29 / 49
第二章 二人の果て
2-13 思い
しおりを挟む
雨に濡れる夏空の下、二人は馬に跨ると、ゆっくりと歩き始めた。
どこに行こうかとは話さなかった。馬首は自然と東を向いていた。
普段、今までとは立ち位置が逆になっていた。エミリーが先を行き、ミッコはあとに続いた。
無言のうちに、村を抜け、雑木林を抜けた。雨の向こうには、見飽きるほど見てきた広大な地平線が広がっていた。
風の声の消えた地平線に、雨音だけが響く。
北側にこそ〈塔の国〉の残影が居並び、北限の峰の白い稜線が見えるが、それ以外は基本的に何もなかった。しばらくして、草原の中に木造の廃屋を一軒見つけたが、それもほとんど風景の一部に溶け込んでいた。
一瞬、廃墟に潜む影が頭を過ぎった──だが、雨宿りしようと言うエミリーは笑顔だった。
軒先には木製の椅子が二つ残っていた。二人はそれに座り、何をするでもなく、夏の太陽を濡らす雨と地平線を眺めた。
雨の向こうで陽は傾いていた。村に戻る気にはなれなかったが、かといって旅支度はしておらず、このまま進むこともできなかった。しかし、迷うミッコの横で、エミリーはゲーフェンバウアーとアルバレスを厩に繋ぐと、廃屋に入り、暖炉で火を焚き始めていた。
服を脱ぎ、濡れた体を乾かす。あるときを境にその流れを止めていた廃屋に再び火が灯り、火と雨の音の片隅に風が流れる。
「ねぇ、何であんなに奴隷商人たちに突っかかっていったの? アンナリーゼたちと一緒のときは、奴隷なんてどこにでもいるみたいな感じで素っ気なかったのに」
「ただ単に、旧主の番人の犬が気に入らなかっただけだよ」
あの男をぶん殴ったことについて、悪いとは思っていなかった。売られた喧嘩を買った、それだけだった。
「逆に、エミリーは止めようとしてたよね。アンナリーゼ、というかアリアンナには凄い突っかかってたのに」
「あの村では、私たちが何を言っても変わらないと思ったから……。あの子は多分、全部納得したうえであの場にいたはずだし……」
「あの子ってメイジのこと? 何か話したの?」
デグチャレフ村の地元民たちは独自の言語を使っており、大陸共通語はわからないとマルーン神父は言っていた。ミッコとも会話が成立したことはない。だからエミリーがどうやってそれを知ったのか、ミッコは訊ねた。
「うまく説明できないけど……。」
エミリーは言葉を濁すと、黙ってしまった。そして次の言葉を探すように、揺れる火を見ていた。
「ねぇ、手を繋いでもいい?」
なぜそんなことを訊くのかとミッコは怪訝に思ったが、断る理由もないので頷いた。
骨と皮だけになった、しかしよく知る指先がミッコに触れる。
腕の刺青を撫でるその感触にミッコは安堵した。しかしエミリーが目を閉じた瞬間、何かが流れ込んできた──あの夜、炎に焼かれた騎士と頭の潰れた騎士を見たときと同じ、何かもわからぬ光景が……。
*****
見ず知らずの老夫婦が、前にいた。
老夫婦が話しかけてくる。すぐ横では、幼い男の子が座って話を聞いている。
村は〈塔の国〉のやや南西に位置する。〈塔の国〉の近くであれば騎馬民は近づかないし、北に近いのですぐ冬に閉ざされる。外界から孤立していた立地のおかげで、この村は平和的に文化と伝統を守り繁栄することができた。しかしその特殊性に目を付けた者たちは、この村を保護するという名目で管理下に置いた。そして奴隷と傭兵の二大産業の供給地の一つに組み込んだ。
かつては大勢の村人が定期的に奪われていたが、神父が来てから状況は変わった。今、その数は一人、ないしは二人だけになり、その性質も変わった。
女は聖女に、男は神の剣に……。
奪われることに変わりはないのかもしれない。しかし今、それは我らの誇りだと老夫婦は言った──ハンターだろうか、すぐ横で話を聞く男の子は、目を輝かせていた。
*****
夢か幻か、それはそこで途切れた。目の前に老夫婦はおらず、今はエミリーがいるだけだった。
「何だ今の……?」
「わからない……」
お互いが困惑していた。だから、答えなど出てくるわけもなかった。
火と雨の音だけが、流れ消える。
ミッコは目を閉じた。これまで見てきたあらゆる光景が目蓋の裏に浮かんだ────戦場で見てきたもの、二人が見てきたもの、地平線が魅せるもの──酷い世界だと思った。酷い人間しかいないと思った。
世界は、力によって作られる。力ある者は自らの望むように力を行使し、より弱い者へその代償を払わせる──エミリーは政略結婚の道具とされ、メイジやデグチャレフ村の人々は聖女は誇りだと誑かされその身を捧げようとしている。
そしてそんな酷い世界で、ミッコは同様に、ずっと酷いことをして生きてきた。
力にものを言わせ、殺し、奪い、犯してきた。エミリーを守ると嘯きながら、その実、自分よりも弱い人間だとし、対等には見ていなかった。
「エミリー……、俺は……」
ない混ぜになる思いが浮かんでは消える。言いたいことは溢れるほどあった。しかし、言葉にはならなかった。
「いいのよミッコ。言わなくても」
エミリーは言葉を遮ると、静かにミッコの体を抱き寄せた。
「どうして……」
「だって、またこうして一緒にいられるんだから……」
ミッコの手をエミリーが握り締める。
また、何かが流れ込んでくる──お互いの様々な思いが絡み合い、結びつき、紡がれる。
エミリーは受け入れてくれている気がした──ただし、これはミッコの一方的な思いに過ぎない──それだけで、ミッコは救われた気がした。
今はただ、ずっとこのままでいられればよかった。
エミリーの胸元に顔を埋め、ミッコは泣いた。火と雨の音、そしてエミリーの鼓動に耳を傾けているうちに、気付けば眠っていた。
一夜が明けた。火と雨音の消えた薄闇の中、二人は服を着ると、肩を抱きながら外へ出た。
朝、夜明けの空は燃えていた。
一目見た瞬間、ミッコとエミリーはほとんど同時に馬に跨り、そしてデグチャレフ村に向かい駆け出していた。エミリーは刺剣を、ミッコはウォーピックを、それぞれ握っていた。
それはいつか見た夜明けと同じだった。流れ吹く風の哭き声は虚ろなものだったが、しかしその色は確かな血に染まっていた。
どこに行こうかとは話さなかった。馬首は自然と東を向いていた。
普段、今までとは立ち位置が逆になっていた。エミリーが先を行き、ミッコはあとに続いた。
無言のうちに、村を抜け、雑木林を抜けた。雨の向こうには、見飽きるほど見てきた広大な地平線が広がっていた。
風の声の消えた地平線に、雨音だけが響く。
北側にこそ〈塔の国〉の残影が居並び、北限の峰の白い稜線が見えるが、それ以外は基本的に何もなかった。しばらくして、草原の中に木造の廃屋を一軒見つけたが、それもほとんど風景の一部に溶け込んでいた。
一瞬、廃墟に潜む影が頭を過ぎった──だが、雨宿りしようと言うエミリーは笑顔だった。
軒先には木製の椅子が二つ残っていた。二人はそれに座り、何をするでもなく、夏の太陽を濡らす雨と地平線を眺めた。
雨の向こうで陽は傾いていた。村に戻る気にはなれなかったが、かといって旅支度はしておらず、このまま進むこともできなかった。しかし、迷うミッコの横で、エミリーはゲーフェンバウアーとアルバレスを厩に繋ぐと、廃屋に入り、暖炉で火を焚き始めていた。
服を脱ぎ、濡れた体を乾かす。あるときを境にその流れを止めていた廃屋に再び火が灯り、火と雨の音の片隅に風が流れる。
「ねぇ、何であんなに奴隷商人たちに突っかかっていったの? アンナリーゼたちと一緒のときは、奴隷なんてどこにでもいるみたいな感じで素っ気なかったのに」
「ただ単に、旧主の番人の犬が気に入らなかっただけだよ」
あの男をぶん殴ったことについて、悪いとは思っていなかった。売られた喧嘩を買った、それだけだった。
「逆に、エミリーは止めようとしてたよね。アンナリーゼ、というかアリアンナには凄い突っかかってたのに」
「あの村では、私たちが何を言っても変わらないと思ったから……。あの子は多分、全部納得したうえであの場にいたはずだし……」
「あの子ってメイジのこと? 何か話したの?」
デグチャレフ村の地元民たちは独自の言語を使っており、大陸共通語はわからないとマルーン神父は言っていた。ミッコとも会話が成立したことはない。だからエミリーがどうやってそれを知ったのか、ミッコは訊ねた。
「うまく説明できないけど……。」
エミリーは言葉を濁すと、黙ってしまった。そして次の言葉を探すように、揺れる火を見ていた。
「ねぇ、手を繋いでもいい?」
なぜそんなことを訊くのかとミッコは怪訝に思ったが、断る理由もないので頷いた。
骨と皮だけになった、しかしよく知る指先がミッコに触れる。
腕の刺青を撫でるその感触にミッコは安堵した。しかしエミリーが目を閉じた瞬間、何かが流れ込んできた──あの夜、炎に焼かれた騎士と頭の潰れた騎士を見たときと同じ、何かもわからぬ光景が……。
*****
見ず知らずの老夫婦が、前にいた。
老夫婦が話しかけてくる。すぐ横では、幼い男の子が座って話を聞いている。
村は〈塔の国〉のやや南西に位置する。〈塔の国〉の近くであれば騎馬民は近づかないし、北に近いのですぐ冬に閉ざされる。外界から孤立していた立地のおかげで、この村は平和的に文化と伝統を守り繁栄することができた。しかしその特殊性に目を付けた者たちは、この村を保護するという名目で管理下に置いた。そして奴隷と傭兵の二大産業の供給地の一つに組み込んだ。
かつては大勢の村人が定期的に奪われていたが、神父が来てから状況は変わった。今、その数は一人、ないしは二人だけになり、その性質も変わった。
女は聖女に、男は神の剣に……。
奪われることに変わりはないのかもしれない。しかし今、それは我らの誇りだと老夫婦は言った──ハンターだろうか、すぐ横で話を聞く男の子は、目を輝かせていた。
*****
夢か幻か、それはそこで途切れた。目の前に老夫婦はおらず、今はエミリーがいるだけだった。
「何だ今の……?」
「わからない……」
お互いが困惑していた。だから、答えなど出てくるわけもなかった。
火と雨の音だけが、流れ消える。
ミッコは目を閉じた。これまで見てきたあらゆる光景が目蓋の裏に浮かんだ────戦場で見てきたもの、二人が見てきたもの、地平線が魅せるもの──酷い世界だと思った。酷い人間しかいないと思った。
世界は、力によって作られる。力ある者は自らの望むように力を行使し、より弱い者へその代償を払わせる──エミリーは政略結婚の道具とされ、メイジやデグチャレフ村の人々は聖女は誇りだと誑かされその身を捧げようとしている。
そしてそんな酷い世界で、ミッコは同様に、ずっと酷いことをして生きてきた。
力にものを言わせ、殺し、奪い、犯してきた。エミリーを守ると嘯きながら、その実、自分よりも弱い人間だとし、対等には見ていなかった。
「エミリー……、俺は……」
ない混ぜになる思いが浮かんでは消える。言いたいことは溢れるほどあった。しかし、言葉にはならなかった。
「いいのよミッコ。言わなくても」
エミリーは言葉を遮ると、静かにミッコの体を抱き寄せた。
「どうして……」
「だって、またこうして一緒にいられるんだから……」
ミッコの手をエミリーが握り締める。
また、何かが流れ込んでくる──お互いの様々な思いが絡み合い、結びつき、紡がれる。
エミリーは受け入れてくれている気がした──ただし、これはミッコの一方的な思いに過ぎない──それだけで、ミッコは救われた気がした。
今はただ、ずっとこのままでいられればよかった。
エミリーの胸元に顔を埋め、ミッコは泣いた。火と雨の音、そしてエミリーの鼓動に耳を傾けているうちに、気付けば眠っていた。
一夜が明けた。火と雨音の消えた薄闇の中、二人は服を着ると、肩を抱きながら外へ出た。
朝、夜明けの空は燃えていた。
一目見た瞬間、ミッコとエミリーはほとんど同時に馬に跨り、そしてデグチャレフ村に向かい駆け出していた。エミリーは刺剣を、ミッコはウォーピックを、それぞれ握っていた。
それはいつか見た夜明けと同じだった。流れ吹く風の哭き声は虚ろなものだったが、しかしその色は確かな血に染まっていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
診察室の午後<菜の花の丘編>その1
スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。
そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。
「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。
時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。
多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。
この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。
※医学描写と他もすべて架空です。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる