遥かなる地平線に血の雨を

寸陳ハウスのオカア・ハン

文字の大きさ
13 / 49
第一章 東に吹く風

1-10 潜む影

しおりを挟む
 ウォーピックを握る手に汗が滲む。

 どこからか射し込むわずかな外光が石造りの城郭内をぼんやりと照らす。漂う埃、血の臭いの残る血痕、重苦しい暗闇、冷たい隙間風……。そんな廃墟の片隅を、四人の鼓動が這う。

 この廃墟に踏み込み、どれだけの時間が過ぎたのだろうか──この廃墟は死して久しい。しかし、明らかに何かがいる──その感覚だけが神経を急速にすり減らす。

 先頭のミラーが血痕を辿り、最後尾のイワレンコフが後方を警戒しながら足跡を残す。その道中、ミッコとエミリーは部屋を一つ一つ覗き、罠や獲物がいないかを確認した。
 まずミッコが踏み込み、次いでエミリーが暗闇をランタンで照らす。ミラーが続き、イワレンコフが出入口を抑える。城郭の一階部分は兵舎や倉庫が主だった。薪や樽などの木材はすでに朽ち果て、残る多くは経過した歳月さえわからぬほどに荒廃していた。

 一通り探索を終えるたび、ミッコは静かに息を吐いた。そして部屋から出ようとしたとき、急にエミリーがその動きを止めた。
 何事かとミッコは振り返った。見た瞬間、ぎょっとして固まった。エミリーは泣いていた。その瞳はどこかあらぬ暗闇を覗いているように見えた。
 石床に落ちるランタンが静寂を破る。腰のベルトを握っていた手が離れる。涙を流しながら、エミリーが膝から崩れ落ちる。
「おいエミリー! しっかりしろ!」
「イワレンコフ! 何か動いたら即座に撃て!」
 駆けつけたミラーが昏倒したエミリーの瞳を覗き込む。
「何があった?」
「わからない。気付いたら固まってて、それでこうなって……」
「まずいな。住人・・と接触したか」
 ミラーはどこか奥の暗闇を一瞥すると、エミリーを部屋から引きずり出し、扉を閉めた。そしておもむろに水筒の水をエミリーの顔にかけると、その頬を引っ叩いた。
 驚きは一瞬だけだった。ミッコはすぐに鼓動と呼吸を確認した。乱れてはいたが、しかしエミリーは生きていた。
「ミッコ! 戻って来れるよう呼びかけ続けろ!」
 ミッコはエミリーの名を呼んだ。返事はなかったが、握った手はまだ温かった。

 必死だった。戦場ではたくさんの仲間の死を看取ってきた。だからどうすればいいかわからなかった。

 そんなとき、それ・・は唐突に姿を現した。

 影──長い廊下の奥、たゆたう薄闇に影が浮かぶ。何なのか、どこからかの外光のそばに蹲るそれは一目では判別できなかった。そして一瞬の硬直の間に、それは動いた。

 咆哮が静寂に響き、均衡が破られる。

 飛び出した影がイワレンコフを押し倒す。生臭い咆哮とともに、鋭いものがイワレンコフを襲う。
「撃ち殺せ!」
 ミラーが叫び、銃声が鳴り響く。燧石フリントが火花を散らし、暗闇に血飛沫が舞い散る。
「クソったれ! ただで殺られると思うなよ!」
 イワレンコフも抵抗し、短剣を影に突き刺す。こぼれる血の臭いとともに、同じ生き物とは思えぬ奇声が暗闇に響き渡る。
 ミッコはエミリーを抱え込み、ウォーピックを握り直した。そんな張り裂けんばかりの状況下で、不意に別の何かが緊張の糸に触れた。
 目だけが光っていた。それは来た道の暗闇に潜んでいた──つがい・・・か──刹那、視線が交わると同時に、それは物陰から跳んだ。
 ミッコは咄嗟に一歩踏み出し、エミリーの前でそれを受け止めた。分厚い塊が覆い被さり、牙や爪が腕や頬を掠めた。鋭い痛みとともに、何か熱いものが衣服に滲んだ。
 跳びかかられるまま、ミッコは押し倒された。押し返そうにも、その体躯は人よりも遥かに大きく、その膂力も尋常のものではなかった。
 影が咆哮するたび、生ぬるい涎が顔面に垂れる。ミッコはとにかく相手を蹴り上げた。ウォーピックを握る両腕は塞がっている。今は渾身の力でもがくしかない。しかし体毛は鋼のように強靭で、衝撃はとても届いていないように思えた。

 ミッコは吼えた。影もまた吼えた──そのとき、一発の銃声が咆哮を切り裂いた。

 その瞬間、圧力は一気に弱まった。ミッコはあらん限りの力で影を押し返すと、左手で短剣を抜き、その刃を相手の牙の根本に突き刺した。
 肉を抉る。柔らかな内臓が血を噴き出し、返り血が確かな手応えを証明する。
 悲鳴と雄叫びが震える空気に混じり合う。ミッコは相手に馬乗りになると、ウォーピックを打ちつけた──たとえその体が鋼のように固くとも、生きているなら殺す術は必ずある──板金甲冑プレートアーマーを着た騎士を殺したときのように、その鋼のような体毛を何度も何度も打ち、鋼に血と肉が溶け合うまでウォーピックを打ちつけた。

 やがて咆哮が止み、暗闇にまた静寂が訪れる。夥しい血の臭いの中で戦いが終わる。

 四人は無事だった。ミッコ、ミラー、イワレンコフはそれぞれに傷を負っていたが、しかし五体満足であった。燧石式拳銃フリントロック・ピストルの引き金を引くエミリーもまた、正気を取り戻していた。

 ランタンの灯りを照らし、血溜まりに倒れたそれ・・を見る。それは住人・・ではなく獣であったが、しかしミッコの知るどんな生き物とも違っていた──犬か、熊か、あるいは獅子か──この得体の知れない獣のことを、ミラーとイワレンコフは潜む影と呼んだ。
 暗闇の中、どこからか鳴き声がした。そこには巣があり、獣の子供が二匹いた。その体は先ほどの二匹と比べれば赤子同然だった。辿ってきた血痕はそこで途切れており、周囲には食い散らかされた人間が転がっていた。
 ミラーとイワレンコフは躊躇わず拳銃の引き金を引き、残る二匹を撃ち殺した。ミッコとエミリーは部屋の隅からそれを見ていた。
「大丈夫かエミリー?」
 ミッコはエミリーの髪に付着した返り血を拭いた。エミリーは小さく頷いてはいたが、深緑の瞳はずっと血走っており、ほとんど瞬きもしていないように見えた。

 その後はアデーラの隊と入れ違いになった。みな、「よくやった」と声をかけてくれた。しかし廃墟から出ても風は重く、血の臭いも消えなかった。


*****


 その日はすぐに本営への帰途についた。やがて夜が訪れた。
「見ろ! 潜む影の生皮だ! それも四体分だぜ!」
 焚き火を囲む〈嵐の旅団コサック〉の戦士たちの前で、イワレンコフが奇妙な迷彩模様の生皮を自慢げに見せびらかす。それは討ち取った獣の生皮であり、ミッコとエミリーも戦利品として受け取っている。
「あれこそが絶体絶命の窮地ってやつだった。でも俺たちはやったんだ! 廃墟の暗闇を進み、恐ろしい獣を打ち倒し、四人とも無事に帰って来たんだ!」
 イワレンコフが語るたび、男たちが笑い声を上げ囃し立てる。
「さぁ飲もう! 偉大なる〈東の覇王プレスター・ジョン〉の名の許に、遥かなる地平線に血の雨を!」
 弦楽器リュートを手に、イワレンコフが地平線に潜む影との戦いを弾き語る。音楽に合わせ、男たちが杯と娼婦を手に歌い踊る。血と酒の匂いが焚き火を煽り燃え上がっていく。
 宴の最中、アデーラが亡くなった二名の遺品を運んでくる。アンナリーゼいわく、その最期を看取った者は優先的に遺品を貰うことができるらしい。
「ちょっと借りてもいいかな?」
 年期の入った武具や馬具の中から、ミッコは古びた弦楽器リュートを手に取った。アンナリーゼは「ぜひ弾いてくれ」と言って微笑んだ。
 ミッコは弦楽器リュートを手に、エミリーの横に座った。
 イワレンコフが演奏を止め、焚き火越しに目配せしてくる。
 ミッコは深く息つくと、感情の赴くまま弦を弾いた。
 やがて夜風が吹き、静かな拍手が巻き起こった。
「楽器が弾けるなんて知らなかった」
「まぁ、向こうじゃ弾く機会もなかったしな……」
 エミリーと肩を寄せ合いながら、ミッコはポツリと呟いた。昔は戦いが終わるとこうして演奏した。当時、共に飲み歌った仲間の多くはもう死んでいる。
 夜風に弦の音が鳴る。また焚き火越しに視線が交わる。イワレンコフが音頭を取り、ミッコもそれに音を重ねる。無言のうちに合わさる演奏が、薪の燃える音とともに夜を流れる。
「仲間に! 命に!」
 二人の演奏が終わると、ミラーが大きく杯を掲げた。〈嵐の旅団コサック〉の戦士たちはそれぞれに復唱し、そして一息に酒を飲み干した。

 ミッコはエミリーと杯を交わした。エミリーは笑顔だったが、その瞳はまだどこか遠くを覗いているように見えた。

 地平線の夜が更けていく。弦の音とともに、血と酒と戦いが焚き火に燃え上がる。
 焚き火の色を眺めながら、ミッコはまた弦楽器リュートを弾いた。そして夜風の音にその身を任せた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

診察室の午後<菜の花の丘編>その1

スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。 そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。 「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。 時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。 多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。 この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。 ※医学描写と他もすべて架空です。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

処理中です...