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第3章
幕31 その騎士の名は
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魔女エメリナは、地下への通路を、床を蹴るように駆け抜ける。
その勢いに、すれ違う全員が何事かと振り向くが、構っていられない。
だが、せっかくだ。
(足止め程度には役立ってもらおうじゃないか…あとは、余計な動きをしそうなヤツの始末もしてくれたらなおいいねえ)
エメリナが駆け去った後に残された者たちの目が、続々と、酩酊したように霞んでいく。
朦朧と、夢見る足取りで、操り人形のように、エメリナが駆けてきたほうへ向き直った。
つい先ほどの話だ。
レナルド・ベルタン―――――コロッセオの支配人室に使い走りが駆け込んできたのは。
その男がオズヴァルト・ゼルキアンの名を出した刹那の空気こそ、見ものだった。
もちろん、エメリナも驚いた。
だが、いつか彼がここへ来るのは当たり前の話だった。
ここには、亡国シハルヴァの王女がいるのだから。
レナルドが彼らしい憎めない態度で驚いたのは想定内だったが。
剣闘士ランが一瞬放った気配、あれは。
…思い出すだけで、肝が冷える。
思わず罵るような声がエメリナの唇からこぼれた。
「ああ、チクショウ、そうか、ランって名前は…!」
なぜ気付かなかったのか。
あの男は―――――ヴィスリアの魔人だ。
オズヴァルト・ゼルキアンの騎士の中に、一人、流浪の民ルオルドがいたという話は風の噂に聞いていた。
ランが、その男だ。
芋づる式に記憶が蘇る。
その騎士の名は、ヴェランジェ・ロッシュ。ゆえに―――――ランなのだ。
つまり彼は、自身のことを何一つ隠さず、何食わぬ顔をしてここに潜んでいた。
ただ嘘はあった。
主殺しの魔人だという、それだけは嘘だ。
ヴィスリアの魔人たちは決して、主を殺せない。その結果、魔人となった存在だ。
で、ある以上。
ランがここにいる理由は一つ―――――主人の命令。
なおかつ、その命令の内容までエメリナは立て続けに悟った。
―――――ルビエラ王女だ。
彼女を守るか救うか、どちらかがランの使命。
いや、三年の間、助け出す様子はなかった以上、守ることが主命だったのだろう。ならば。
つい先刻エメリナに下された支配人の命令。
そして、決して、明かしてはいないが、エメリナの本当の目的は。
―――――ランに対する敵対行為に他ならない。
エメリナは歯噛みする。
ランは流浪の民ルオルドだ。
主殺しの話は、あまりに信ぴょう性が高かった。
そのせいで、目が曇らされたとしか言いようがない。
(全く気付かなかった…っ)
それも致し方ない話だ。
まさかヴィスリアの魔人が、自ら剣闘士に身を落とすなど誰が想像するというのか。
彼等は大半が、ゼルキアン公爵家に仕える貴族だった。
それが、どうだろう。
今やシューヤ商団として名を馳せる商人である。
これは、貴族が事業をするという単純な話ではない。
彼等は自ら職人となり、それを恥じるどころか、嬉々として活動しているという。
一部ではプライドがないのか、と言われているようだが、彼等のプライドは普通とは別のところにあるのだろう。
オズヴァルト・ゼルキアンの名こそ、彼等の矜持の在り処だ。ゆえに。
オズヴァルトの名に、ランが魔人の気配を濃密に放ったのは、条件反射のようなものだろう。
主人が近くにいる。
その歓喜を、どうやって眷属の魔人が抑えられるというのか。
そこに色濃くにじむ霊獣の気配に、気付く者は気付いたはずだ。
エメリアはその一人だった。刹那。
エメリナは彼を見た。
ランも彼女を見ていた。
―――――腹の底が冷えた。
同時に、支配人室の中、エメリナは全力で風をランに叩き付けた。
普通の人間なら、壁に全身を叩きつけられ、圧死している攻撃だ。
加減なしで、巨人の拳に殴りつけられたに等しい衝撃があったはず。
手ごたえは、あった。にもかかわらず。
仕留められた自信は、エメリナにはこれっぽっちもない。
突然の暴挙に、レナルドが喚く声に押される形で、結果を見ることなく、エメリナは支配人室を飛び出した。逃げたのだ。
ドアの近くにいた使い走りは殴り飛ばし、誰より先に地下に着くべく、今、駆けている。
ともすると、王女の周りの闇があれほど強固な理由は、ランにもある可能性が高い。
流浪の民ルオルドは、精霊との感応能力が高いのだ。
王女の近くにいた彼が、もし毎日精霊に祈りでも捧げていたのなら。
(迂闊だった…っ)
たとえ魔女の力が未熟だろうと、精霊の力をより強固にするだろう。
ゆえに、同じ魔女であるエメリナにあの闇の精霊たちが反抗的なのかもしれなかった。
今からでも逃げるべきかと思ったが。
―――――それなら今までと変わりがない。
その、子供の意地にも似た気持ちが、今、エメリナを走らせている。
変わらない、のでは、意味がない。
エメリナは、どうにかしたいのだ。
得体のしれない存在として人々から遠ざけられ、排斥の対象となる魔女の存在を。その立場を。
孤高と言えば聞こえはいいかもしれないが、実際、魔女は世間からのはみ出し者と見做され、決して受け入れられない。
それが、エメリナには我慢ならなかった。
(どうして)
力ある彼女たちが、隠れるようにして生きていかなければならないのか。
野犬のように追われ、森の中で隠れ住まなければならないのか。
むしろ、精霊という世界の根本にかかわる存在を操ることができる恩寵を授かった、魔女という存在こそが。
―――――支配者になるべきだわ。
(その通りよ)
耳元で囁かれたあの言葉は、濃密な甘い蜜となってエメリナの中へ溶け落ちた。
囁いた魔女の名は。
メリッサ。
かつて、女帝の弟子だった女。
今では、魔女の中では異端と呼ばれる立ち位置の者たちを率いる存在。
その強大な力をいくら恐怖され、称えられようと、女帝は決して生命の頂点に君臨しようとはしない。
そして同胞の魔女たちに、自然と共に在れ、と告げる。
魔女は変わらなければならない。
実際、代わることは容易だ。そのためにも。
仲間が必要だった。
より大勢の、志を共にする仲間が。
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