24 / 130
第二章 十月の修羅場
大家と住人1
しおりを挟む
麻由子が帰ると言い出した。
子どもたちを幼稚園に迎えに行くのだ。
ついでに、私もルナと散歩に出ることにした。
そうすれば、必然的に佐山も帰ってくれるだろう。
佐山贔屓のルナは口をすぼめて「んぶぅ」と唸り、短い足を忙しなく動かし始める。
抗議のつもりであろうが、どうせ佐山だってこの後は仕事なのだ。
夜まで開いているペットショップが勤務先なので、早番と遅番があるらしい。
ちょっと気分転換もしたかった。
誘拐事件のニュースのせいで、胸がザワついている。
ルナの持ち運び(?)には未だかなり神経を使うが、何とか乳母車に乗せて外へ出た。
『ベビーカー』ではない。『乳母車』だ。
今風の乗り心地良さそうなシートではなく、でっかいカゴがついている。
レトロと言えば聞こえは良いが、ただボロいだけである。
このアパートの大家に借りた物だ。
先日の買出しも、この乳母車を転がして行った。
私には、これくらいが丁度良い。
ベビー片手にお買い物とか、器用にベビーカーを押しながら荷物を持つとか。私にはできないのだ。
でかいカゴが付いていれば、ルナも荷物も乗せられる。
車なしの生活を送る私には必需品だ。ただし。
大きなショッピングセンターを回るには、少々勇気が要る。
麻由子と別れて少し歩いたところで足が止まった。
ルナが「あぅ」声を上げるのを、シィッと制する。
数メートル先に大家がいる。
ご近所さんとお喋りに夢中だ。
挟間道代。
アパートの大家だ。
常に纏うのは、厚塗りの化粧と香水が混じり合った刺激臭。
三度の飯より住人たちのゴシップを好む。
最近の口癖は。
「来年、還暦なのよぉ。やんなっちゃうぅ」
とてもそんな風には見えませんよぉ、と言ってもらいたい感じが見え見えである。
ルナを預かって間もなく、道代は私を訪ねてきた。
上階に住む女。確か佐山が「辻島さん」と呼んでいたが、大家にもしっかり苦情の連絡を入れていたのだ。
道代は、半信半疑で私のところへ確認に来た。
事情を話すと、道代は「んまぁ!」と叫んで両手を口に当てた。
ハムのような腕に嵌った三連の輪っかが、ジャラリと不快な音をたてる。
「赤ちゃんて言うから、てっきり彼とご結婚されたのかと思ったわぁ」
「でも宮原さん偉いわぁ。
小さい子を預かるなんて、なかなかできることじゃありませんよ」
「あなただって良いお歳なんだから、自分の子を育てたいわよねぇ」
これだ。
褒めてるようで、結局嫌味を言っている。
この感じが、いつも私の気分を重くさせるのだ。
私は顔面に作り笑顔を貼り付けて、時が経つのをひたすら待った。
こういう相手は、真剣に話を聞いたら負けである。
バレない程度に目線を下げるのだ。
そうしたら、派手な服が目に入る。
シャラシャラの黒い生地に、蛍光色のペンキをぶちまけたようなデザイン。
どこに売っているのか。
ともかく。その時、道代が持ってきたのがこの乳母車だ。
今はすっかり大人になった息子が、幼い頃に乗っていたとか。
付き合いにくい大家だが、乳母車の件だけはありがたい。
こっそり乳母車をターンさせ、別の道の角を曲がる。
捕まるのは面倒だ。
「あ、ねえ。ちょっと、あんた。宮原さん」
角を曲がってすぐ、すれ違った女性に声をかけられた。
振り返ったものの戸惑ってしまう。どう考えても見覚えのない女性だ。
「私よ私。上階に住んでる、辻島」
まったく分からなかった。
「すみません! 気がつかなくて」
この辻島という女性、以前苦情を言いに来た時と随分イメージが違う。
「今、メイクしてないからさ。仕事前で」
辻島は、人差し指でポリポリと頬を掻いた。
ロングカーディガンにデニムというラフな服装で、コンビニのビニール袋を提げている。
こちらの方が印象が良い。
「あの、いつも騒がしくてすみませ……」
「それよりさぁ!」
辻島は日頃の迷惑を詫びようとする私を遮り、にんまり笑った。
「あんた、佐山クンと付き合ってんの?」
は──!?
子どもたちを幼稚園に迎えに行くのだ。
ついでに、私もルナと散歩に出ることにした。
そうすれば、必然的に佐山も帰ってくれるだろう。
佐山贔屓のルナは口をすぼめて「んぶぅ」と唸り、短い足を忙しなく動かし始める。
抗議のつもりであろうが、どうせ佐山だってこの後は仕事なのだ。
夜まで開いているペットショップが勤務先なので、早番と遅番があるらしい。
ちょっと気分転換もしたかった。
誘拐事件のニュースのせいで、胸がザワついている。
ルナの持ち運び(?)には未だかなり神経を使うが、何とか乳母車に乗せて外へ出た。
『ベビーカー』ではない。『乳母車』だ。
今風の乗り心地良さそうなシートではなく、でっかいカゴがついている。
レトロと言えば聞こえは良いが、ただボロいだけである。
このアパートの大家に借りた物だ。
先日の買出しも、この乳母車を転がして行った。
私には、これくらいが丁度良い。
ベビー片手にお買い物とか、器用にベビーカーを押しながら荷物を持つとか。私にはできないのだ。
でかいカゴが付いていれば、ルナも荷物も乗せられる。
車なしの生活を送る私には必需品だ。ただし。
大きなショッピングセンターを回るには、少々勇気が要る。
麻由子と別れて少し歩いたところで足が止まった。
ルナが「あぅ」声を上げるのを、シィッと制する。
数メートル先に大家がいる。
ご近所さんとお喋りに夢中だ。
挟間道代。
アパートの大家だ。
常に纏うのは、厚塗りの化粧と香水が混じり合った刺激臭。
三度の飯より住人たちのゴシップを好む。
最近の口癖は。
「来年、還暦なのよぉ。やんなっちゃうぅ」
とてもそんな風には見えませんよぉ、と言ってもらいたい感じが見え見えである。
ルナを預かって間もなく、道代は私を訪ねてきた。
上階に住む女。確か佐山が「辻島さん」と呼んでいたが、大家にもしっかり苦情の連絡を入れていたのだ。
道代は、半信半疑で私のところへ確認に来た。
事情を話すと、道代は「んまぁ!」と叫んで両手を口に当てた。
ハムのような腕に嵌った三連の輪っかが、ジャラリと不快な音をたてる。
「赤ちゃんて言うから、てっきり彼とご結婚されたのかと思ったわぁ」
「でも宮原さん偉いわぁ。
小さい子を預かるなんて、なかなかできることじゃありませんよ」
「あなただって良いお歳なんだから、自分の子を育てたいわよねぇ」
これだ。
褒めてるようで、結局嫌味を言っている。
この感じが、いつも私の気分を重くさせるのだ。
私は顔面に作り笑顔を貼り付けて、時が経つのをひたすら待った。
こういう相手は、真剣に話を聞いたら負けである。
バレない程度に目線を下げるのだ。
そうしたら、派手な服が目に入る。
シャラシャラの黒い生地に、蛍光色のペンキをぶちまけたようなデザイン。
どこに売っているのか。
ともかく。その時、道代が持ってきたのがこの乳母車だ。
今はすっかり大人になった息子が、幼い頃に乗っていたとか。
付き合いにくい大家だが、乳母車の件だけはありがたい。
こっそり乳母車をターンさせ、別の道の角を曲がる。
捕まるのは面倒だ。
「あ、ねえ。ちょっと、あんた。宮原さん」
角を曲がってすぐ、すれ違った女性に声をかけられた。
振り返ったものの戸惑ってしまう。どう考えても見覚えのない女性だ。
「私よ私。上階に住んでる、辻島」
まったく分からなかった。
「すみません! 気がつかなくて」
この辻島という女性、以前苦情を言いに来た時と随分イメージが違う。
「今、メイクしてないからさ。仕事前で」
辻島は、人差し指でポリポリと頬を掻いた。
ロングカーディガンにデニムというラフな服装で、コンビニのビニール袋を提げている。
こちらの方が印象が良い。
「あの、いつも騒がしくてすみませ……」
「それよりさぁ!」
辻島は日頃の迷惑を詫びようとする私を遮り、にんまり笑った。
「あんた、佐山クンと付き合ってんの?」
は──!?
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
潮に閉じ込めたきみの後悔を拭いたい
葉方萌生
ライト文芸
淡路島で暮らす28歳の城島朝香は、友人からの情報で元恋人で俳優の天ヶ瀬翔が島に戻ってきたことを知る。
絶妙にすれ違いながら、再び近づいていく二人だったが、翔はとある秘密を抱えていた。
過去の後悔を拭いたい。
誰しもが抱える悩みにそっと寄り添える恋愛ファンタジーです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
☘ 累計ポイント/ 180万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる