな身体の持ち主によく似ている。
だが鹿野の可憐な姿とは似ても似つかないほど、巨大な獣は威厳に満ち、双眸を激しく燃え上がらせていた。
獣のまなざしが座敷に向けられた。
「なんの真似だ」
国刺当主に向け、鹿野が毛を逆立てる。
「おれの母ちゃんだったら、ここを駄目にするくらいのことできるんだぞ!」
「……鹿野さんのお母さん?」
獰猛そうな姿から、それが雄か雌かは判断できない。
――ここを駄目にする。
それは稚い言葉だが、その獣ならば確実に実行できそうだ。
「きよ、おまえ鵺になにをさせるつもりだ!」
「させるもなにも、私たちとあちらの鵺は初対面です」
「そんなわけがあるか!」
国刺当主は声を荒げたが、初対面であるのは事実だ。
巨大な鵺は足下の黒い首たちを踏み、上がった悲鳴をものともせずに近づいてくる。
「大きいなぁ」
功巳はなぜか居住まいを正し、正座をしている。
周囲に目をやれば、国刺の屋敷が深い川底にあるのだとわかった。
天上には水は一滴もない。そこにあった水が落下した。ずぶ濡れになった屋敷の垣根、見通せるその先の空間は、嵐のあとのようにぬかるんでいる。
泥濘の飛沫をまき散らし、鵺は近づいてきていた。
高い場所では、欄干から身を乗り出した冥府の住人たちが、わらわらと川底をのぞきこんで騒いでいる。急に川から水が消えたのだ、騒動になるのは無理もない。なにを話しているから皆目見当がつかないが、指をさし興奮気味に騒ぐ姿がずらりと並んでいる。
「こんな真似、許すと思うか」
歯ぎしりをする国刺当主の視線から守ろうと、百合は鹿野を抱えて身体を丸める。
「だって閉じこめて飢えさせるっていったもん。やられる前に叩き潰せって、母ちゃんがいってたもん。助けが必要だったら、俺になんかいえって。俺が声を出したら、助けにきてくれるって。母ちゃんはやさしいんだぞ」
巨大な鵺との距離が狭まると、その一歩一歩に地響きが起こって聞こえた。
「坊、母ちゃんはほかになんていったか覚えている?」
姿は巨大ながら、鵺の声は落ちついた女性のものだった。
「あとねぇ、やられたら徹底的に叩き潰せ」
「そのとおり。我が子が危険にさらされて、黙っていると思うか」
鵺のまなざしと声は、百合の頭上を越えて国刺当主に注がれ――どうやら功巳と清巳にも注がれていた。
「脅されて引く国刺ではないぞ」
「そうか、いいことだ。引かずにそこで見物していろ」
一歩鵺が足を踏み出す。
そして吼える。
吼え声はまさしく雷鳴だった。
巨大な鵺の周囲に無数の稲妻が出現し、空気を切り裂きながらあたりを駆け抜けた。
稲妻のいくつかが屋敷に直撃し、天井が崩落をはじめるのは瞬きひとつほどの時間のことだ。
「あぶな……」
思考停止しながらも百合は鹿野を強く抱きしめ、かばうように身体を丸めていた。ばらばらと大きな木材が振ってくる。足を崩していた百合にはそれ以上の身動きは取れず、目を閉じ身を強ばらせるしかなかった。
衝撃と激しい音が続き、肩や背に木片が当たる。しかし気がつけば百合はどこにも痛みを感じていなかった。
「……如月さん、大丈夫だよ」
牛の話していたことだ――許しがなければ、水堀はたやすく通過できない。
それには国刺当主の許しがなければならないのだろう。
八咫の周囲で黒い火花の音が幾重にもなり、迂闊に手をのばせば怪我をしてしまいそうなほどになっている。
そこには鹿野の火花が加わっていた。
鵺の全身の毛が帯電によって白く逆立っていく姿に、国刺当主は手を打って笑った。
「おお、鵺の雷鳴か、ずいぶんと恐ろしいことだな。だがそんなちびすけの雷など、なにかの役に立つのかな?」
揶揄する声に、鹿野が前傾姿勢を取った。
「ちびじゃないぞ!」
はじめて聞く、おさない声がした。
車を引いた牛もしゃべるのだ――鹿野が言葉を操ったところで、なにもおかしくない。
「ううんっ」
鹿野がもどかしげに身をよじる。その身体から火花と光がほとばしり、地から天へと稲光が奔っていった。
音はなく、だが衝撃が起きていた。
座敷のみならず、空間をふるわせて――消えていく。
「……残念だ、なにも起こらなかった」
さらに手を打って国刺当主がいい終わったとたんに、それは起こった。
大瀑布もかくや、という大音声が周囲を取り囲んだ――百合は耳を押さえ身を縮めていた。
障子が開け放たれていたため、一目瞭然だった。
――大量の水が落下してきたのだ。
「水塀が!」
屋敷のそこかしこから、女中たちの悲鳴と走りまわる音が聞こえてきた。
国刺当主の許しがなければくぐれず、屋敷と外界とを隔てるはずの水塀が崩壊したのだ。
百合は目を閉じたりはしなかった――驚愕のあまり、目を見開いていた。
鹿野の背後に落ちてきたのは、水ばかりではない。
屋敷を囲む枯れ枝の内側に、水もろとも落ちてきた巨大な黒い塊があった。
それはぞわりと蠢く。
とても大きい。まるでなにかの繭のような姿だったが、にぎっていたこぶしを開くようにして、抱えたなにかを解放しようとしていた。
「あ、あれ……」
怖気が走り、百合は顔を手で覆っていた。指の隙間からうかがっても見えるものは一緒で、開いた繭の内側には無数の首が生えていた。
その首たちは苦しげに顔を歪めている。
屋敷を徘徊していた、百合を一度連れ去ろうとしたあやかしだ。
起きたのは水塀の破壊だけではなかった。
あやかしの繭に包まれていたのは、巨大な獣である。
百合が巨大だと感じた牛よりさらに大きく、前肢や後ろ肢は柱ほども太い。犬か猫か鼠か、判断のできない姿を持っている。その足に踏みしめられた黒い絨毯は、なぜだかじわじわと縮んでいっていた。
「鹿野さん、あれは……」
似ている――百合はそばにいた鹿野を抱きしめた。
「百合、びびんなくていいからな!」
励ましてくれる、そのちいさな身体の持ち主によく似ている。
だが鹿野の可憐な姿とは似ても似つかないほど、巨大な獣は威厳に満ち、双眸を激しく燃え上がらせていた。
獣のまなざしが座敷に向けられた。
「なんの真似だ」
国刺当主に向け、鹿野が毛を逆立てる。
「おれの母ちゃんだったら、ここを駄目にするくらいのことできるんだぞ!」
「……鹿野さんのお母さん?」
獰猛そうな姿から、それが雄か雌かは判断できない。
――ここを駄目にする。
それは稚い言葉だが、その獣ならば確実に実行できそうだ。
「きよ、おまえ鵺になにをさせるつもりだ!」
「させるもなにも、私たちとあちらの鵺は初対面です」
「そんなわけがあるか!」
国刺当主は声を荒げたが、初対面であるのは事実だ。
巨大な鵺は足下の黒い首たちを踏み、上がった悲鳴をものともせずに近づいてくる。
「大きいなぁ」
功巳はなぜか居住まいを正し、正座をしている。
周囲に目をやれば、国刺の屋敷が深い川底にあるのだとわかった。
天上には水は一滴もない。そこにあった水が落下した。ずぶ濡れになった屋敷の垣根、見通せるその先の空間は、嵐のあとのようにぬかるんでいる。
泥濘の飛沫をまき散らし、鵺は近づいてきていた。
高い場所では、欄干から身を乗り出した冥府の住人たちが、わらわらと川底をのぞきこんで騒いでいる。急に川から水が消えたのだ、騒動になるのは無理もない。なにを話しているから皆目見当がつかないが、指をさし興奮気味に騒ぐ姿がずらりと並んでいる。
「こんな真似、許すと思うか」
歯ぎしりをする国刺当主の視線から守ろうと、百合は鹿野を抱えて身体を丸める。
「だって閉じこめて飢えさせるっていったもん。やられる前に叩き潰せって、母ちゃんがいってたもん。助けが必要だったら、俺になんかいえって。俺が声を出したら、助けにきてくれるって。母ちゃんはやさしいんだぞ」
巨大な鵺との距離が狭まると、その一歩一歩に地響きが起こって聞こえた。
「坊、母ちゃんはほかになんていったか覚えている?」
姿は巨大ながら、鵺の声は落ちついた女性のものだった。
「あとねぇ、やられたら徹底的に叩き潰せ」
「そのとおり。我が子が危険にさらされて、黙っていると思うか」
鵺のまなざしと声は、百合の頭上を越えて国刺当主に注がれ――どうやら功巳と清巳にも注がれていた。
「脅されて引く国刺ではないぞ」
「そうか、いいことだ。引かずにそこで見物していろ」
一歩鵺が足を踏み出す。
そして吼える。
吼え声はまさしく雷鳴だった。
巨大な鵺の周囲に無数の稲妻が出現し、空気を切り裂きながらあたりを駆け抜けた。
稲妻のいくつかが屋敷に直撃し、天井が崩落をはじめるのは瞬きひとつほどの時間のことだ。
「あぶな……」
思考停止しながらも百合は鹿野を強く抱きしめ、かばうように身体を丸めていた。ばらばらと大きな木材が振ってくる。足を崩していた百合にはそれ以上の身動きは取れず、目を閉じ身を強ばらせるしかなかった。
衝撃と激しい音が続き、肩や背に木片が当たる。しかし気がつけば百合はどこにも痛みを感じていなかった。
「……如月さん、大丈夫だよ」
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