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第48話。
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可奈にオーストラリア行きの辞令が下りたのは、翌日の昼のことだった。彼女も、嫌がるそぶりを見せない。また、頼まれれば、行くといった感じだった。
「是非とも君を派遣したい。行ってくれるね?」
「はあ」
「よし、決まりだ」
嬉しそうにそう言った署長の上野が、辞令の書かれた書類を可奈に手渡した。彼女が受け取り、ゆっくりと言葉を重ねる。
「本当に、あたしのような者でいいんですか?」
「ああ。君に行ってもらいたい」
彼女は署長命令とあってか、さすがに断り切れずに、仕事を引き受ける羽目になった。別に、それはそれで、いいと思う。
*
その日、新井薬師の自宅マンションに帰り着いた可奈は、ボストンバッグに荷詰めを始めた。
日用品、化粧道具、地図、ノートパソコン……。
荷物でパンパンになったバッグを床に転がして、その日は眠った。
明日、朝一で署に出勤して、その足で成田へと向かう。飛行機は、午後一時四十二分、フライト予定だった。夜中になって、ふっと、忘れ物に気付く。拳銃を用意してなかった。肝心要のものだ。
そう思い、起き出して、その日の昼まで保管庫に眠っていた拳銃を一丁取り出した。弾丸をフルに装填し、予備の弾も革袋に詰めた。気が付くと、明け方になっていて、ラジオではモーニングショーがオンエアーされている。
「今日の東京の日中の最高気温は、三十六℃の予想です。少し早い真夏日となるでしょう」
その後、世界のお天気コーナーになり、
「……シドニーは、雨のち曇りの模様です。日中の気温は十三℃くらいでしょう」
と流れる。向こうは冬だ。そう思った可奈が、午前六時の眩しい朝焼けを目一杯浴びながら、バッグに冬着を詰め始めた。冬支度をしないと、過ごせない。
もうすっかり朝だ。眠たい目を擦った彼女が、冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、コップに注いで飲みながら、まだ、ボォーとした頭で、朝焼けを見続けた。
アイスコーヒーを一杯淹れる。ひんやりした氷をゴロゴロと浮かべて、優雅に飲んだ。それからカバンを肩に担ぎ、上下とも黒服で決めて、家を出る。
西武新宿線で高田馬場に出て、山手線内回りで代々木へと向かう。その朝も、いつもと同じ、通勤ラッシュに巻き込まれた。彼女はふっと、負傷した華が、都内の病院に入院していることを思い出す。確か、新宿の第二国際病院だ。出国ついでにお見舞いに行っとこう。
新宿で電車を降りて、病院まで歩く。
歩きながら、スマホで、
「片桐さんをお見舞いしてきますので、少し遅れます。すみません」
と署に連絡を入れておいた。これでよしと思う。
入院先の病院に入り、華の横たわっているベッドまで来ると、彼女は機械に繋がれたままの状態で眠っていた。現地の病院に搬送されて弾丸の摘出手術を受け、こっちに移ってからもずっと眠ったままで、一度として、覚めることはなかったらしい。担当医師によれば、意識が戻る可能性は、ほぼ絶望的という。医師のつれない言葉に、可奈は怒りすら覚えた。
「仕方ありません。片桐さんは、一命を取り留めただけでも、奇跡だったのですから……」
それまで、黙り込むしかなかった可奈が、すかさず言った。
「ただ生きてればいいって、そう仰りたいんですか?それじゃあ、あんまりに……」
その中年の男性医師が、黙礼して、その場を立ち去る。聞くところによると、手術は一大事だったそうだ。左腹部に残存した銃弾が、内臓を容赦なしに抉っていたらしく、オペは、計八時間以上を要する大規模なものになったとのことだった。
生命維持装置を付けられたまま、ただ生かされているだけの華を見て、可奈は無性に悔しかった。呼吸しかしてない、彼女の哀れな生きながらえ方を見て、何もしてやれない自分が悔しくてしょうがなかった。そして、思った。君島を必ず、逮捕してみせると。
固まるばかりの決心は、揺らぐことを知らない。カバンの中に、手を差し入れるとれた拳銃が冷たく硬い。この銃が、君島を撃つことだって、ないとは言えないだろう。
改めて、銃身の硬い部分を握り締めた可奈は、眠っている華にそっと敬礼して、病院廊下を、光の見える出口に向かって、ゆっくりと歩き出した。
*
その日、署に遅れて出勤した可奈は、予定通り成田へと向かい、午後の飛行機で日本を発った。機内で、夕食に肉料理を食べる。食後、出されたコーヒーをがぶ飲みしながら、タバコが吸いたくて、たまらなくなった。席を立って、喫煙エリアに行き、思いっきり吸う。飛行機は翌朝、シドニー到着予定だった。しかし、予期せぬフライイングトラブルは、空の旅には、付き物だ。
*
その夜、フィリピン沖の高度一万メートル地点付近で、乱気流に飲まれた飛行機は、チーフパイロット以下、副操縦士二名、計三名の判断で、シドニー国際空港への着陸を事実上断念した。機長が、日本語と英語で、交互にアナウンスする。
「えー、ただ今、当機は高度五千メートル付近を航行中ですが、乱気流に飲まれましたため、シドニーへの着陸を断念し、キャンベラ国際空港へと着陸地点を変更いたします。何卒、ご了承の上……」
機内が一際ざわつき、乗客が一斉に苛立ち出す。やがて、人々の不満の声々が最高潮に達した頃、可奈が、
「何で?……何でなの?」
と一言漏らした。
キャンベラ着陸なら、その後の予定は大幅に変更しなきゃ、と思って、訳が分からなくなり、眩暈すらしてきた。
ただただ祈るため、宙を見上げることしか、その時の彼女にはできなかった。落ち込んだ気分を転換させるため、海を眺める。早朝の海の水は、どこまでも透明なブルーで、やや紺青の部分すらあった。
可奈が、繰り返し溜め息をつく。諦めの気持ちすらあった。
可奈にオーストラリア行きの辞令が下りたのは、翌日の昼のことだった。彼女も、嫌がるそぶりを見せない。また、頼まれれば、行くといった感じだった。
「是非とも君を派遣したい。行ってくれるね?」
「はあ」
「よし、決まりだ」
嬉しそうにそう言った署長の上野が、辞令の書かれた書類を可奈に手渡した。彼女が受け取り、ゆっくりと言葉を重ねる。
「本当に、あたしのような者でいいんですか?」
「ああ。君に行ってもらいたい」
彼女は署長命令とあってか、さすがに断り切れずに、仕事を引き受ける羽目になった。別に、それはそれで、いいと思う。
*
その日、新井薬師の自宅マンションに帰り着いた可奈は、ボストンバッグに荷詰めを始めた。
日用品、化粧道具、地図、ノートパソコン……。
荷物でパンパンになったバッグを床に転がして、その日は眠った。
明日、朝一で署に出勤して、その足で成田へと向かう。飛行機は、午後一時四十二分、フライト予定だった。夜中になって、ふっと、忘れ物に気付く。拳銃を用意してなかった。肝心要のものだ。
そう思い、起き出して、その日の昼まで保管庫に眠っていた拳銃を一丁取り出した。弾丸をフルに装填し、予備の弾も革袋に詰めた。気が付くと、明け方になっていて、ラジオではモーニングショーがオンエアーされている。
「今日の東京の日中の最高気温は、三十六℃の予想です。少し早い真夏日となるでしょう」
その後、世界のお天気コーナーになり、
「……シドニーは、雨のち曇りの模様です。日中の気温は十三℃くらいでしょう」
と流れる。向こうは冬だ。そう思った可奈が、午前六時の眩しい朝焼けを目一杯浴びながら、バッグに冬着を詰め始めた。冬支度をしないと、過ごせない。
もうすっかり朝だ。眠たい目を擦った彼女が、冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、コップに注いで飲みながら、まだ、ボォーとした頭で、朝焼けを見続けた。
アイスコーヒーを一杯淹れる。ひんやりした氷をゴロゴロと浮かべて、優雅に飲んだ。それからカバンを肩に担ぎ、上下とも黒服で決めて、家を出る。
西武新宿線で高田馬場に出て、山手線内回りで代々木へと向かう。その朝も、いつもと同じ、通勤ラッシュに巻き込まれた。彼女はふっと、負傷した華が、都内の病院に入院していることを思い出す。確か、新宿の第二国際病院だ。出国ついでにお見舞いに行っとこう。
新宿で電車を降りて、病院まで歩く。
歩きながら、スマホで、
「片桐さんをお見舞いしてきますので、少し遅れます。すみません」
と署に連絡を入れておいた。これでよしと思う。
入院先の病院に入り、華の横たわっているベッドまで来ると、彼女は機械に繋がれたままの状態で眠っていた。現地の病院に搬送されて弾丸の摘出手術を受け、こっちに移ってからもずっと眠ったままで、一度として、覚めることはなかったらしい。担当医師によれば、意識が戻る可能性は、ほぼ絶望的という。医師のつれない言葉に、可奈は怒りすら覚えた。
「仕方ありません。片桐さんは、一命を取り留めただけでも、奇跡だったのですから……」
それまで、黙り込むしかなかった可奈が、すかさず言った。
「ただ生きてればいいって、そう仰りたいんですか?それじゃあ、あんまりに……」
その中年の男性医師が、黙礼して、その場を立ち去る。聞くところによると、手術は一大事だったそうだ。左腹部に残存した銃弾が、内臓を容赦なしに抉っていたらしく、オペは、計八時間以上を要する大規模なものになったとのことだった。
生命維持装置を付けられたまま、ただ生かされているだけの華を見て、可奈は無性に悔しかった。呼吸しかしてない、彼女の哀れな生きながらえ方を見て、何もしてやれない自分が悔しくてしょうがなかった。そして、思った。君島を必ず、逮捕してみせると。
固まるばかりの決心は、揺らぐことを知らない。カバンの中に、手を差し入れるとれた拳銃が冷たく硬い。この銃が、君島を撃つことだって、ないとは言えないだろう。
改めて、銃身の硬い部分を握り締めた可奈は、眠っている華にそっと敬礼して、病院廊下を、光の見える出口に向かって、ゆっくりと歩き出した。
*
その日、署に遅れて出勤した可奈は、予定通り成田へと向かい、午後の飛行機で日本を発った。機内で、夕食に肉料理を食べる。食後、出されたコーヒーをがぶ飲みしながら、タバコが吸いたくて、たまらなくなった。席を立って、喫煙エリアに行き、思いっきり吸う。飛行機は翌朝、シドニー到着予定だった。しかし、予期せぬフライイングトラブルは、空の旅には、付き物だ。
*
その夜、フィリピン沖の高度一万メートル地点付近で、乱気流に飲まれた飛行機は、チーフパイロット以下、副操縦士二名、計三名の判断で、シドニー国際空港への着陸を事実上断念した。機長が、日本語と英語で、交互にアナウンスする。
「えー、ただ今、当機は高度五千メートル付近を航行中ですが、乱気流に飲まれましたため、シドニーへの着陸を断念し、キャンベラ国際空港へと着陸地点を変更いたします。何卒、ご了承の上……」
機内が一際ざわつき、乗客が一斉に苛立ち出す。やがて、人々の不満の声々が最高潮に達した頃、可奈が、
「何で?……何でなの?」
と一言漏らした。
キャンベラ着陸なら、その後の予定は大幅に変更しなきゃ、と思って、訳が分からなくなり、眩暈すらしてきた。
ただただ祈るため、宙を見上げることしか、その時の彼女にはできなかった。落ち込んだ気分を転換させるため、海を眺める。早朝の海の水は、どこまでも透明なブルーで、やや紺青の部分すらあった。
可奈が、繰り返し溜め息をつく。諦めの気持ちすらあった。
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