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第1章
2幕 狼とタマちゃん
しおりを挟む「はい、どういたしまして」
彼女はヒョロいなどと言ったが、単に鈴木の仕事を邪魔したくなかっただけだろう。
ついでに言えば、一平には昔からよくこういった頼みごとをしてくるので、一平の方が頼みやすかったに違いない。
「それにしても珍しいわね、一平ちゃんが定時上がりなんて」
「彼女っすか」
福丸さんの言葉尻に乗っかって、鈴木が言う。
鈴木の軽口は条件反射の域にある。悪意はない。とたん。
彼を幾人かの鋭い視線が貫いた。それは主に古株社員の視線だ。
敏感に察した鈴木の顔色が悪くなる。笑顔のまま。
冷や汗をかきながら、首をフルフル横に振った。
その脇腹には、福丸さんの肘鉄が埋まっている。
「すみません、冗談です、いえ、冗談でもダメでした、心から反省します」
一平の左の薬指には指輪がはめられている。
「構わないよ」
鞄を取り上げ、一平は特にずれてもいない眼鏡をかけ直した。
「ただの軽口だろう」
分かっているから、と頷き、腕時計を見下ろす。
一平は一平で、それら一連の流れと、それに気付かない若い社員たちからの、どこか嘲りに似た空気を感じて居たたまれない。
―――――あのおじさんに? という空気感。
「悪いが、今日はちょっと、友人とだいじな話をする約束があってね。もう行くよ」
「あら」
お局さまが目を丸くする。
「なら急がないとね。引き留めて悪かったわ」
福丸さんが朗らかに言う隣で、鈴木が脇腹を押さえて距離をとった。
「いえ、急を要する話ではないので問題ありません」
言ったところで。
「…?」
ちくり、胸の内側に針で刺すような痛みが走った。
一瞬、息が詰まったが、慎重に息を吸えば、何の異常も感じられない。
(気のせいか?)
戸惑った一平が、少し黙り込んだところで、
「おっと、ここにいたのか一平くん」
信楽焼のたぬきに似た上司が、せかせか室内に入ってきながら、一平を手招き。
「帰るところ悪いが、このシステムの契約書がどこにあるか覚えているかな? 確か去年更新したと思うんだが」
自分の机でノートパソコンを開けながら言うのに、一平は指摘。
「二年前ですよ」
「そうだったか? …ああ、あったあった。だから、去年の棚になかったのか」
「見つかってよかったです」
実のところ、こうして淡々と応じる姿は、微妙に素っ気なく見える。愛想がないのだ。
本人にその気がなくとも『その程度覚えとけよな』と吐き捨てるような態度に見えなくもなかった。
案の定、室内の幾人かが鼻白む。誤解されやすい一平を知っている上司は、気にせずにこにこと礼を口にした。
「ありがとう」
「どういたしまして」
律儀に応じ、
「では、申し訳ありませんがお先に失礼します」
丁寧に頭を下げて、一平は廊下に出る。
まっすぐ歩けば駐車場だ。
社員たちの車や、社用車が停まっているのを横目に、駐輪場へ向かう。
一平は、免許証を持っているし、車の運転はできる。だが、自転車で通勤していた。
先ほどの鈴木とは、彼が入社したての頃、それが原因で一度モメたのだ。
他が忙しい時に車の移動程度できないのかと。指摘通り、自身でもその点は役立たずの自覚はあったので、謝った。…だが、その数日後。
―――――今度は、彼から、謝罪を受けた。土下座付きで。
一平は、車に乗らないのではない。乗れないのだ。
その事情について、周りから何を聞いたか知らないが、そこまでするほどの事でもなかったというのに。
ママチャリにまたがり、一平は昼間いた墓場の駐車場へ向かう。
そこは山の端にあり、続く山の斜面に、墓石が並んでいた。そこに。
両親、それから、一平の妻と息子の墓がある。
五年前。
家族で旅行に出かけた先で、家族三人揃って、事故に遭ったのだ。
その時、一平だけが生き残り、他二人は亡くなった。
どのような事故だったかと言えば。
先にトラック同士の衝突事故が起こった。
そのうちの一台が、冬見家の車に運転席側からバックでぶつかってきたのだ。
かろうじで衝撃は逃がせたと思うが、助手席側が壁にぶつかった上―――――トラックの積み荷の紐が切れた。それが天井へ落ちたのならまだましだったかもしれないが、建築用の木材だったそれは、冬見家の車へ、真横から雪崩れ落ちてきたのだ。
それらは、運転席側の窓を突き破り―――――。
以降のことを、一平はよく覚えていない。いや、事故の記憶自体、ひどく曖昧だ。
心を守るために、その時間を自分で暗闇にしたのではないか、と医者に言われた。
もしかすると、車を外から見るのは平気でも中に乗りこめないのは、一平の記憶にないその時の経験が彼の身体を縛っているのかもしれなかった。
事故の後、一週間意識不明だった一平は奇跡的に生還。現在、後遺症もない。
ただ時折、雨の日など、幻のような痛みが傷痕だけが残った背中に走る。
事故の際、一番危険な場所にいたのは、一平のはずだ。
なのに、彼一人生き残った。
気持ちの整理は、未だついていない。
何をどう整理すればいいのか、分からなかった。
ただ。
いたはずの人がいなくなった、その空白だけが、やけに強く胸を噛む。
妻子の亡骸は、一平が目覚めた時には既に火葬されていた。
微かに漏れ聞いた話では、酷い状態だったそうだ。
仕事に復帰できたのは、半年後。
普通に歩けるようになっただけでも奇跡だと言われた。
だが、早く一人前に戻る以外、一平にはもう目的もなかったのだ。
回復に集中していたわりには、遅かったのではないかと自分自身では思う。
―――――一平は自分に厳しすぎるよ。
従兄弟には呆れたように言われたが、本当なのだから仕方がない。
職場が再度一平を受け入れてくれたのも、申し訳ないながら、ありがたかった。
―――――鈴木はその話を、誰かから聞いたのだろう。だが、どのように聞いたのか。
あれ以来、どうも一平に対して土下座癖がついたようで、たまに扱いに困る。
考えているうちに、山の端の駐車場が見えてきた。
むき出しの土。さびれた木製のベンチ。その足元に―――――まっしろな狼。
そう、狼だ。犬ではない。
光の下だと、彼はきらきら輝いて見える。
優雅な動きも相まって、ひどく神秘的だ。
土の上に億劫そうに寝そべっている、彼のそばには。
「こんにちは、オズさま。今日もおじさんを待ってるの?」
ポニーテールの女子高生がしゃがみこんでいた。
大きな目をキラキラさせ、うつくしい狼を覗き込む美少女。
片手にはスマホが握られている。興奮気味に狼を撮っているが、とうの被写体は鬱陶しげだ。
なんにしろ絵になる。絵に、なるが。
「なぜ、オズくんにいつも『さま』付けなんだい、タマちゃん」
「おじさん」
声をかければ、弾むように顔を上げ、少女が立ち上がった。
その足元で、ようやく来たか、と言いたげに狼がのそりと身を起こす。
少女を避けるように動いて、一平の足元へ。
「だって、呼び捨てとか『くん』付け『ちゃん』付けだと、ヤメロって圧がキョーレツなんだもん。オズさますっごく怖いんだよ」
オズを視線で追いながら、彼女は唇を尖らせた。鈴木と似た表情だ。
彼女の名は、タマ。
珠代というのが本名だったと思うが、本人がタマでいいと言うから、それだけ繰り返していたら、とうとう、最初の自己紹介をうっかり忘れてしまった。
もうタマちゃんとしか言えない。
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