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第2話
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それから数か月、保憲は忙しいながらも、時間を見つけては、足繁く千尋の屋敷に通い詰めた。
千尋としても、次にはどの資料をお渡ししようかと、選んだりすることが楽しくて、毎回保憲の訪れを心待ちにしていた。
季節は初夏を迎え、夏の盛りが迫ってきていた。
その日は、日が傾きかけた時間に、保憲はやってきて、千尋が用意した天文の記述の書物を広げて、星の話に盛り上がった。
「保憲様、星空は心星を中心に回っているように見えます」
千尋の北極星の話から始まって、保憲は五惑星の話をした。
五惑星とは、木星、火星、土星、金星、水星のことである。
「五行の精である五つの星は、鬼神を感じさせますよ。天地を動き回りますからね」
「はい」
千尋は、こんな風に星の話が出来ることが嬉しくて、声を張り上げてしまった。
保憲は口元を緩めて微笑む。
「木精の歳星は、天地人の三才を現します。いつも通りの明るさならば、国家は安寧なのです」
「広い海のような天の夜空に輝いている星にも、いろいろな光り方があるのですね」
「そうですね、いろいろな見方をするのです、光り方だけではないですよ。明けの明星、宵の明星と呼ばれる太白星などは、運行に乱れが無ければ天下が栄えると言われておりますから」
「星の運行ですか…」
千尋には果てしない天の夜空には、ありとあらゆる事が収められている気がした。
『保憲様は本当に凄いな』
千尋はいつにも増して保憲の知識の深さに羨望の眼差しを向けていた。
目の前の几帳など取り除いて、保憲の表情を直接見たいと思ってしまう。
いつまでもいつまでも傍で話を聞いていたかった。
最後に保憲は唐の古い言い伝えの話をしてくれた。
「昔昔、龍の背にまたがった黄帝がおりました。龍が天に舞い上がろうとすると、家臣達は先を争って龍の髭につかまりました。けれども、大勢がぶら下がり過ぎたため龍の髭が抜けて家臣達は大地に落ちてしまいました。
龍は黄帝を乗せたまま昇り続けて、ついに黄帝は軒轅という星になったと」
保憲は持っていた蝙蝠扇をすう~っと下から上に動かした。
「いまでもお空に?」
「ええ、輝いておりますよ」
千尋が目を輝かせて話すと、几帳越しに保憲が静かに笑った。
「天にはとてもたくさんの叡智がありますね。ああ、今日は長居をしてしまいました」
保憲は帰る素振りを見せた。
『このまま時が止まってしまえばいいのに…』
千尋の心のなかでは、複雑な思いが広がっていった。
保憲をこのまま帰らせたくない思いを必死で抑える。
「私は千尋という名なのです」
保憲が立ち去ろうとした時、伝えたい衝動を抑えきれなくなって、突然自分の名前を保憲に話した。
「私に名を明かしてしまってもいいのですか?」
『去り際にこんな事を話すなんて、保憲様は困った顔をしているかもしれないな』
女から名前を名乗るとはとてもはしたない事かもしれない…しかし、千尋は保憲に自分の名前を覚えておいて欲しいと切に願ってしまった。
それから保憲を見送るために山吹が灯りを手に出口まで誘導していった。
千尋の頭の中では、亡き祖父が最後に残した言葉が繰り返し思い起こされた。
『千尋、お前は女に生まれて来たけれど、とても賢い目をしている。我が一族に伝わる陰陽道の技も知識も、いつか役に立つ時が来るかもしれない。女であっても、先祖から受け継いだ血は誇りに思って欲しい…』
それからしばらくは、保憲の訪れはあまり無かった。
来たとしても、資料を受け取って帰る位のそんな軽い逢瀬だけだった。
暦道の得業生として優秀な人だと聞いていたので、陰陽寮の仕事が忙しいのだろう。
切ない思いが千尋の心をチクリと刺した。
「元々恋人同士なわけでもないのに、馬鹿だな…私」
千尋は一人呟いて苦笑した。
そして、夏の終わりのある日―
がらんとした書庫の中を見渡して、千尋は最後の書物を手に取った。
「これでおしまいか…」
なんとなく、少し寂しい気がした。
この書物を保憲に渡した後、千尋は所縁の寺に身を寄せるつもりだった。
住み慣れたこの屋敷も人手に渡す。
もう手配も済んでいる。
『これからの人生は出家して余生を静かに過ごしていこう』
この数か月間、保憲との楽しかった思い出と共に。
部屋に戻ると、山吹がいつものように几帳を立ててくれていた。
山吹は左之助と一緒になるという。
そして、賀茂家の方で使用人として働いていけることになり千尋は安堵していた。
皆、身の振りも決まった。
祖父はじめ、先祖からの膨大な知識であった文献も然るべき所に収まって、この先のお役にたっていくことだろう。
「千の君様、先ほど保憲様から伝言がございました」
「?」
「先の用を済ませてから来るとのことで、少し遅れてしまうそうです」
「そう、律儀に連絡くださったのね」
「保憲様らしいですよね」
山吹と千尋はふふっと笑いあう。
すると、山吹は思い出したような顔をして千尋にお伺いを立てた。
「私もこの後用事がありまして、左之助の所に行かなくてはならないのです」
「そうね、山吹と左之助はこれから一緒になるのだもの。色々と忙しいわよね」
「私は明日の朝参りますけど、この後千の君様お一人で大丈夫ですか?」
「うん、保憲様もこの最後の書物を取りに来るだけだろうから、それほど時間もかからないだろうし…」
「準備は滞りなくやっておきますから、ご安心くださいね」
「ありがとう、山吹」
山吹も左之助も屋敷内の離れに住んでいるから、それほど問題は無いのである。
千尋は手にしている最後の書物を広げてみた。
それは、大津家に代々伝わってきた、陰陽道の書物の中でも一番古い物。
唐からの書物を先祖が書き写した物だった。
大津家の陰陽家としての歴史が終わろうとしている。
『私が男として生まれて来たならば、もっと未来まで続いたのだろうか?』
書庫で陰陽道の文献に触れる度に、女として生まれて来た自分を恨めしく思うこともあった。
「陰陽道は、女じゃ、どんなに勉強しても役に立つことは無いもんね…」
涙が一つポトリと落ちる。
それを振り払うように、外の景色を見つめる。
庭には夏の終わりのひぐらしの声が響いていた。
保憲が屋敷に来たのは、さらに夜の帳が落ち始めた頃だった。
山吹は先に言っていたように、保憲を部屋に案内した後、下がってしまい、灯台の灯りの中、部屋には保憲と千尋の二人だけになった。
几帳を介して対峙して座る。
「遅くなりまして…失礼します」
フワリと保憲の香が漂ってくる。
千尋は几帳越しに、保憲が書物を手に取る音を聞いていた。
「最後の書物は、先祖が唐の書物を書き写したもの…」
保憲が書物を広げる音を聞いていると、胸がツーンとなり切なくなった。
千尋は、この思いはいつかあの世に持っていこうと、思った。
「確かに、受け取らせていただきます」
『これでおしまいだ。もう保憲様とはお会いすることも無いだろう。せめて、笑顔で見送ろう』
そう思っていたのだが、保憲は中々立ち上がる気配が無い。
「?」
『ああそうか、いつもは山吹が見送ってくれていたんだっけ』
「保憲様、今夜は山吹がいないので、どうぞこのままお帰りください。賀茂家のご発展をお祈り申し上げます」
「……」
そう声掛けたが、まだ動く気配がしない。
二人の間にしばらく沈黙が続いた。
先に沈黙を破ったのは、意外にも保憲の方であった。
「あなたはこれからどうされるのですか?」
ドキリとしたが、言ってしまっても問題ないだろう。
「わ、私は…先祖からの所縁の寺で出家して余生を送るつもりで…」
千尋が言い終わる前に、保憲は几帳の布を払いのけて、千尋の目の前に立っていた。
「や…保憲様…」
保憲の目は千尋をじっと見つめている。
まるで目の奥に小さな炎が燃えているみたいだ。
慌てた千尋は扇を取り落してしまった。
そして、逃げようとした時、保憲に髪を掴まれてしまった。
「私は、本当は欲張りなのです。あなたの先祖からの知識をいただいたのに、それでもまだ欲しいと思ってしまうのです…あなたという存在も」
二人で床に倒れこむ。
「千尋という名の通り、あなたの先祖から続く千もの深い英知を手に入れたい」
保憲は千尋の耳元で囁く、
「あなただって同じ気持ちのはずですよ」
千尋は保憲の重さで動けない、自然と涙が浮かんできた。
「保憲様には北の方がいらっしゃるじゃないですか…」
いつも諦めてきた、いつも、自分に言い聞かせてきた思いが湧き上がってくる。
「あれは家同士の政略結婚ですから…」
耳元で保憲の吐息を感じる度に涙が溢れて止められない。
切ない思いが限界だと心が叫んでいた。
「あなたとあなたの知識は、この先、私の人生を支えてくれます…だから…」
千尋が欲しかった言葉、欲しかった思い、欲しかった存在…
呼吸をする度、千尋の体から抵抗する力が抜けていく。
そして、千尋は保憲の思いを受け入れた。
夜が明ける前、一番鳥が鳴く前に、保憲は千尋の屋敷を後にした。
「後できちんとお迎えに上がります」
と言い残して。
千尋はぼんやりと、昨夜のめくるめく時間を思い浮かべていた。
保憲の肌と千尋の肌が優しくこすれあう、温かさ、息遣い、心臓の鼓動…
もう後戻りはできない。
その後すぐに保憲からの文を山吹が持って来た。
「千の君様、これで良かったんです」
「山吹…」
「千の君様の苦しみは、私から見てもお辛そうでしたから…そして保憲様も同じ思いをお持ちでした」
まさかと千尋は驚いた。
山吹は微笑んで、
「いつもお帰りになられる度に、私に切ない思いを打ち明けていらしたんですよ」
「……」
「それに、千の君様には幸せになっていただきたいと左之助とも話しておりました」
それから数刻後、泣き笑いの表情のまま、千尋は保憲に文を返した。
遠い昔話。
一人の女人の人生が花開いた、そんなお伽話。
千尋としても、次にはどの資料をお渡ししようかと、選んだりすることが楽しくて、毎回保憲の訪れを心待ちにしていた。
季節は初夏を迎え、夏の盛りが迫ってきていた。
その日は、日が傾きかけた時間に、保憲はやってきて、千尋が用意した天文の記述の書物を広げて、星の話に盛り上がった。
「保憲様、星空は心星を中心に回っているように見えます」
千尋の北極星の話から始まって、保憲は五惑星の話をした。
五惑星とは、木星、火星、土星、金星、水星のことである。
「五行の精である五つの星は、鬼神を感じさせますよ。天地を動き回りますからね」
「はい」
千尋は、こんな風に星の話が出来ることが嬉しくて、声を張り上げてしまった。
保憲は口元を緩めて微笑む。
「木精の歳星は、天地人の三才を現します。いつも通りの明るさならば、国家は安寧なのです」
「広い海のような天の夜空に輝いている星にも、いろいろな光り方があるのですね」
「そうですね、いろいろな見方をするのです、光り方だけではないですよ。明けの明星、宵の明星と呼ばれる太白星などは、運行に乱れが無ければ天下が栄えると言われておりますから」
「星の運行ですか…」
千尋には果てしない天の夜空には、ありとあらゆる事が収められている気がした。
『保憲様は本当に凄いな』
千尋はいつにも増して保憲の知識の深さに羨望の眼差しを向けていた。
目の前の几帳など取り除いて、保憲の表情を直接見たいと思ってしまう。
いつまでもいつまでも傍で話を聞いていたかった。
最後に保憲は唐の古い言い伝えの話をしてくれた。
「昔昔、龍の背にまたがった黄帝がおりました。龍が天に舞い上がろうとすると、家臣達は先を争って龍の髭につかまりました。けれども、大勢がぶら下がり過ぎたため龍の髭が抜けて家臣達は大地に落ちてしまいました。
龍は黄帝を乗せたまま昇り続けて、ついに黄帝は軒轅という星になったと」
保憲は持っていた蝙蝠扇をすう~っと下から上に動かした。
「いまでもお空に?」
「ええ、輝いておりますよ」
千尋が目を輝かせて話すと、几帳越しに保憲が静かに笑った。
「天にはとてもたくさんの叡智がありますね。ああ、今日は長居をしてしまいました」
保憲は帰る素振りを見せた。
『このまま時が止まってしまえばいいのに…』
千尋の心のなかでは、複雑な思いが広がっていった。
保憲をこのまま帰らせたくない思いを必死で抑える。
「私は千尋という名なのです」
保憲が立ち去ろうとした時、伝えたい衝動を抑えきれなくなって、突然自分の名前を保憲に話した。
「私に名を明かしてしまってもいいのですか?」
『去り際にこんな事を話すなんて、保憲様は困った顔をしているかもしれないな』
女から名前を名乗るとはとてもはしたない事かもしれない…しかし、千尋は保憲に自分の名前を覚えておいて欲しいと切に願ってしまった。
それから保憲を見送るために山吹が灯りを手に出口まで誘導していった。
千尋の頭の中では、亡き祖父が最後に残した言葉が繰り返し思い起こされた。
『千尋、お前は女に生まれて来たけれど、とても賢い目をしている。我が一族に伝わる陰陽道の技も知識も、いつか役に立つ時が来るかもしれない。女であっても、先祖から受け継いだ血は誇りに思って欲しい…』
それからしばらくは、保憲の訪れはあまり無かった。
来たとしても、資料を受け取って帰る位のそんな軽い逢瀬だけだった。
暦道の得業生として優秀な人だと聞いていたので、陰陽寮の仕事が忙しいのだろう。
切ない思いが千尋の心をチクリと刺した。
「元々恋人同士なわけでもないのに、馬鹿だな…私」
千尋は一人呟いて苦笑した。
そして、夏の終わりのある日―
がらんとした書庫の中を見渡して、千尋は最後の書物を手に取った。
「これでおしまいか…」
なんとなく、少し寂しい気がした。
この書物を保憲に渡した後、千尋は所縁の寺に身を寄せるつもりだった。
住み慣れたこの屋敷も人手に渡す。
もう手配も済んでいる。
『これからの人生は出家して余生を静かに過ごしていこう』
この数か月間、保憲との楽しかった思い出と共に。
部屋に戻ると、山吹がいつものように几帳を立ててくれていた。
山吹は左之助と一緒になるという。
そして、賀茂家の方で使用人として働いていけることになり千尋は安堵していた。
皆、身の振りも決まった。
祖父はじめ、先祖からの膨大な知識であった文献も然るべき所に収まって、この先のお役にたっていくことだろう。
「千の君様、先ほど保憲様から伝言がございました」
「?」
「先の用を済ませてから来るとのことで、少し遅れてしまうそうです」
「そう、律儀に連絡くださったのね」
「保憲様らしいですよね」
山吹と千尋はふふっと笑いあう。
すると、山吹は思い出したような顔をして千尋にお伺いを立てた。
「私もこの後用事がありまして、左之助の所に行かなくてはならないのです」
「そうね、山吹と左之助はこれから一緒になるのだもの。色々と忙しいわよね」
「私は明日の朝参りますけど、この後千の君様お一人で大丈夫ですか?」
「うん、保憲様もこの最後の書物を取りに来るだけだろうから、それほど時間もかからないだろうし…」
「準備は滞りなくやっておきますから、ご安心くださいね」
「ありがとう、山吹」
山吹も左之助も屋敷内の離れに住んでいるから、それほど問題は無いのである。
千尋は手にしている最後の書物を広げてみた。
それは、大津家に代々伝わってきた、陰陽道の書物の中でも一番古い物。
唐からの書物を先祖が書き写した物だった。
大津家の陰陽家としての歴史が終わろうとしている。
『私が男として生まれて来たならば、もっと未来まで続いたのだろうか?』
書庫で陰陽道の文献に触れる度に、女として生まれて来た自分を恨めしく思うこともあった。
「陰陽道は、女じゃ、どんなに勉強しても役に立つことは無いもんね…」
涙が一つポトリと落ちる。
それを振り払うように、外の景色を見つめる。
庭には夏の終わりのひぐらしの声が響いていた。
保憲が屋敷に来たのは、さらに夜の帳が落ち始めた頃だった。
山吹は先に言っていたように、保憲を部屋に案内した後、下がってしまい、灯台の灯りの中、部屋には保憲と千尋の二人だけになった。
几帳を介して対峙して座る。
「遅くなりまして…失礼します」
フワリと保憲の香が漂ってくる。
千尋は几帳越しに、保憲が書物を手に取る音を聞いていた。
「最後の書物は、先祖が唐の書物を書き写したもの…」
保憲が書物を広げる音を聞いていると、胸がツーンとなり切なくなった。
千尋は、この思いはいつかあの世に持っていこうと、思った。
「確かに、受け取らせていただきます」
『これでおしまいだ。もう保憲様とはお会いすることも無いだろう。せめて、笑顔で見送ろう』
そう思っていたのだが、保憲は中々立ち上がる気配が無い。
「?」
『ああそうか、いつもは山吹が見送ってくれていたんだっけ』
「保憲様、今夜は山吹がいないので、どうぞこのままお帰りください。賀茂家のご発展をお祈り申し上げます」
「……」
そう声掛けたが、まだ動く気配がしない。
二人の間にしばらく沈黙が続いた。
先に沈黙を破ったのは、意外にも保憲の方であった。
「あなたはこれからどうされるのですか?」
ドキリとしたが、言ってしまっても問題ないだろう。
「わ、私は…先祖からの所縁の寺で出家して余生を送るつもりで…」
千尋が言い終わる前に、保憲は几帳の布を払いのけて、千尋の目の前に立っていた。
「や…保憲様…」
保憲の目は千尋をじっと見つめている。
まるで目の奥に小さな炎が燃えているみたいだ。
慌てた千尋は扇を取り落してしまった。
そして、逃げようとした時、保憲に髪を掴まれてしまった。
「私は、本当は欲張りなのです。あなたの先祖からの知識をいただいたのに、それでもまだ欲しいと思ってしまうのです…あなたという存在も」
二人で床に倒れこむ。
「千尋という名の通り、あなたの先祖から続く千もの深い英知を手に入れたい」
保憲は千尋の耳元で囁く、
「あなただって同じ気持ちのはずですよ」
千尋は保憲の重さで動けない、自然と涙が浮かんできた。
「保憲様には北の方がいらっしゃるじゃないですか…」
いつも諦めてきた、いつも、自分に言い聞かせてきた思いが湧き上がってくる。
「あれは家同士の政略結婚ですから…」
耳元で保憲の吐息を感じる度に涙が溢れて止められない。
切ない思いが限界だと心が叫んでいた。
「あなたとあなたの知識は、この先、私の人生を支えてくれます…だから…」
千尋が欲しかった言葉、欲しかった思い、欲しかった存在…
呼吸をする度、千尋の体から抵抗する力が抜けていく。
そして、千尋は保憲の思いを受け入れた。
夜が明ける前、一番鳥が鳴く前に、保憲は千尋の屋敷を後にした。
「後できちんとお迎えに上がります」
と言い残して。
千尋はぼんやりと、昨夜のめくるめく時間を思い浮かべていた。
保憲の肌と千尋の肌が優しくこすれあう、温かさ、息遣い、心臓の鼓動…
もう後戻りはできない。
その後すぐに保憲からの文を山吹が持って来た。
「千の君様、これで良かったんです」
「山吹…」
「千の君様の苦しみは、私から見てもお辛そうでしたから…そして保憲様も同じ思いをお持ちでした」
まさかと千尋は驚いた。
山吹は微笑んで、
「いつもお帰りになられる度に、私に切ない思いを打ち明けていらしたんですよ」
「……」
「それに、千の君様には幸せになっていただきたいと左之助とも話しておりました」
それから数刻後、泣き笑いの表情のまま、千尋は保憲に文を返した。
遠い昔話。
一人の女人の人生が花開いた、そんなお伽話。
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