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第1話 たい焼き屋『こちょう』①
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私の職場はヤムヤミーという製菓会社である。
子供に安心、安全、美味しいを提供することを掲げた会社で、私は研究職を志望していた。子供時代の定番に、そしていつか親になった時にも自分の子供に食べさせたい。そんなお菓子を開発することを夢見ていたのだ。
最初の挫折は、入社する直前の二月頃のこと。
内定式を終え、入社する旨の誓約書を書いた後、通知された配属先は営業部であった。元来人見知りの私が、もっとも恐れていた事態だった。
確かに総合職として入社試験は受けたし、面接では、
「どの部署に配属されるか分かりませんがよろしいですか?」
と聞かれた。ここで肯定しない就活生がいるだろうか。それも、すでに何通もお祈りメールをもらい切羽詰まった就活生が。
しかし、その時はまだ前向きに捉えられた方だ。毎年、部署移動願いを出すこともできるというし、営業で蓄えた知識をいつか研究職でも活かせたらいい、と。
そう、思いながら営業として働いていたのだが……
「今川さんさぁ、やる気あるの?」
「……」
ない、と言ったらどうなるのだろう。実行しなくても何となく予想はできる。きっと、この無限ループのお説教に油を注ぐだけだ。
「嘘も方便って言うだろ? 正しいことだけ並べたところで相手も人間だからさ、結局受注取れなきゃ意味ないわけ。分かる?」
「はい……」
何がはい、なのか自分でももうよく分からない。入社して三年、「はい」が私の鳴き声になってしまったのかもしれない。記録に残らない残業時間と、休日も鳴りやまない携帯電話、そして上司からの要領を得ないお説教。
俯きながら視線だけを上げた時、ふと課長の後ろの窓に映る自分の姿が視界に入った。
髪には艶がなく、肌もカサついて化粧乗りが悪い。目元のクマも、もうコンシーラーじゃ隠せなくなってきた。最後にぐっすり眠ったのは、いつだっただろう。
「君は女なんだから、もっと愛嬌良くするだけでも違うんじゃない?」
「……はい」
話の長い課長の説教を受けているのは、私だけではない。それに、来年こそ移動願いが叶うかもしれないから、と自分に言い聞かせていた。
「営業から研究職なんて、ほぼ可能性ゼロなのにな」
そんな課長の声が聞こえてきて、思わず物影に隠れた。気付かれていないのか、課長と私の同期である佐久間くんの会話は続く。
「え、どうしてゼロなんですか?」
「前例がないからな。それに、営業だって万年人手不足なんだ。そう簡単に移動なんてさせられないよ」
「それ、今川さんに伝えてあげた方が……」
「伝えてどうするんだよ。じゃあ辞めます、って言われても困るだろ?」
乾いた笑いと共に上司はそう吐き捨てていた。
その日の帰り道、排水溝の金網にパンプスのヒールを引っかけ、それはもう無様に転んだ。パキンと綺麗に折れたヒールと、ストッキングの下で滲む血を見た瞬間、痛みを感じるよりも先に涙が溢れてきた。
どうしてここで働いているんだろう。
私は今、何をしているんだろう。
いつの間にか、私は自分がどこを歩いているのかも分からなくなっていた。
「結貴」
はっと自分の名前を呼ぶおじいちゃんの声に顔を上げる。
「ごめん、ちょっと考え込んじゃった……」
笑みを取り繕おうとしても、どこか不格好になっているような気がした。そんな私にわずかに目を細めるおじいちゃんは、穏やかにたい焼き屋への勧誘を再開する。
「バイト代は出すし、たい焼きも余った分は食べていい。甘い物は好きだったろ? ついでに、店の上にある家も儂が入院してる間は好きに使ってくれていいぞ?」
「え、本当?」
こちょうのたい焼きは好きだ。それに何より、今住んでいる場所とは別に一時的とは言え住処を得られるという条件は、この上なく魅力的だった。
「どうじゃ? 今日だけでも少し考えてくれんか?」
「……」
最後はおねだりするかのように、手の平を合わせながら頭を小さく下げる。ちょっとひょうきんで、強引で、でも時折こういう愛嬌を見せてくるのが世の女性たちに受ける理由の一つなのかもしれない。
目の前で銀色の鍵をちらつかされる。回転しながら光を反射する鍵を、おずおずと掴んだ。
「ひとまず、着替えとか必要でしょ。そのために、預かるだけだから」
「うんうん、よろしくの」
おじいちゃんを見舞った帰り道、気付けば私はたい焼き屋『こちょう』を前にしていた。
私立橘樹大学というマンモス校と、その附属高等学校により学生たちで賑わうたちばな商店街の中に、こちょうはある。
車一台分ほどのレンガ道を挟んだ向かいにはスーパーがあり、店の前を老若男女さまざまな人々が行き交っていた。
木造古屋の一階に入っているお店には道に面した窓があり、その窓の上に掛かる小紫色の布は『たい焼き こちょう』と白く文字が抜かれている。暖簾をはためかせる風が、焼いた小麦粉とあんこの香ばしさをレンガ道へと漂わせていた。
夕食前でお腹を空かせた人々は、誰もがその暖簾を振り返る。店内で流しているラジオなのか、最近話題のアイドルの曲がこの時間の喧騒をさらに華やがせていた。
こちょうを訪れるのは、就職が決まったと祖父に報告しに来た時以来だろうか。とりあえず、と就職祝いに出来立てのたい焼きをおじいちゃんはご馳走してくれた。その時のあんこの甘さを思い出すと、嬉しさと共に今の自分の姿が不甲斐なくて胃が重くなる。
「おい」
「え?」
子供に安心、安全、美味しいを提供することを掲げた会社で、私は研究職を志望していた。子供時代の定番に、そしていつか親になった時にも自分の子供に食べさせたい。そんなお菓子を開発することを夢見ていたのだ。
最初の挫折は、入社する直前の二月頃のこと。
内定式を終え、入社する旨の誓約書を書いた後、通知された配属先は営業部であった。元来人見知りの私が、もっとも恐れていた事態だった。
確かに総合職として入社試験は受けたし、面接では、
「どの部署に配属されるか分かりませんがよろしいですか?」
と聞かれた。ここで肯定しない就活生がいるだろうか。それも、すでに何通もお祈りメールをもらい切羽詰まった就活生が。
しかし、その時はまだ前向きに捉えられた方だ。毎年、部署移動願いを出すこともできるというし、営業で蓄えた知識をいつか研究職でも活かせたらいい、と。
そう、思いながら営業として働いていたのだが……
「今川さんさぁ、やる気あるの?」
「……」
ない、と言ったらどうなるのだろう。実行しなくても何となく予想はできる。きっと、この無限ループのお説教に油を注ぐだけだ。
「嘘も方便って言うだろ? 正しいことだけ並べたところで相手も人間だからさ、結局受注取れなきゃ意味ないわけ。分かる?」
「はい……」
何がはい、なのか自分でももうよく分からない。入社して三年、「はい」が私の鳴き声になってしまったのかもしれない。記録に残らない残業時間と、休日も鳴りやまない携帯電話、そして上司からの要領を得ないお説教。
俯きながら視線だけを上げた時、ふと課長の後ろの窓に映る自分の姿が視界に入った。
髪には艶がなく、肌もカサついて化粧乗りが悪い。目元のクマも、もうコンシーラーじゃ隠せなくなってきた。最後にぐっすり眠ったのは、いつだっただろう。
「君は女なんだから、もっと愛嬌良くするだけでも違うんじゃない?」
「……はい」
話の長い課長の説教を受けているのは、私だけではない。それに、来年こそ移動願いが叶うかもしれないから、と自分に言い聞かせていた。
「営業から研究職なんて、ほぼ可能性ゼロなのにな」
そんな課長の声が聞こえてきて、思わず物影に隠れた。気付かれていないのか、課長と私の同期である佐久間くんの会話は続く。
「え、どうしてゼロなんですか?」
「前例がないからな。それに、営業だって万年人手不足なんだ。そう簡単に移動なんてさせられないよ」
「それ、今川さんに伝えてあげた方が……」
「伝えてどうするんだよ。じゃあ辞めます、って言われても困るだろ?」
乾いた笑いと共に上司はそう吐き捨てていた。
その日の帰り道、排水溝の金網にパンプスのヒールを引っかけ、それはもう無様に転んだ。パキンと綺麗に折れたヒールと、ストッキングの下で滲む血を見た瞬間、痛みを感じるよりも先に涙が溢れてきた。
どうしてここで働いているんだろう。
私は今、何をしているんだろう。
いつの間にか、私は自分がどこを歩いているのかも分からなくなっていた。
「結貴」
はっと自分の名前を呼ぶおじいちゃんの声に顔を上げる。
「ごめん、ちょっと考え込んじゃった……」
笑みを取り繕おうとしても、どこか不格好になっているような気がした。そんな私にわずかに目を細めるおじいちゃんは、穏やかにたい焼き屋への勧誘を再開する。
「バイト代は出すし、たい焼きも余った分は食べていい。甘い物は好きだったろ? ついでに、店の上にある家も儂が入院してる間は好きに使ってくれていいぞ?」
「え、本当?」
こちょうのたい焼きは好きだ。それに何より、今住んでいる場所とは別に一時的とは言え住処を得られるという条件は、この上なく魅力的だった。
「どうじゃ? 今日だけでも少し考えてくれんか?」
「……」
最後はおねだりするかのように、手の平を合わせながら頭を小さく下げる。ちょっとひょうきんで、強引で、でも時折こういう愛嬌を見せてくるのが世の女性たちに受ける理由の一つなのかもしれない。
目の前で銀色の鍵をちらつかされる。回転しながら光を反射する鍵を、おずおずと掴んだ。
「ひとまず、着替えとか必要でしょ。そのために、預かるだけだから」
「うんうん、よろしくの」
おじいちゃんを見舞った帰り道、気付けば私はたい焼き屋『こちょう』を前にしていた。
私立橘樹大学というマンモス校と、その附属高等学校により学生たちで賑わうたちばな商店街の中に、こちょうはある。
車一台分ほどのレンガ道を挟んだ向かいにはスーパーがあり、店の前を老若男女さまざまな人々が行き交っていた。
木造古屋の一階に入っているお店には道に面した窓があり、その窓の上に掛かる小紫色の布は『たい焼き こちょう』と白く文字が抜かれている。暖簾をはためかせる風が、焼いた小麦粉とあんこの香ばしさをレンガ道へと漂わせていた。
夕食前でお腹を空かせた人々は、誰もがその暖簾を振り返る。店内で流しているラジオなのか、最近話題のアイドルの曲がこの時間の喧騒をさらに華やがせていた。
こちょうを訪れるのは、就職が決まったと祖父に報告しに来た時以来だろうか。とりあえず、と就職祝いに出来立てのたい焼きをおじいちゃんはご馳走してくれた。その時のあんこの甘さを思い出すと、嬉しさと共に今の自分の姿が不甲斐なくて胃が重くなる。
「おい」
「え?」
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