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第二章 十月の修羅場

誘拐事件2

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 ──知らないで引き受けたの? バカなの?

 九月の終わり。ルナはそう言った。
 三ヶ月の試用期間で優秀と認められたら、どうやら私は本当にママになってしまうらしい。

 しかし、どんな事にも順序というものがある。
 私は、ちゃんと順を追いたい人間だ。

 アレルギーは克服したいけど……合格しちゃったらどうしよう。

 煮干しの袋をローテーブルに放り、テレビをつける。
 ちょうどお昼のニュースが始まったところだった。


 【この地方のニュースをお伝えします。
 生後三ヶ月の女の赤ちゃんが行方不明になっています。
 赤ちゃんは先月二十七日の午前十一時半頃、母親に連れられて『ララマート◯◯町店』内の衣料品店を訪れており、母親が品物を手に取っている隙にベビーカーごと連れ去られたとみられています。
 警察は、誘拐事件とみて捜査を続けています。
 なお、現在身代金の要求はなく……】


 麻由子が「えっ」と息を飲んだ。
 赤ちゃんの連れ去りという衝撃的なニュースに私も釘付けになる。
 麻由子の肩の上で、ルナが「ぐえぇ」と盛大なげっぷをした。

 佐山は放られた煮干しの袋を無表情で見つめており、その心中は定かでない。
 しかし、テレビの音は耳に入っているはずである。

 テレビに事件現場となった衣料品店が映し出された。
 赤ちゃんや子供の服を扱う売り場だ。

 「あれ?」

 棚の配置やマネキンに着せられた服に、どうも見覚えがある。
 直後、心臓がキュッと縮み上がった。

 「いやだ、私たちが行った店! しかも同じ日! ねぇ、ルナ」

 ルナは、麻由子の腕の中であくびをする。

 「んー、そうだっけ?」

 「まったく。あんたは呑気なんだから」

 ルナ語が分からない麻由子たちはポカンとしているが──。
 九月二十七日。確かに買い出しに行った日だ。
 あれはお昼前のこと。事件発生の時間と被る。

 あの時、誘拐犯も同じフロアにいたのだ。

 ゾッとした。私の説明に、麻由子も蒼ざめている。
 生後三ヶ月といえばルナと同じくらいか。
 家族はどんな思いでいることだろう。
 眠そうに指をしゃぶるルナを視界の端に捉えつつ、ふとある考えが頭をもたげた。

 誘拐──。

 私が今していることも、同じようなことではないのか。
 結局、警察には連絡しなかった。

 でも。

 軽く頭を振って、浮かんだ二文字を打ち消す。
 ルナは自分の意思でここに居るのだ。
 分かり切ったことなのに、広くない部屋にが急に冷え冷えとしてきた。

 問題は、「ここに居る」という意思表明をしたのがだということだ。
 ルナはベビーである。
 私以外の人物に、ルナの言葉は聞こえない。
 何かで説明を求められた時、ルナの意思など確認しようがないのである。

 そして。この奇妙な状況を証明できるのは、たった一片の紙だけ。

 【この子を預かってください。
 三ヶ月後、あなたに審判が下されます】

 差出人も書かれていない紙。
 
 忘れもしない。九月二十五日。
 昌也が残された荷物を持って帰った数分後。
 ひょうと一緒にルナがやって来た。
 そして。まるでルナが携えてきたかのように、その紙はいつの間にか私の部屋に在った。

 ソファの背もたれと座面の間。
 二十五日に麻由子が来てくれた時、そこに慌てて隠した一片の紙。
 今は確認できない。一人にならないと。

 思考の海から徐々に現実に引き戻され、耳にテレビの音が入ってきた。
 ワイドショーが始まっている。
 いつにも増して、内容は頭に入ってこなかった。
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