碧海のサルティーナ

あんさん

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第1章 邂逅

第3話 出発準備

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「名前は?何と呼ばせて貰えばいい?」

 諦めた様に首を一振りしてやれやれのポーズの後、ビジネスモードに切り替え、少女に声を掛けた。
 カリーナがここまで言うのは、俺への信用もあるのだろうからこれ以上の抵抗は諦めた。

「え?ああ、そうですね……では、アリスでお願いします」

 清々しいまでの偽名を、先程と同じく見た目を裏切らない凛と響く声で返事する。話し方だけで育ちの良さがうかがえる返答だった。
 何故そんな娘がそんなにお上品な仕事などしていない俺に頼んでくるのか分からない。
 少し間があったので名前は今考えた偽名かも知れない。本当に厄介事じゃないのだろうなと不安になる…

「OK、アリスさん。幾つか細かいことを打ち合わせしたいので、そこに掛けてくれないか」

 勝手に応接用のソファーを指定したが、無茶振りしたのだからそれくらいいいだろう。
 カリーナは満足そうに頷きながら、アリスにソファーに掛ける様に促す。立ち姿だけでなく座っている姿も隙が無かった。
 その隣にカリーナが腰を掛けるが、見張ってなくとも騙すような真似はプライドに掛けてしないわ。

「俺はフィンだ。仕事上のコードネームはガネットシロカツオドリで通っている。どちらでも好きな方で呼んでくれればいい」

「はい、フィン様」

「……様は要らない、フィンでいい」

 流石に『様』で呼ばれるのは性に合わなかった。そんなにお上品な育ちはしていない。

「はい、ではフィンさんで」

「……まぁいい、では先ず目的地から聞こうか。諸島サルティーナとは聞いたがどの島になる?」

「エレミーナよ。それもあって彼方を呼んだの」

 カリーナがニヤっとしながら横から答える。エレミーナは諸島の中で三番目に大きな島で、北寄りにあるため北方大陸の関係者が多く住んでいる。別荘やバカンスの為のホテルが充実しているのも特徴だ。
 そしてわが社ガネット・エア・デリバリー・サービス――と言っても個人経営だが――が拠点を構えている島だった。

「OK判った。エレミーナなら確かに俺の都合は良い。ただ機体は今メンテしているから出発まで少しかかる。諸島に帰るにはそれから飛んだとして到着は夜になる。飛行機は乗ったことがあるかい?」

「いいえ、初めてです」

「なら安全を考えれば日中のフライトがお勧めだ。初めての飛行で夜間の着水はちょっとハードルが高いんだ。それに極偶に空間失調という状態でパニックになる場合があって勧められない」

 暗くなる水面に降下していくのは結構な恐怖を伴うので初心者にはお勧めできないのだ。もっとも平気な奴も大勢いるのでこればかりは経験してみないと判らない。だが、明らかなお嬢さん相手にそれを試すのは遠慮したい。

「なので急ぎでなければ出発は明日の朝にしようと思うが構わないか?昼食は少し遅めだが島で取れるだろう」

「…そうなのですね。早い方が望ましいですが、明日でも問題ありません。よろしくお願いします」

「で、次は料金だが半分は前払い、残りは到着払いだ。何かあっても前金は返却しない。金額は聞いているか?」

「おおよそは聞いています。もっとも交渉次第だとも聞いております」

 アリスはにっこりしながら返事を返す。簡単に騙せる感じでは無さそうだ。

「本来であれば呼び出されているので往復分を請求するのだが、カリーナの紹介なので片道分でいい。
 北大陸から諸島サルティーナまでは貸し切りで基本金貨五枚、荷物が標準規格一つ辺り金貨一枚相場だがいいか?」

 標準規格は貨物輸送の為に規定された大きさの規格で一辺百七十センチメール程の正方形だ。もっとも飛行機によっては正方形では載せられないので、三辺合計で五メートルであれば標準と同等に扱かわれていた。
 重さは二百キログラム未満となっている。

「判りました。荷物は旅行用トランクだけですので、金貨六枚でよろしかったでしょうか?」

「…ああ、それで構わない」

 金貨一枚あれば一般庶民の家族五人が二カ月暮らせるので、決して安い金額ではない。
 表情一つ変えずにっこりと納得したのはちょっと予想を外した。正規航路の一等席の三倍だから、流石に高いというかと思ったのだが…

(やはり良い所のお嬢さんなんだろうな。それにしてもお忍びなのは何故だ…)

「あとカリーナ、明日アリスさんに着せるフライト服と靴を準備してくれ。そのドレスじゃ汚れちまう」

「判ったわ、まかされて」

「頼むぞ、服は次にここに来るときに返す」

「何なら代金はツケにしておいてもいいわよ」

「…勘弁してくれ…」

「アリスさんはその服を着て、明日の朝六時にココに来てくれ。場所はこれで判るか?」

 メモ書きで待ち合わせの場所を示す。

「ええ、ここは先程飛行機を泊めていた場所ですよね」

「ああ、よく知っているな」

「ちょうど先程の着水を見ていました。すごく滑らかでちょっと印象的でした」

「そうか、ありがとう」

(飛行機は初めてと言う割にはよく見てるな…)

「朝食は軽く済ますこと。水分は控えめにすること。トイレもすましておいてくれ」

 そして最大の懸念を口にする。

「トイレは無いわけではないのだがオープン席だ…あーなのでお嬢さんには失礼だが心配ならおむつは準備する…」

(これがあるから旅客は嫌なんだよ、カリーナの野郎め…)

「お嬢さんではなくアリスで!」

 と言われた後の沈黙が気まずかった。


 ◇◇◇◇◇


「すまない、でアリスさんそういう事なので意識しておいてくれ」

「…判りました、大丈夫です」

 暫くしてやっと答えたもののさすがにちょっとおむつは恥ずかしい。と言って男性の前で(一応後ろになるので直接見えないそうだが)トイレをするなど考えられない。

(旅客便ではなく足のつきにくい貨物輸送の小型機を選択したのは、ちょっと失敗しちゃったかも?)

 そう少し後悔をするが仕方ないわと腹を括る。

「OK、アリスさん、では短い間だけどよろしく」

「はい、よろしくお願いします」

 この場合は握手したほうが良いわよね、と手を差し出す。大きな手には操縦桿を握り続けていたのだろう、硬いタコがあった。

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