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第三章 十一月の受難

再会4

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 ***


 「なにそれ、酷い!」

 「何という杜撰な。
 自白に追い込んで全てをこじつけるつもりだったのですか」

 突っ伏していても声だけは聞こえる。
 佐山と冴子さんが林に詰め寄っている。

 「早く休ませた方がいい。
 赤ちゃんも慣れない環境にいたんだ。可哀想でしょう」

 「俺に言われましても。
 上の判断なんで」

 早く帰りたいのは私も同感だった。
 無実の人間を執拗に取り調べておいて、この対応は誠意あるものとは言い難い。
 私とてはらわたが煮えくり返る思いだが、今は身体的疲労の方が勝っている。
 冷静な佐山がいてくれることが心強かった。


 「おい」


 空気がピリッとした。
 初め、それが佐山の声だとは思えなかった。

 「あんたら、何をしたか分かっているのか?」

 「っすぉ」

 林が奇声を発した。
 ビビるとおかしな声が出るらしい。

 それくらい、佐山の声は場に緊張感を与えていた。
 抑えた声なのに迫力がある。

 私は突っ伏したまま目だけ開けた。
 顔を上げて空気を動かすことも躊躇われた。

 佐山がそれ以上多くを語らずとも、林には充分らしい。

 二十分ほど後。
 私たちは、警察署前を囲んでいた報道陣が会見のため一斉に建物に入った隙に、裏門から出してもらった。


 部屋を出る前、小山内と林は深々と頭を下げた。
 私はおもむろに湯呑みを手に取ると、冷めた緑茶を二人に浴びせ……るところを想像した。
 直前まで、本当にやってやろうと思っていた。

 でも、二つ並んだ頭を見たら力が抜けた。

 事件解決の遅れや犯人が近い距離に潜んでいたことを考えれば、記者会見では鋭い質問を浴びることになるだろう。


 久々の晴れ間。
 空気が澄んでいる。
 風がさぁっと吹き過ぎて、首筋の冷たさに身を縮めた時だった。

 「どうぞ」

 背中から何かがバサッと覆い被さってきた。
 佐山のダウンコート。
 佐山はシャツ一枚になってしまう。

 「あ、大丈夫ですから佐山さん着てください」

 「その格好、目立つのでは」

 はたと気づいて自分の服装を確認する。

 「やだ、エプロン!」

 所々赤いシミのついたエプロンを着けたままだった。
 着の身着のまま出てきたのだ。
 佐山の厚意に甘えることにする。

 「……ありがとうございます」

 コートのことだけじゃないんだ。
 言いたいことは、たくさんあるのに。

 継ぐべき言葉を探すうち、佐山の方が先に口を開いた。

 「いいえ」

 「そうだわ。佐山さん、お仕事は?」

 「ああ。半日だけ休みをもらいました。
 まだ風邪ということにして」

 「ご、ごめんなさい」

 佐山は「いえ」と短く答えると、少し口角を上げて前を歩き出す。
 ルナの乳母車を押していく。

 ルナもようやく緊張が解けてきたのか、声が出始めた。
 アパートまで、バス停三つ分ほど歩かなければならない。

 佐山のダウンコートには温もりがあって、この距離も辛くはなさそうだった。
 彼の体温。あったかい。

 「ごめんなさいね。
 お邪魔虫がいて」

 冴子さんが隣でニヤニヤしている。
 彼女は、連行される時にちゃっかりコートを持って出たらしい。
 ファー付きで暖かそうだ。

 「あんな佐山クン、初めて見た」

 冴子さんは、そう言って両手をポケットに突っ込んだ。
 佐山が林に詰め寄った時のことを言っているのだろうか。

 「絵美ちゃんのこと、すごく心配だったのね」

 「ル、ルナのことじゃないかな。
 子ども好きって言ってたから」

 「そ?」

 冴子さんは意味深に笑ったけれど、それ以上何も言わなかった。



 青い空に、ぽっこり浮かぶ雲を見上げると目が沁みる。
 何でこんな朝に万引きなんかしたんだろう、犯人は。
 
 警察も私も、結局は犯人の女に踊らされていただけではないか。

 女があと一日早く万引きをしていたなら──。
 どうだっただろう。

 女の人物像はハッキリしない。
 “女”であるということ以外は。

 ただ。一つだけ断言できることがある。


 彼女はベビー・アレルギーではない。


 保護された梨奈ちゃんは元気な様子だったと聞いた。
 誘拐の動機は──。大体想像がつく。

 身勝手な。
 じわじわと怒りが湧いてくる。

 しかし、多くの人を巻き込み心を乱した事件であるにも関わらず、私の怒りは爆発的な勢いをもたなかった。
 ただ、やるせなかった。


 どんな女なんだろう。


 ごうっと音をたてて、冷たい風が落ち葉を巻き上げた。
 青い空に吸い込まれていく紅い枯葉を、私はしばらく眺めていた。

 
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