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序章
6幕 伝説作りました
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彼等に隙が生じるとしたなら―――――角が割れる一刹那。
果たして。
数多の視線の先で。
パンッ、風船が割れるような音を立て、角が割れ砕ける。
とたん、それは灰となった。
灰色の細かな砂粒のようになり、オズヴァルトの指の隙間から落ちたそれらは、床に届く前に消失する。
一拍の、死んだような沈黙が落ち、瞬間。
―――――ワッ!
魔人たちが、一斉に歓声を上げた。
湧きあがる、歓喜の渦。
同時に、魔族の拘束も消える。隙を逃さず、床の上を虫のように這って魔族が逃れようとした、刹那。
―――――ドッと、天井から光が降った。
明かり、ではない。
目もくらむような、鮮やかなひかりだ。
まるで、夜の終わり、差し込む曙光のように眩い。
この時、遠くからゼルキアンの領地を見ていた者たちは、指さして叫んだ。
天から、光の御柱が降った、と。
それは。
災厄を滅ぼした者に、天が権能を与える時に現れる兆候。
その光景に、大陸中が震撼した。
即ち。
英雄が目覚め、新たな天人が誕生した、と。
のちの世にまで語り草になるその光景の中心にいた人物は。
オズヴァルト・ゼルキアン。
彼は、恐ろしく端正だが、冷淡さが浮き彫りになった情が薄い顔で、跪く魔人たちを見下ろしていた。
魔族の姿は、そこにはない。
あまりに強い光には、耐性のない一族だ。蒸発したのだろう。
いや、正直なところ。
魔人たちにとって、魔族などもうどうでもよかった。興味もない。
「…我が君」
跪いた魔人たちの中、かつて執事だった男が、歓喜に満ちた顔を上げた。
「完全なるご帰還、お待ち申し上げておりました」
万感の思いを込めて、言葉を紡ぐ。
栗色の髪と瞳の、やさしげな面立ちの男である。
見下ろす主人とは、対照的にぬくもりのある雰囲気を持っていた。
魔族に憑依されながら、オズヴァルト・ゼルキアンは時に正気に戻っていた。
だが、完全にではない。
魔族が眠りつにいた隙をつくようにだ。
しかし、今。
オズヴァルトはそこにいる。他の誰の都合を気にする気配もなく。
そして、魔人たちの身に分け与えられた彼の命の質が、完全に変わっていた。
人間のものでもなく、魔族のものでもなく、…―――――おそらくは、天人のものに。
それは力強く温かく、魔人たちの全身を巡っていた。
分け与えられた命は、元の持ち主の命とのつながりだ。
本来の持ち主の質が変われば、つながるものが持つ質もまた変わる。
―――――ここに誕生したのは、歴史上、類を見ない、天人の眷属となった魔人たちだ。
魔族が自身の命を惜しみ、憑依した肉体の命を使ったことが、この、世にも稀な、前例のない事態を引き起こしたと言える。
魔人たちを代表し、男は主人へ頭を再度下げ、覚悟を決めた声で言った。
「我ら一同、いかなる罰でもお受けします。死ねと仰せあるならば、今すぐ心臓を潰しましょう」
「何に対する罰だね」
男の申し出に、オズヴァルトは驚いた様子もない。
予想していたと言いたげに、低く尋ねる。
男は苦渋に満ちた声で答えた。
「…逃げろ、と。―――――災厄が現れた日、二度と戻るなと言われたにもかかわらず、我らは城へ戻りました」
そう、オズヴァルトは逃がしたのだ。
城の者も、妻子も。
災厄を引き寄せる直前に、城から放り出された。
彼等は、ゼルキアンの領地から、叩き出された。
他の民と同じように。
―――――他国にある地母神の神殿を頼り、二度と戻ってはならない。
ゼルキアンの地が信仰する狩猟の女神シューヤの母である地母神の神殿に、ゼルキアンの家門は毎年莫大な寄付金をおさめていた。
その縁を頼れ、とオズヴァルトは命じたのだ。
厳格に。なのに。
彼等は、引き返した。城へ。
今日まで、そのことは誰も触れなかったが。
災厄の日、主人の命に背き、彼等がゼルキアン城に戻ったのは、罰されてしかるべき行いだ。
神妙に罰を待つ―――――そんな姿勢の魔人たちを見下ろして。
オズヴァルトは、一言呟いた。
「…罰は、保留する」
息を呑んだ一同が顔を上げた時、
「お前たちを人間に戻す時まで」
言ったオズヴァルトの表情を、一瞬痛みが掠めたようだ。
気のせいだろうか、とそれに魔人たちが目を凝らすと同時に、
「―――――待たせて、すまない」
オズヴァルトは言葉少なに呟き、踵を返す。
たった、それだけで。
魔人たちの、胸が温かくなった。
この数年、ずっと凍えていた心が、一瞬で春の日差しを受けた氷のように溶けていく。
待っていたのだ。
この方を。
…待って、いたのだ。
ああ、今、相応しい言葉は、一つしかない。
彼等は心を込めて言った。
「おかえりなさいませ」
異口同音に紡がれた言葉に、向こうを向いた主人が、微笑んだ気がした。次いで。
「…ただいま、帰った」
低く、感情は薄いけれど、待ち望んでいた言葉が返る。
幾人かが、泣き出した。
無理もない。
その日―――――オズヴァルト・ゼルキアンは天人となった。
天人は、老いず、長い寿命を得るという。
長寿となる理由は、単純明快。
救った命の数の分、天人の命数は増えると言われている。
オズヴァルトの命は魔人たちに分け与えられたが、天人となることで、それは彼にとってほとんど痛手とならない結果となった。
そして、眷属の魔人は。
主人と同じだけの寿命を得ることになる。
そう、これから、魔人たちは主と共に長く暮らせるわけだ。
時間はたっぷりあった。
魔人たちの主人が言う。
「…少し休む。次目覚めるまでの間、君たちはいつも通りに」
自室に向かうその姿を見送る執事の唇に、優し気な笑みが浮かんだ。
「仰せのままに」
その言葉を背に、自室に戻ったオズヴァルトは、
「ふむ」
鼻を鳴らし、寝台周辺に強固な結界を張った。
見る者が見れば、それは棺と感じたかもしれない。
どんな物理攻撃も弾き、魔術も通さない、もっと言えば蟻一匹通さない結界に「こんなものか」と独り言ち、オズヴァルトは寝台に横たわった。
目を閉じたオズヴァルトの意識はすぐに消え失せる。刹那。
―――――世界すら異なる別の場所にいた男が、目を開けた。
場所は、片田舎。
墓地の外。
舗装もされていないから、風が強い日は土埃が舞う駐車場。
春の昼下がり、彼は、そこにある、古びた備え付けのベンチに腰掛けていた。
すぐ近くに停めているママチャリが、彼の愛車だ。
十数年の年季物で、まだまだ使えそうである。
以前は妻愛用だった。
ワイシャツにきちんとネクタイをしめた格好は、くたびれた雰囲気はあるものの清潔で、れっきとした社会人であることを示している。
彼の名は、冬見一平。
今年、不惑の年齢になった。
ごく普通の人物だが、ただ、いかにも常識人、アニメや漫画の話などしても一つも理解できないと言い出しそうなお堅い雰囲気があった。…にもかかわらず。
「見ていたかね、オズくん」
見かけ通り、想像通りの、お堅そうな表情と態度で、心配そうに顔を覗き込んでいた足元の大型犬―――――精悍な顔つきと逞しい体躯のその生き物は狼である―――――に話しかける。
「問題は片付いたようだから、もうあちらに戻っても差し支えはないのではないかな」
雪のようにまっしろな体毛の狼は、精悍な顔を少し傾けた。
その両眼は、紫とも青とも取れる、霊妙な色彩。
この狼の正体は、オズヴァルト・ゼルキアン当人の、魂が形となったものである。
『見ていた。実に、見事。さすがは、イッペーだ。しかしことは余計複雑になったようだ』
狼の口は少しも動いていない。
だが、確かに返事は返った。一平の脳裏へ直接。
『今日のことで』
気のせいか、狼の表情に浮かんでいるのは困惑。
『私の身体と一平の魂が天人の資格を得てしまった』
―――――その様子では、何か、新たな問題が生じたようだが。
つい、一平は難しい顔になった。
問題は解決したはずだ。
なのに、狼の様子では、だめなようだ。
いまいち、状況が読めない。
要するに。
たった今、別の世界で災厄なるものの欠片は消滅した。…消滅させたのは。
一平の足元にいる狼が、本来の持ち主である肉体であり。
中に入っていた魂は―――――平凡なサラリーマンに過ぎない冬見一平である。
ちなみに、役職などない、未だ平社員であった。
確かに、ちょっとややこしいかもしれない。
だが、結局どこがどう問題なのか。
風呂敷で包んだお弁当箱を、ママチャリの駕籠に入れながら、渋面の一平は真面目な声で尋ねた。
「もっと詳しく教えてくれるかね」
『具体的に何をだね』
「問題点はどこにあるのかだよ。天人とは何かな」
『要するにイッペーはたった今』
狼のしっぽがふさふさ揺れる。
『伝説を作ったのだ』
一平は空を見上げた。今日もいい天気だ。目を細める。
「初耳だねえ」
『ついさっきだからなあ』
どこかで、のんびり鶯が鳴いた。
果たして。
数多の視線の先で。
パンッ、風船が割れるような音を立て、角が割れ砕ける。
とたん、それは灰となった。
灰色の細かな砂粒のようになり、オズヴァルトの指の隙間から落ちたそれらは、床に届く前に消失する。
一拍の、死んだような沈黙が落ち、瞬間。
―――――ワッ!
魔人たちが、一斉に歓声を上げた。
湧きあがる、歓喜の渦。
同時に、魔族の拘束も消える。隙を逃さず、床の上を虫のように這って魔族が逃れようとした、刹那。
―――――ドッと、天井から光が降った。
明かり、ではない。
目もくらむような、鮮やかなひかりだ。
まるで、夜の終わり、差し込む曙光のように眩い。
この時、遠くからゼルキアンの領地を見ていた者たちは、指さして叫んだ。
天から、光の御柱が降った、と。
それは。
災厄を滅ぼした者に、天が権能を与える時に現れる兆候。
その光景に、大陸中が震撼した。
即ち。
英雄が目覚め、新たな天人が誕生した、と。
のちの世にまで語り草になるその光景の中心にいた人物は。
オズヴァルト・ゼルキアン。
彼は、恐ろしく端正だが、冷淡さが浮き彫りになった情が薄い顔で、跪く魔人たちを見下ろしていた。
魔族の姿は、そこにはない。
あまりに強い光には、耐性のない一族だ。蒸発したのだろう。
いや、正直なところ。
魔人たちにとって、魔族などもうどうでもよかった。興味もない。
「…我が君」
跪いた魔人たちの中、かつて執事だった男が、歓喜に満ちた顔を上げた。
「完全なるご帰還、お待ち申し上げておりました」
万感の思いを込めて、言葉を紡ぐ。
栗色の髪と瞳の、やさしげな面立ちの男である。
見下ろす主人とは、対照的にぬくもりのある雰囲気を持っていた。
魔族に憑依されながら、オズヴァルト・ゼルキアンは時に正気に戻っていた。
だが、完全にではない。
魔族が眠りつにいた隙をつくようにだ。
しかし、今。
オズヴァルトはそこにいる。他の誰の都合を気にする気配もなく。
そして、魔人たちの身に分け与えられた彼の命の質が、完全に変わっていた。
人間のものでもなく、魔族のものでもなく、…―――――おそらくは、天人のものに。
それは力強く温かく、魔人たちの全身を巡っていた。
分け与えられた命は、元の持ち主の命とのつながりだ。
本来の持ち主の質が変われば、つながるものが持つ質もまた変わる。
―――――ここに誕生したのは、歴史上、類を見ない、天人の眷属となった魔人たちだ。
魔族が自身の命を惜しみ、憑依した肉体の命を使ったことが、この、世にも稀な、前例のない事態を引き起こしたと言える。
魔人たちを代表し、男は主人へ頭を再度下げ、覚悟を決めた声で言った。
「我ら一同、いかなる罰でもお受けします。死ねと仰せあるならば、今すぐ心臓を潰しましょう」
「何に対する罰だね」
男の申し出に、オズヴァルトは驚いた様子もない。
予想していたと言いたげに、低く尋ねる。
男は苦渋に満ちた声で答えた。
「…逃げろ、と。―――――災厄が現れた日、二度と戻るなと言われたにもかかわらず、我らは城へ戻りました」
そう、オズヴァルトは逃がしたのだ。
城の者も、妻子も。
災厄を引き寄せる直前に、城から放り出された。
彼等は、ゼルキアンの領地から、叩き出された。
他の民と同じように。
―――――他国にある地母神の神殿を頼り、二度と戻ってはならない。
ゼルキアンの地が信仰する狩猟の女神シューヤの母である地母神の神殿に、ゼルキアンの家門は毎年莫大な寄付金をおさめていた。
その縁を頼れ、とオズヴァルトは命じたのだ。
厳格に。なのに。
彼等は、引き返した。城へ。
今日まで、そのことは誰も触れなかったが。
災厄の日、主人の命に背き、彼等がゼルキアン城に戻ったのは、罰されてしかるべき行いだ。
神妙に罰を待つ―――――そんな姿勢の魔人たちを見下ろして。
オズヴァルトは、一言呟いた。
「…罰は、保留する」
息を呑んだ一同が顔を上げた時、
「お前たちを人間に戻す時まで」
言ったオズヴァルトの表情を、一瞬痛みが掠めたようだ。
気のせいだろうか、とそれに魔人たちが目を凝らすと同時に、
「―――――待たせて、すまない」
オズヴァルトは言葉少なに呟き、踵を返す。
たった、それだけで。
魔人たちの、胸が温かくなった。
この数年、ずっと凍えていた心が、一瞬で春の日差しを受けた氷のように溶けていく。
待っていたのだ。
この方を。
…待って、いたのだ。
ああ、今、相応しい言葉は、一つしかない。
彼等は心を込めて言った。
「おかえりなさいませ」
異口同音に紡がれた言葉に、向こうを向いた主人が、微笑んだ気がした。次いで。
「…ただいま、帰った」
低く、感情は薄いけれど、待ち望んでいた言葉が返る。
幾人かが、泣き出した。
無理もない。
その日―――――オズヴァルト・ゼルキアンは天人となった。
天人は、老いず、長い寿命を得るという。
長寿となる理由は、単純明快。
救った命の数の分、天人の命数は増えると言われている。
オズヴァルトの命は魔人たちに分け与えられたが、天人となることで、それは彼にとってほとんど痛手とならない結果となった。
そして、眷属の魔人は。
主人と同じだけの寿命を得ることになる。
そう、これから、魔人たちは主と共に長く暮らせるわけだ。
時間はたっぷりあった。
魔人たちの主人が言う。
「…少し休む。次目覚めるまでの間、君たちはいつも通りに」
自室に向かうその姿を見送る執事の唇に、優し気な笑みが浮かんだ。
「仰せのままに」
その言葉を背に、自室に戻ったオズヴァルトは、
「ふむ」
鼻を鳴らし、寝台周辺に強固な結界を張った。
見る者が見れば、それは棺と感じたかもしれない。
どんな物理攻撃も弾き、魔術も通さない、もっと言えば蟻一匹通さない結界に「こんなものか」と独り言ち、オズヴァルトは寝台に横たわった。
目を閉じたオズヴァルトの意識はすぐに消え失せる。刹那。
―――――世界すら異なる別の場所にいた男が、目を開けた。
場所は、片田舎。
墓地の外。
舗装もされていないから、風が強い日は土埃が舞う駐車場。
春の昼下がり、彼は、そこにある、古びた備え付けのベンチに腰掛けていた。
すぐ近くに停めているママチャリが、彼の愛車だ。
十数年の年季物で、まだまだ使えそうである。
以前は妻愛用だった。
ワイシャツにきちんとネクタイをしめた格好は、くたびれた雰囲気はあるものの清潔で、れっきとした社会人であることを示している。
彼の名は、冬見一平。
今年、不惑の年齢になった。
ごく普通の人物だが、ただ、いかにも常識人、アニメや漫画の話などしても一つも理解できないと言い出しそうなお堅い雰囲気があった。…にもかかわらず。
「見ていたかね、オズくん」
見かけ通り、想像通りの、お堅そうな表情と態度で、心配そうに顔を覗き込んでいた足元の大型犬―――――精悍な顔つきと逞しい体躯のその生き物は狼である―――――に話しかける。
「問題は片付いたようだから、もうあちらに戻っても差し支えはないのではないかな」
雪のようにまっしろな体毛の狼は、精悍な顔を少し傾けた。
その両眼は、紫とも青とも取れる、霊妙な色彩。
この狼の正体は、オズヴァルト・ゼルキアン当人の、魂が形となったものである。
『見ていた。実に、見事。さすがは、イッペーだ。しかしことは余計複雑になったようだ』
狼の口は少しも動いていない。
だが、確かに返事は返った。一平の脳裏へ直接。
『今日のことで』
気のせいか、狼の表情に浮かんでいるのは困惑。
『私の身体と一平の魂が天人の資格を得てしまった』
―――――その様子では、何か、新たな問題が生じたようだが。
つい、一平は難しい顔になった。
問題は解決したはずだ。
なのに、狼の様子では、だめなようだ。
いまいち、状況が読めない。
要するに。
たった今、別の世界で災厄なるものの欠片は消滅した。…消滅させたのは。
一平の足元にいる狼が、本来の持ち主である肉体であり。
中に入っていた魂は―――――平凡なサラリーマンに過ぎない冬見一平である。
ちなみに、役職などない、未だ平社員であった。
確かに、ちょっとややこしいかもしれない。
だが、結局どこがどう問題なのか。
風呂敷で包んだお弁当箱を、ママチャリの駕籠に入れながら、渋面の一平は真面目な声で尋ねた。
「もっと詳しく教えてくれるかね」
『具体的に何をだね』
「問題点はどこにあるのかだよ。天人とは何かな」
『要するにイッペーはたった今』
狼のしっぽがふさふさ揺れる。
『伝説を作ったのだ』
一平は空を見上げた。今日もいい天気だ。目を細める。
「初耳だねえ」
『ついさっきだからなあ』
どこかで、のんびり鶯が鳴いた。
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