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第三章 十一月の受難
奈落1
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──最悪の事態だ。
──まさか、他の者の手に渡ってしまうとは。
また例の夢……。
知らない間にうとうとしてしまったらしい。
同時に、いつも夢に出てくる靄が消えた。
鈍いながらも頭が働き始めると、パイプ椅子の固さが腰に伝わってきた。
狭い取調室。
事務机に置かれた電気スタンドが扇状に周辺を照らし、目を凝らせば光の中に細かな埃が舞っている。
部屋を空けていた小山内が戻ってきた。
無言で私の向かいに腰掛けると、事務机の上で節くれだった指を組む。
小山内の後ろには林が控え、別の署員がもう一つの小さな机でノートパソコンに向かっている。
「今……何時ですか? ルナは」
声が掠れた。
ルナのことを思い出すと気が急いてくる。
取り調べは、苛烈を極めていた──。
そろそろ限界だった。
フワフワと目眩がして呂律が回らない。
捜査が私のところまで及んだのは、やはり第三者からの通報だった。
写真が公開されたからだ。
ルナを見かけた誰かが、梨奈ちゃんだと思い込んだのだろう。
私の内偵を進めるとともに、事件が起こったショッピングセンターの防犯カメラが再調査された。
九月二十七日、事件当日。
まさに梨奈ちゃんが拐われた、その時間に。
買い物帰りの私がバッチリ映っていた。
たまたま現場に居合わせたことが、確固たる証拠として立ちはだかる。
ルナの服を数点買い求めただけだ、という説明は聞き入れられなかった。
警察の認識では、ルナは梨奈ちゃんなのだ。
それでも違う。
ルナは梨奈ちゃんじゃない。
しかし──。
では、ルナは何者か。
そう問われても明確な受け答えはできない。
私とルナの間に、証明できる繋がりは無い。
そのことが、取り調べの厳しさに拍車をかけていた。
圧倒的に不利な状況で繰り返される問答に、私の精神は急激に消耗していく。
あれから何時間経ったのか。
ずっとここに閉じ込められたままだ。
疲労とともに焦りが募った。
ルナ。
今、どこでどうしている?
心細くはないか、腹が減ってはいないか、眠れているのか。
水が枯れた砂漠の如き心中に去来するのは、引き離される直前の声だ。
私だけには分かる。ルナが何を言っていたか。
──怖いよ……絵美ぃ!
あの子を目の当たりにしたら、岩崎家は疑うことなくルナを迎えてしまうに違いない。
娘が帰ってきたと思い込んで。
この感覚は何だろう。
胸の中に、氷が張っていくみたいな──。
目の前が暗いのは、誘拐の疑いをかけられているからではない。
ルナがいないからなのだ。
どうして今さら、こんなことに気づくんだろう。
胸の中の、こんなに多くをルナが占めているなんて。
生意気なチビのくせに。
会いたい。
会わなきゃ。ルナ。
闇の淵を掴むような思いで顔を上げた。
目の前に小山内の顔がある。
薄暗い部屋の中、彼の顔は半分翳っていた。
「ねえ、宮原さん。
よぉく、考えなよ?」
また始まる。
恐怖の時間の幕が上がる。
ただ喚き散らす林より、老練な小山内の取調べは数段苛烈だ。
その度に、私の神経は擦り減っていく。
「その歳なら、まだまだやり直しが効く」
あれ? 思ったより当たりが弱い。
「あんたのためなんだ。
我々もねぇ、厳しくしたくてしてるんじゃないんだよ」
突然の優しい声音に涙腺が緩んだ。
私のため。
今までのは、私のためだったの?
「疲れたろう。
ゆっくりでいいから、よぉく思い出してごらん」
小山内は、労わるような表情でゆっくりと言葉を継ぐ。
私のために力を尽くしてくれていたんだ。
怖いけど、それは人のためになる厳しさだったんだ。
小山内に対して、尊敬の念すら湧いてきた。
──まさか、他の者の手に渡ってしまうとは。
また例の夢……。
知らない間にうとうとしてしまったらしい。
同時に、いつも夢に出てくる靄が消えた。
鈍いながらも頭が働き始めると、パイプ椅子の固さが腰に伝わってきた。
狭い取調室。
事務机に置かれた電気スタンドが扇状に周辺を照らし、目を凝らせば光の中に細かな埃が舞っている。
部屋を空けていた小山内が戻ってきた。
無言で私の向かいに腰掛けると、事務机の上で節くれだった指を組む。
小山内の後ろには林が控え、別の署員がもう一つの小さな机でノートパソコンに向かっている。
「今……何時ですか? ルナは」
声が掠れた。
ルナのことを思い出すと気が急いてくる。
取り調べは、苛烈を極めていた──。
そろそろ限界だった。
フワフワと目眩がして呂律が回らない。
捜査が私のところまで及んだのは、やはり第三者からの通報だった。
写真が公開されたからだ。
ルナを見かけた誰かが、梨奈ちゃんだと思い込んだのだろう。
私の内偵を進めるとともに、事件が起こったショッピングセンターの防犯カメラが再調査された。
九月二十七日、事件当日。
まさに梨奈ちゃんが拐われた、その時間に。
買い物帰りの私がバッチリ映っていた。
たまたま現場に居合わせたことが、確固たる証拠として立ちはだかる。
ルナの服を数点買い求めただけだ、という説明は聞き入れられなかった。
警察の認識では、ルナは梨奈ちゃんなのだ。
それでも違う。
ルナは梨奈ちゃんじゃない。
しかし──。
では、ルナは何者か。
そう問われても明確な受け答えはできない。
私とルナの間に、証明できる繋がりは無い。
そのことが、取り調べの厳しさに拍車をかけていた。
圧倒的に不利な状況で繰り返される問答に、私の精神は急激に消耗していく。
あれから何時間経ったのか。
ずっとここに閉じ込められたままだ。
疲労とともに焦りが募った。
ルナ。
今、どこでどうしている?
心細くはないか、腹が減ってはいないか、眠れているのか。
水が枯れた砂漠の如き心中に去来するのは、引き離される直前の声だ。
私だけには分かる。ルナが何を言っていたか。
──怖いよ……絵美ぃ!
あの子を目の当たりにしたら、岩崎家は疑うことなくルナを迎えてしまうに違いない。
娘が帰ってきたと思い込んで。
この感覚は何だろう。
胸の中に、氷が張っていくみたいな──。
目の前が暗いのは、誘拐の疑いをかけられているからではない。
ルナがいないからなのだ。
どうして今さら、こんなことに気づくんだろう。
胸の中の、こんなに多くをルナが占めているなんて。
生意気なチビのくせに。
会いたい。
会わなきゃ。ルナ。
闇の淵を掴むような思いで顔を上げた。
目の前に小山内の顔がある。
薄暗い部屋の中、彼の顔は半分翳っていた。
「ねえ、宮原さん。
よぉく、考えなよ?」
また始まる。
恐怖の時間の幕が上がる。
ただ喚き散らす林より、老練な小山内の取調べは数段苛烈だ。
その度に、私の神経は擦り減っていく。
「その歳なら、まだまだやり直しが効く」
あれ? 思ったより当たりが弱い。
「あんたのためなんだ。
我々もねぇ、厳しくしたくてしてるんじゃないんだよ」
突然の優しい声音に涙腺が緩んだ。
私のため。
今までのは、私のためだったの?
「疲れたろう。
ゆっくりでいいから、よぉく思い出してごらん」
小山内は、労わるような表情でゆっくりと言葉を継ぐ。
私のために力を尽くしてくれていたんだ。
怖いけど、それは人のためになる厳しさだったんだ。
小山内に対して、尊敬の念すら湧いてきた。
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